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妖怪村の異類婚姻譚  作者: 鍵の番人
第三章 花と香りと、特別な約束
74/81

39.

「教えて! それって、どういう方法なの?」

「難しいことではないのです。呼び出して頼むだけでいいのです。――ヒメが」

「――えっ? 私が……?」


 小姫がきょとんとすると、乙彦が言いにくそうに付け足した。


「ええ。……まあ、あまり怒っていないといいのですが……」

「?」


 乙彦は、首を傾げる小姫に回れ右をさせると、後ろから抱きしめた。というよりは、勝手に動かないよう固定されたような形である。「え? なに? なに?」と戸惑う小姫を無視して、ぼそりとつぶやいた。


藍翠(らんすい)


 ――だが、何も起こらない。


「藍翠」


 二度呼んでも、変化はない。


 藍翠とは、岩の神の名前ではなかったか。乙彦は、かの神様を呼ぶつもりなのだろうか。

 小姫は不思議に思ったが、乙彦は気にしないそぶりで、その名を連呼した。


「藍翠……。藍翠、藍翠……。――聞こえているのです? 岩の神。岩の神様……。あー、私が悪かったのです。ここへ来てほしいのです」


 悪かったと言う割には棒読みで、乙彦はそんな風に続けた。すると、


「――っ、殺してやる……っ!」


 呪いのような言葉とともに、どこからともなく岩の神が姿を現した。


 暗闇にも淡く光る、着物姿の美しい女神だ。長い髪を高く結い上げ、目や口元に鮮やかな紅をまとっている。一見すると、たおやかで麗しい女人の姿だが、目はかっと開き、歯をむき出しにして、今にも飛び掛からんばかりの形相をしていた。


 乙彦は小姫を見せつけるようにして前に出すと、その陰に隠れるようにした。押し出された小姫は目を白黒にし、首をひねって乙彦の顔を見つめる。


「お、乙彦!? あんまりどころか、めちゃくちゃ怒ってるみたいだけど!?」

「さあ。とりあえず現れたのです。交渉してみるのです」

「えっ、何を!? っていうか、こ、怖い! ――ちょ、離してよ乙彦……っ」

「今はできない相談なのです」

「娘! そこから離れろ! その性悪妖怪……、八つ裂きにしてくれる!」

「ひいいっ!」


 美しい顔を歪ませ、体中から怒気を放つ女神の迫力は相当なものだった。乙彦に捕まっていなければ、飛び上がって脱兎のごとく逃げ出していただろう。彼は一体何をしたのか、 問いただしたい気持ちに駆られたが、そんな場合ではないと考え直す。


 意図はわからないが、これは乙彦がくれたチャンスに違いない。小姫は恐怖をこらえて彼女を見返し、顔を引きつらせながら話しかけた。


「い、岩の神さま! ど、どうかお話を聞いてください。私、えっと、調停者をしている者の娘で……、あの、以前にも助けていただいたことがあって――、ひぃっ!」


 ぎろりと女神に睨まれ、小姫は思わず悲鳴を上げた。

 殺気というのはこういうものをいうのだろうか。夏祭りの時の女神に抱いた恐怖とは種類が違うが、息が止まりそうなほど恐ろしいのは同じだった。


 しかし、乙彦は離してくれず、女神は眉間にしわを寄せたまま小姫を見つめている。小姫は口をつぐむことも許されず、必死に言葉を絞り出した。


「――おおお、遅くなりましたが、お礼を……! わ、私、二度も助けていただいたのに、記憶がなくて、ずっと、お礼も言えなくて……!」

「――二度、だと?」


 ぽつりと、岩の神がつぶやいた。問答無用で怒鳴られるかと思っていた小姫は、固唾をのんで、彼女の言動を見守った。


「……ああ、鴉を封印したことと、記憶を封じたことを言っておるのか」


 憮然とした表情だったが、幾分激しさを抑えた声で岩の神が答えた。


(覚えててくれたんだ……!)


