41.
(……岩の神さま……?)
一瞬、意識がなくなって、目が覚めたのかと思いきや、辺りは先も見えないほど真っ暗な闇に包まれていた。
意識ははっきりしている。といっても、目を開けている感覚はない。閉じることも、まばたきをすることもできない。手も足も見えないし、そもそも、それらが存在するかどうかすら怪しい。声を出そうとしても口は動かず、ただ、周囲の暗闇と自分の思考だけは感じる、それだけの状態で小姫は在った。
(もしかして、ここがセイちゃんの意識の中……?)
心の中で尋ねても返事はない。
ここはどこなのか。これからどうすればいいのか。自分はどういう状態なのか。
考え始めると、怖くなった。体が無いことがこんなに不安なんて。一瞬でも考えることをやめたら、そのまま宙に溶けて存在ごと消えそうだ。
(――っ、今はそんなこと、考えちゃだめ……!)
恐怖に竦んでいる場合ではない。小姫はそれらのことを頭の隅に追いやり、セイを探し出すことだけに集中することにした。
(セイちゃん。セイちゃん。……どこにいるの? いたら、返事して)
セイに聞こえているのかもわからないし、大体、自分がどこに向かって呼びかけているのかもわからない。暗闇の先に進みたいが、周りの景色が変わらないので、動いているという実感もない。
一度しか機会がないのに、どうしたら。焦りを必死に押し殺し、ひたすら叫んでいると、どこからか、返事が聞こえた。
(……小姫……?)
(! セイちゃん!?)
どこからだろう。声の出所を探したいが、上も下も闇だらけだ。それに、聞こえた声も、本当の声ではない気がする。空気を震わすのではなく、頭に直接呼びかけられているような。すぐ耳元で囁かれているようでも、気の遠くなるほどの距離から呼びかけられているようでもある。
小姫は周囲を見渡しているつもりで、セイを探した。しかし、辺りに変化はない。だが、また、ぽつりとセイの声が響いた。
(おかしいな……、ここは湖の底なのに。……ああ、これは夢かな。深い眠りに入る前の、懐かしくて心地いい、優しい夢……)
(え……)
小姫は、耳を疑った。動きを止め、呆然と今の声を思い起こす。
セイの声は、あまりにも穏やかだった。安穏とした眠りにまどろむ、幸せそうな声だった。自分はとんでもない間違いを犯そうとしているのではないか。小姫がそんな風に思い返してしまうほど、安らかな声だった。
――封印されていれば、苦しむことなく、安らかになれる……。
乙彦の言葉を思い出す。だが、同時に、自分の決意も思い出した。
セイが本当に眠りたいのか、そうでないのか。彼の本当の思いを、確かめるためにここに来たのだ。
(……違うよ、セイちゃん)
だから、小姫は、セイの思い違いを訂正する。
(迎えに、来たんだよ。夢じゃなくて、現実に戻ろう、セイちゃん)
(…………)
セイの返事は聞こえない。
もしかして、眠ってしまったのだろうか。小姫は焦って、続けた。
(セイちゃん、言ったよね? 学校に行ってみたいって。人と仲良くしてみたいって。それ、もしかしたら叶うかもしれない。だから、諦めなくていいんだよ。今度こそ、私が側にいるから。だから、一緒に戻ろう、セイちゃん)
(…………)
やはり、返事はない。
ありもしない汗が背筋をつたう気がした。
せっかく、乙彦が、岩の神がくれた機会なのに。話し合うどころか、彼の元へたどり着くことすらできないのか。何もできないまま、セイを一人にしてしまうのだろうか。
(セイちゃん。返事をして。セイちゃん……!?)
何度も心の中で呼び掛ける。どうしたらセイは返事をしてくれるのか、必死に考えていると、また、ぽつりと声が聞こえた。
(……もう、いいんだ。もう、疲れたんだ……。お前も、もう俺のことは忘れろ。なかったことにしろ……)
(! セイちゃん……! そんなこと、できないよ!)
(静かに、してくれ……。もう、眠りたいんだ。……苦しみたくない……。傷つきたくない……。もう、充分なんだよ。眠らせてくれ……)
(――っ、だって……!)
のどなんかないはずなのに、言葉がつかえた。小姫は叫ぶようにして、頭の中で声を張り上げた。
(私、知ってるから……、セイちゃんが、本当に望んでること! 一人ぼっちは、もう嫌だって言ったじゃない! 花や木が好きだって言ったでしょ!? こんな暗い中で、何も見えない中で、セイちゃんを一人にはしておけない……! 私が、そうしたくないの!)
