40.
ほどなく、小姫たちはキンモクセイの丘に降り立った。
岩の神は丘の中央に移動すると、運んできたセイをそこに横たえる。乙彦は木の根元に小姫を下ろし、自分は隣に座り込んだ。
気のせいか、乙彦の呼吸が荒い。岩の神の元へ行くよう視線で促す乙彦に逆らい、小姫は彼の額に手を伸ばした。星明りだけでは心もとないが、前髪をかきあげると、顔色も冴えないように思われた。
「……乙彦。もしかして、どこか具合が悪い?」
「…………」
「……乙彦?」
乙彦は額に当てられた小姫の手に自分のそれを重ねて、ふ、と微笑んだ。それから、ゆっくりと小姫の手を引きはがす。
「私のことは気にしなくていいのです。早く、向こうへ行くのです」
「……でも」
「時間がないのです。鴉を助けたいのでしょう?」
「……うん……」
乙彦の態度に腑に落ちないものを感じながら、小姫は中央へと足を向けた。後ろ髪を引かれる思いで、乙彦から遠ざかる。
広場の中央では、セイは仰向けに寝かされ、その額に岩の神が手を当てていた。
「娘。こやつの手を握っていてやれ」
「は、はい……!」
岩の神に声をかけられ、駆け寄って指示に従う。と、岩の神がちらりと乙彦に目を向けた。
「……しかし、そなたはあれが怖くないのか?」
「え?」
「乙彦のことだ。人食いの話があれにも当てはまること、そなたも知っておるのだろう? それに、割と厄介な性格だと思わぬか? ともに生きていくには、なかなか面倒な相手だぞ」
乙彦に聞こえていたら、速攻で反論されたに違いない。だが、今は聞いているのは小姫一人、そして、問われているのは小姫の気持ちだった。
「…………」
小姫は、木の幹に背中を預けてこちらを見守っている乙彦を一瞥した。
岩の神は、どういうつもりでそんな質問をしたのだろう。
乙彦の友人としてか。村の守り神としてか。後者だとしたら、間違えたら、罰でも下るのだろうか。
だが、考える前に、素直な胸のうちが口から出た。
「――私、乙彦には、とても感謝しているんです」
「……」
「何度も助けてもらって、……命も、救ってもらいました。知らなかったけど、ずっと前から側にいてくれて、見守ってくれてたみたいです。でも、すごく感謝してるのに、ちゃんと伝えられることがあまりなくて……。だから、いつか、乙彦にもらったものを返せたらいいなって、ずっと思ってるんです……」
岩の神がうっすらと緑色に光り始めた。それは腕を伝って、セイの身体をも包んでいく。
「……確かにそのようだな。やつは複雑な想いを抱えたまま、そなたに付きまとっていたようだ。最近はそれも変わりつつあるが……。それで、そなたは、感謝しているだけか? それだけとは思えぬが」
踏み込んだ質問に、小姫はとっさに返答に詰まる。
「――、それは……」
「一度心を開いてしまえば、命の恩人として、やつはそなたを大事にしただろう。見返りを求めず、尽くしたはずだ。そのような相手に好感を抱くなとは言わぬ。だが、恋と錯覚しているなら忠告せねばならぬ。妖怪と人間では、性質もあり方も違う。いつも側にいる便利な存在だというだけでそう思っているのなら、手遅れにならないうちに、袂を分かつことを勧める」
(――袂を、分かつ……?)