 彼女にとっては、村に住む人々のうちの一人にすぎないだろう。友人である乙彦と関わりがあるからかもしれないが、勇気づけられて小姫は頷く。


「――はい! その節は、本当にありがとうございました。あの時、岩の神様に助けていただけなかったら、どうなっていたか……。今の私があるのは、岩の神様のおかげだと思っています」


 心を込めてそう伝えると、岩の神はしばらく小姫の顔を凝視した。あえて乙彦の顔を見ないようにしているのは、気のせいではないだろう。小姫も気圧されないように岩の神の目を見返した。無礼かどうかなんて、頭をよぎりもしなかった。


 やがて、岩の神から怒りの気配が消えた。ため息をついて腕を組み、静かな声で言葉を紡ぐ。


「……よい。あまり気にするでない。悪鬼の復活に気づけなかったのは我の責任でもある。そなたのことはむしろ、巻き込んですまなかったと思っておる。……性悪とはいえ、そこの河童も助けてもらったことだしな」

「あ……」


 小姫はちらりと乙彦を見やる。喧嘩をしている……というにはかなり剣呑だが、友人であることに間違いはなさそうだ。


 助けたというのは、十年前の事故のことだろうか。「そんなことは……」と言いかけたが、岩の神の言いようにひっかかりを覚え、小姫は口を閉じた。


 ――悪鬼。


(……セイちゃん……)


 小姫は唇を強く引き締めた。


 彼女にとって、やはりセイはそうなのだ。村人に害をなす、悪い妖怪。封じるべき、悪の存在。

 それを助けてほしいなんて、村を守ってきた彼女にどの口で言えばいいのか。どう説明すれば神の逆鱗に触れないのかと小姫がためらっていると、後ろから乙彦が顔を出した。


「ヒメは、あの鴉を助けてほしいそうなのです」

「…………は?」

「再度封印をするのではなく、元に戻してほしいのです」

「――……」


(お、乙彦……!?)


 考えをまとめている途中の口出しに、小姫は焦った。


 岩の神は、まだ乙彦を許してはいないだろう。彼はいないふりをしてくれていた方が、話はスムーズに進みそうだった。


 それなのに乙彦は、さらに続けた。


「あなたには、鴉の記憶を消してほしいのです」

「――な、なんだと……っ!?」


 怪訝な顔をしていた岩の神は、その発言を聞いて今度こそ目を剥いた。


 それは小姫も同様だった。息をのんでいる小姫の耳元で、乙彦はまた口を開く。


「鴉の中から、人を喰った記憶をすべて。自分が人食いだった記憶をまるごと、消し去ってほしいのです」


(……人食いだった記憶をまるごと……?)


 小姫は呆然と乙彦の顔を眺めた。


 岩の神に頼んでみろとはそういうことか。以前、小姫の事故の記憶を消したときのように、セイの記憶の一部を消す。


 セイが人を喰った記憶、人食いだった事実を、セイの中で無かったことにする。だが、そんなことができるのだろうか。


 小姫は口を開いた。が、具体的に何を聞いたらいいのかわからず、そのまま口を閉じた。その間、乙彦とは全く視線が合わなかった。一方、女神はぽかんと口を開けて――それから、頭を抱えた。


「……そなた……! まさかそんな、馬鹿なこと……! もういいかげん、ついて行けぬ!」


 狼狽した岩の神を尻目に、乙彦は冷静な口調で言い連ねる。


「可能性があるとしたら、それしかないと思うのです。一度人間の味を覚えてしまったら、人間を喰いたい衝動に支配されて自分を見失う……。ですが、もし、その記憶を全て消すことができたなら――、うまくいけば、衝動を抑えられるかもしれないのです」

「――そんな単純なものではないだろう! 人の肉や命が、どれだけ妖怪の体に影響を及ぼすか……、お前なら、身に染みているはずだ!」

「わかっているのです。無駄かもしれないことは百も承知なのです。それでも……ヒメがそう望むのだから仕方がないでしょう」


(――乙彦……)


 乙彦の表情は変わらない。何を考えているのかわからない。

 だが、これはすべて、小姫のためだ。小姫のためにセイを厭い――、そして今は、小姫のためにセイを助けたいと願う。


 小姫は、唇を引き結んで視線を落とした。

 今はまだ、何も返せないけれど……いつかきっと、彼にすべてを返したい。


 一方、岩の神は苦虫を噛み潰したような顔で、乙彦を見つめた。


「ほぼ無駄なことだと承知の上で、我にやらせようと……? やはり、殺してくれようか……?」

「私を睨んでも意味ないのです。これは、ヒメの願いなのですから。私はむしろ、そんな厄介者は、金輪際いない方がいいと思――」

「――お、乙彦!?」


 感傷に浸っていた小姫は慌てて顔を上げた。乙彦をたしなめると、岩の神に向き直って頭を下げる。彼に抱えられた状態では格好はつかないが、離してくれないのだから仕方がない。