(…………)
(もう一度だけ、信じてみて! 本当に望んでること、心の中で思ってみて! 人はもう、食べたくないんでしょ? セイちゃんが心底そう思ってるなら、その記憶は忘れられる。木や、花や、香りが大好きなセイちゃんに、戻れるかもしれないんだよ!?)
(…………)
今度は、先ほどまでと違って、小姫の言葉の意味を考えているような気配があった。焦がれるような思いで待っていると、幾分かはっきりした声音で、セイが答えた。
(あいつらを喰ったこと、俺は忘れたくないよ)
(……えっ……?)
(あいつらのこと、忘れたくない)
――……。
思ってもみなかった言葉に、小姫は絶句した。頭の中が文字通り真っ白になって、何も言葉が思いつかない。
(なんでって、思うか? 人を喰いたくないって言ったくせに、なんでって。……でもさ、俺しか覚えてないんだよ。苦しんで、化け物に懇願するほど苦しんで、最期は俺に喰われたあいつらのこと。人に、家族に、親戚に、主人に、要らないと言われ、いないものとして扱われ、そうしてみじめで無残な最期を遂げたこと。忘れてやれって、お前は思うかもしれない。でもさ、それも、あいつらが生きた証だろ。俺が喰って、俺の血肉の一部になって、俺の力になってくれた。あいつらはちゃんと存在していたんだ。最後の最後までちゃんと生きていた。会話をしたやつは、ひとりひとり覚えてるよ。言葉のしゃべれない赤ん坊もいたけどな。……俺が忘れたら、あいつらのことを覚えているやつはもういないんだ。なかったことになっちまう。だから、俺は忘れたくない)
(――……)
二の句が継げない小姫に、セイが笑った気がした。
(小姫、お前は友達ができたんだろ。家族もいて、あの河童もいて、幸せなんだろ。封印から覚めてお前たちを見たとき、むかついたけど……、でも、ほんとはちょっと嬉しかったんだ。ほっとしたよ。お前が言う通り、俺はお前を信じていなかった。あの時、お前が俺を陥れたんだと、勝手に思い込んだ。……そんなの、友達じゃないよな。少なくとも、俺が憧れていた友達じゃなかった。……だから、お前が幸せそうで、それを見て嬉しく思えて、ほんのちょっとだけでもお前の友達をやれたことに、ほっとしたんだよ)
(セイちゃん……)
小姫も泣きそうになりながら、セイにつられて笑った。
(私もだよ。私も、セイちゃんの友達になれてなかった。さっき、やっと気づいたんだ。セイちゃんの様子がおかしいって思ったのに、私、なぜなのか考えなかった。勝手に怯えて、見ないふりしてた。でも、それって、違うよね。セイちゃんの話、聞いてなかったのは私だった。私、セイちゃんのこと、ちゃんと知りたい。ちゃんと話を聞いて、わかり合いたい。そうして、本当の友達になりたい)
(……小姫……)
(十年も経って、ようやく気付いたよ。もし、許してくれるなら、もう一度、友達になって。たくさん話をして、たくさん喧嘩をして、今度こそ、友達になろう? ……そうしたら、きっと――)
……きっと、寂しくない。
そう言おうとしたとき、強いめまいに襲われた。否、暗闇しかない空間が揺れているのだ。嫌な予感に、小姫は息を飲んで様子を伺う。
(――娘。もう終わりだ)
揺れの中で、岩の神の声がした。小姫はびくりとして、上方へ視線をやる。
(深追いはするなと言っただろう)
(! 待って。待ってください……!)
(時間切れだ)
(待って……!)
(……小姫……?)
急に、意識が上に引っ張られる感じがした。すごい勢いで、セイから引き放されていく。
(失敗だ。鴉の考えは理解しただろう)
(――っ、それは……!)
確かに、人食いの記憶を失いたくないとセイは言った。だが、もう少し。もう少し、時間があれば……。
説得するわけではない。本当の思いを引き出し、セイを連れ戻せる糸口が、もう少しで掴めそうな気がしたのに。
(――許せ。我の力も、もう持たぬ)
すまなそうな岩の神の声を聞いて、小姫は下に意識を向けた。
(――っ、セイちゃん、お願い……! 忘れたくないことは、忘れないでいい! でも、忘れたいことは、あるはずでしょう!? それを考えて! そして、強く思って!)
(小姫……?)
(願いがあるなら、諦めないで! もう一度だけ、私を信じて! そうしたら……、そうしたら、もう一度、私と――……!)
(……小姫……!)
呼びかけるセイの声は、すでに遠く。
セイの意識とつながった時とは逆に、真っ白な闇に吸い込まれた。そして、あえなくふっつりと、小姫の意識は切り離されてしまった。