岩の神のその言葉は、小姫の胸に深く突き刺さった。思わずセイの手を握るそれから力が抜けかけ、小姫は慌てて握り直す。
いつも側にいてくれるから。助けてくれるから。優しくしてくれるから。
乙彦を想うようになったきっかけは、確かにそれだった。単純かもしれないが、否定しても仕方がない。一人でいることが多かった小姫にとって、側にいてくれるだけでも、たわいのない会話ができるだけでも、特別だと思うのに十分だった。
だが、それだけだとは思いたくない。最初は乙彦のことも、強引で話が通じなくて、迷惑な存在だと思っていたのだ。それが、少しずつ彼のことを知るにつれ、わかりにくい優しさや、真摯な思いに惹かれていった。喧嘩したり、仲直りしながら、何らかの関係を築いてきたのだと。そう、信じたい。
岩の神は返事を待っていた。考えた末に、小姫はぽつりと言った。
「……錯覚、なのか、私にはわかりません」
「……」
「でも、乙彦が特別に思ってくれていることも、私が特別に思っていることも、間違いないんです。乙彦は、何があっても助けてくれて、守ってくれると思っています。そう思うと、すごく安心する……でも」
小姫は、つっかえたように言葉を切った。それから、つばを飲み込み、顔を歪めてうつむいた。
「……でも、ほんとは……苦しいんです。自分の身を危険にさらしてまで、助けてほしくない……。命を懸けたり、犠牲になったりしてほしくないんです……! ……乙彦には、幸せになってほしい。そうなるべきひとだと思うのに、自分を大事にしてくれないのが、つらくて仕方ないんです……!」
「そなた……」
小姫は顔を上げて、岩の神をすがるような目で見つめた。
「……あの! 乙彦、おかしくないですか? さっきからずっと、変じゃないですか……!? どこがどうとか、わからないけど……、いつもと違う気がするんです。……なのに私、聞けなくて。なんだかすごく、怖くて聞けなくて……!」
嗚咽をこらえ、もう一度うつむいた。
「……やっぱり、私には、何もできないんでしょうか。助けてもらうばかりで、何にも返せないんでしょうか。本当は、私に、乙彦に感謝してもらう理由なんてないのに……」
小姫は大きく息を吸って、目を瞑った。弱音を吐くつもりなんてなかった。だが、乙彦と再会してから抱いていた不安が、堰を切ったようにこぼれてしまう。
こんな弱音を吐いて、岩の神に呆れられてしまうかもしれない。質問の答えにもなっていないかもしれない。わからない。話しているうちに感情が高ぶって、何を言っているのかわからなくなってしまった。
しかし、彼女は黙って最後まで聞いてくれた。目元を緩ませ、優しい微笑みを浮かべる。
「……いや、そなたは与えられてばかりではない。やつにも様々なものを与えているはずだ。最初にやつを救ったのはそなただしな。――最初は、随分と悩んでいた。人間のくせに、なぜ妖怪を助けるのかと。そんなことをしなければ、今度こそ人間を嫌いになれたのに、と。……だが、乙彦は信じたかったのだ。どんなに裏切られても、それでも人間を信じたかった。だから、そうさせてしまったそなたを恨んだのだ」
「……はい」
「そして、それがおそらく正解だったのだろう。やつが恩に着ているのは、事故から助けられたことではない。人間を信じていいのだと思わせてくれたことだ。それは事故のことだけではなく、そなたを見ているうちにそうなったのだろうよ。……だから、もし――」
岩の神はそこでいったん口を閉じ、それから思い直したように続けた。
「――いや、何でもない。そなたも知っておろうが、あれはなかなか面倒なやつだ。悩んでいる間もだが、吹っ切れてからはさらに悪化したのではないか? ……それでもそなたが受け入れてくれると言うのなら……、その覚悟があるのなら、我も友として嬉しいと思う」
「……岩の神さま……」
岩の神の言葉が、じんわりと胸の中に沁み込んでくる。
彼女の言う通り、少しでも乙彦に何か返せているのなら……、小姫でも役に立っているのなら、救われる。彼の隣にいてもいいかもしれないと思える。
その言葉を信じたかった。信じてもいい気がした。乙彦の友人であり、村の守り神だったひとの言葉なら。
(乙彦が今、何を考えてるのか……、どうして、いつもと違う気がするのか、後でちゃんと聞こう。……そうしたら、教えて、くれるよね……?)
乙彦から見えないように目元を拭い、小姫は岩の神を正面から見つめた。
「……落ち着いたか?」
「……はい。すみません」
取り乱したことを恥じ、小姫は赤くなった。うつむき加減になった小姫に、女神が手を伸ばしてくる。
セイにしているのと同じように額に手を当てられると、そこから温かさが伝わってきた。次第に頭がぼんやりしてくる。思考が定まらない小姫に、岩の神が告げた。
「そなたにやってもらいたいことがある。我は、本人が望んでいない記憶を奪うことはできぬ。以前、そなたの記憶を奪うことができたのは、そなたが忘れたい、なかったことにしたいと願っていたからだ。だが、この鴉は、すでに諦めているようだ。すべて諦めて、ただ眠りにつきたいと思っておる。その邪魔をしないでくれと願っておる。これでは、記憶を奪うことなどできぬ」
「! それじゃ……どうすれば」
「やつの意識に干渉して、人食いの記憶をなくしたいと思わせてくれればよい。しかし、もし無理そうだったら、決して深追いはするな。安心しろ。もし失敗しても、そなたに何か害があるわけではない。予定通り、再度封印するだけだ」
「……わかり、ました……」
小姫はためらった末に、頷いた。岩の神の言葉を反芻して、何度も意識に刻み込む。
失敗は、したくない。そう簡単に、諦めたくない。だが、セイが眠ることを望んでいるのなら、それを無視して、小姫の思いを押し付けることはできないだろう。
セイの寝顔を見守る小姫を、泥のような眠気が襲ってくる。抵抗せずに身を任せると、やがて、その隣にゆっくりと崩れ落ちた。