「すみません。無駄を承知でなんて、失礼かもしれません。……でも、少しでも可能性があるのなら、それに賭けてみたいんです。私には、何も思いつかなくて……、乙彦に頼んだのも私なんです。友達を助けたいって私が言ったから、考えてくれたんです。……どうか……、どうか、お願いします……!」

「…………」


 後頭部に、岩の神の視線を感じた。


 村の守り神だったものとして、受け入れられない願いかもしれない。調停者の娘として、してはいけない判断かもしれない。

 だが、こんな悲しい記憶だけ残して、セイを眠らせるのは嫌だった。人に利用されて、愛していた平穏な生活まで奪われたセイのために、できることがあれば何でもしたかった。


 ――やがて、岩の神が呆れたようなため息をついた。


「まったく……。そなたらにはふりまわされてばかりだ……」

「……すみません……」

「言っておくが、うまくいく保証はどこにもない。本当に、一縷の望みだぞ?」

「――っ! はい……!」


 喜色満面になった小姫から、岩の神は気まずげに目をそらした。


「……封じ込められる量にも限度がある。何年……、何十年といったか? しかも、随分昔の記憶となると……、難解すぎる。最近の記憶をごっそり抜き取った方がどんなに楽か。下手をすれば、過去の記憶を刺激して、人食いの衝動を増幅してしまうかもしれぬ」

「……えっ?」

「そこをなんとか頑張るのです」

「そなたは黙っておれ」


 岩の神が乙彦を睨む。それにひるむことなく、乙彦は続けた。


「もし失敗したら、その時は私が責任を取るのです。そこまで弱っている鴉ならば、また湖に沈めてやれば、しばらくは浮かんでこないと思うのです。新しい枝が来るまで、とりあえず乗り切ることはできるでしょう」

「――あ、そっか……。ひこばえが来れば」


 キンモクセイの丘で、再度、セイを封印するために必要な霊木。もし岩の神の試みが失敗しても、それが届けば、セイはキンモクセイの丘で眠ることができる。また封印してしまうのは心苦しいが、それでも、冷たい湖の底よりはましだろう。


 もちろん、できれば成功してほしい。乙彦は責任を取ると言ってくれたが、これ以上彼に負担をかけるのも気が引ける。時折、疲れたような表情を見せるのも心配だった。彼のことだから、きっと、何かを隠している。隠しているから、小姫と目を合わせないのだ。


 それがそこはかとなく不安で――、耐えがたいほど、心細くなる。

 岩の神がため息交じりにつぶやいた。


「……前の住処に置いてきたあの花があれば、色々役に立ったのだがな」


(……あの花?)


 小姫が首を傾げ、乙彦は鼻を鳴らした。


「私の好きにしていいと言っていたのです」

「それでも、こんなにすぐに使うとは思わないだろう」


 岩の神が憮然とした表情をした。そこで小姫は思い出す。


(それってもしかして……あの白い花?)


 洞窟の中で、乙彦の傷を癒すために使った花のことだろうか。そういえばあれには、岩の神の力が蓄えられていたと聞いた。確かに、あの力があれば、キンモクセイの代わりとまでは言わずとも、ひこばえの代わりくらいにはなったのかもしれない。

 乙彦は一度目をそらし、気を取り直すように咳払いをした。


「とにかく、私に異論はないのです。動けない間は、あなたがヒメを守ってくれるのでしょう?」

「……ああ。我は、約束は破らぬ」


(動けない……?)


 小姫は乙彦を見るが、やはり彼とは目が合わない。どこへ向かっているのかわからないやり取りが、小姫を置き去りにして進んでいく。


「……本当に、いいのだな? 考え直すなら――いや、話し合うなら、少し待ってやっても……」

「岩の神。つべこべ言わず、さっさとやるのです」

「――っ、貴様、今すぐ土に埋めてもいいのだぞ……!」


 ためらっている岩の神に対し、乙彦はなぜか焦っているように見えた。

 何か、事情があるのだろうか。この話は、このまま進めても良いのだろうか。

 しかし、止めるということは――。


 迷いを口にしようとしたとき、急に寒気を覚え、くしゃみが出た。それを見て、岩の神が眉を顰める。


「……なるほど、あまり悠長にはしていられぬな。ひとの身にこの寒さはつらかろう。そうと決まれば、さっさと移動するぞ。……乙彦、貴様はどうする?」

「……あの場所は、川から距離があるのです。お願いするのです」

「ふん……、今回だけだぞ」

「?」


 首を傾げた小姫を、乙彦が正面から抱き締めた。岩の神の方はセイを小脇に抱え、そのままひょいと宙に浮かぶ。その足に乙彦が捕まったのを確認し、岩の神は一気に空へと浮上した。


「――えっ? きゃあっ、何――っ! ――うわあ……!?」


 木々の高さを越えるのはあっという間だった。湖がたちまちのうちに小さくなり、それを見送っているうちに、道路も川も飛び越えていく。


 下界に広がる日無村の民家の明かりはわずかなものだったが、星空は見事だった。視界を上に転ずれば、大小さまざまな星が一面に敷き詰められている。


 さらに密集しているのが天の川だ。無数の星々を白く光る道が二つに分け、どこまでも続いている。あまりの美しさと壮大さに、小姫は寒さも忘れて見入ってしまった。


「――ヒメ。落ちると危ないのです」

「……うん」


 小姫はぎゅっと乙彦に抱き着いた。美しさも、限度を過ぎると恐ろしくなる。夜空は大きすぎて、どこまでも広がっていて、先が見えなくて、怖い。小姫の心細さが伝わったのか、乙彦も小姫を支える腕に力を込めた。


「――乙彦……私、思い出したよ……」


 乙彦に言わなければならないことがある。乙彦の胸の中で、小姫はぽつりとつぶやいた。


「あの事故のこと、思い出した……」


 はるか下に見える事故現場から目をそらし、乙彦の首筋に顔をうずめる。


「――乙彦、ごめん……! あれ、乙彦のためじゃ、なかったよ……! セイちゃんのためでも、誰のためでもなかった……!」

「……ヒメ……」


 記憶が蘇ってから、ずっと、胸が痛かった。自責の念が、チクチクと小姫を苛め続けている。


 乙彦が恩義に感じていた小姫の行動は、自分のためのものでしかなかった。罪悪感から逃れるために、自暴自棄になった結果だった。乙彦に優しくされる資格も、命を助けてもらう理由も、小姫にはありはしなかった。


 それを知ったら、乙彦は幻滅するかもしれない。今度こそ人間を見放すかもしれない。

 そう思っても、乙彦に嘘をつき続けることはできなかった。それはやはり、罪悪感に耐え切れないからで、乙彦に甘えているからだ。


 真実を知っても、嫌わないでほしい。許してほしい。――側にいてほしい。

 ……乙彦なら、そうしてくれるんじゃないかと信じて。


「ふふ……、いいのです」


 震えて懺悔する小姫を、乙彦は微笑んで強く抱きしめた。


「不思議には思っていたのです。なぜ、あなたはあんなにも簡単に命を投げ出したりするのかと。その原因が罪悪感だったとしても、それは別にいいのです。あなたが妖怪のために、あんなに苦しんで、あんなに自分を責めて、あんなに泣いて……、私たちを差別せず、人間と同じように思っていることが、私には奇跡だったのです」

「え……」

「それに、あれからもずっと、私はあなたを見ていたのです。十年、あなたを見てきて、それでも思いは変わらなかったのです。一時の気の迷いでも、勘違いでもないのですよ。……いえ、思いもよらぬ方に、変わったといえば変わったのですが……」

「……? それって――」


 そのとき、岩の神が急降下を始め、舌を噛みそうになった小姫は慌てて口を閉じた。


 風の音がごうと鳴って、小姫の耳を塞ぐ。急な気圧の変化と速さに驚き、しがみつくようにして乙彦に身を寄せた。


 目的地が近いのだろう。小姫は風の強さに翻弄されながら、セイのことを思って身を引き締める。


 おかげで、乙彦の言葉の意味を尋ねようとしたことは、忘れてしまった。


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