38.
「――っ、うっ、げほっ! げほ……っ!」
小姫は湖のほとりで激しくせき込んだ。
めまいを覚えながら水をありったけ吐き出し、空気を求めて喘ぐ。ようやく人心地をついた頃、周囲の声が耳に戻ってきた。
「本当に……っ、あなたは、無茶してばかりなのです……っ」
乙彦が怒ったような口調でそう言いながら、背中を撫ぜてくれている。冷え切った体には、冷たいはずの乙彦の手が逆に温かく感じられた。
(乙、彦……?)
なぜ、ここに。
乙彦が、ここにいるわけがないのに。
最初は、朦朧とした意識が見せる幻かと思った。彼を思うあまりに、都合よく幻影を生み出してしまったのかと。
だが、次第に、意識を失う前の記憶がうっすらとよみがえってきた。
(――ああ、そうだ、あのとき……)
小姫が意識を失う直前、声が聞こえた気がした。
懐かしく、温かく、ずっと聞きたかった声。ずっと、呼ばれたかった名前。
ぐいと引っ張られる感覚もあったから、乙彦が湖から引き揚げてくれたのだろう。そうでなければ、あのまま溺れていたに違いない。
(来て、くれたんだ……)
胸にじんわりと火が灯った。苦しさではなく、今度は安堵から、涙が出そうになる。
笹飾りのおかげなのか、思ったほど髪も制服も水を吸っていなかった。が、濡れた肌に秋の風は冷たく、あっという間に体温を奪っていく。乙彦にお礼を言いたいのに、体は寒さで強張っていて、口もうまく動かせない。
そんな様子を見て取った乙彦が、小姫を抱えるようにして座り込んだ。小姫はされるがまま、乙彦の胸に体を預ける。
そうすると、彼の仏頂面が間近に迫った。よほど心配させてしまったのだろう。乙彦が側にいることをかみしめ、小姫は少しずつ呼吸を整えた。
「乙彦……。無事、だったんだね……」
「ええ、まあ……。遅くなって悪かったのです」
「ううん。助けてくれて……ありがとう……。――無事で、良かった……!」
口にすることで、実感した。かじかんだ手で乙彦の着物にしがみつくと、彼は力を入れて抱き締めてくれた。彼の手が少し震えているのが伝わってきて、小姫は視線を落とした。
本当に、無茶なことをしてしまった。湖の中で意識を失うなんて、乙彦が助けてくれなければ、命を落としていただろう。そうしたら、乙彦はきっと、ひどく自分を責めたはずだ。この世もないほど悲しんだかもしれない。
小姫は何があっても、乙彦のもとに帰らなければならなかったのだ。そんなこと、わかりきっていたはずなのに。それなのに、後先考えない行動をしてしまった。
「あの……、ごめんね、乙彦?」
「…………」
乙彦は黙って小姫の背を撫でていた。手の動きは相変わらず優しいが、何も言ってくれないのがつらい。沈黙が苦しくて、泣きたくなってきた。が、やがて彼は、はあ、と息をついた。
「……無事だったなら、いいのです。ですが、もう二度と、しないでほしいのです」
「ごめんなさい……」
「もう、いいのです」
乙彦はもう一度大きくため息をつき、腕の力を緩めて小姫から体を離した。それを少し寂しく感じていると、乙彦が顔をしかめて言った。
「全く……こんなに傷だらけになって……。とにかく、早く着替えた方がいいのです。これだけ濡れていたら、風邪をひいてしまうのです。……攫われていたあの娘は、岩の神が保護したので、心配はいらないのです」
「! そうなんだ、岩の神さまが……! 良かった……!」
小姫はようやく心からほっとした。早田が無事だったこと、そして、同時にセイのことを思って安堵する。
セイの言ったことは本当だった。彼は、誰も食べてはいなかった。
小姫は笑みを浮かべて、湖のほとりを見渡した。しかし、当然のようにあると思っていたセイの姿が見当たらない。
乙彦がいるなら、セイのことも引き上げたくれたはず――無意識にそう思っていた小姫は、視線を乙彦に戻して着物をぎゅっと握った。
「――、ねえ、セイちゃんは?」
「…………」
「ねえ、セイちゃんは……!?」
乙彦は答えない。さっと血の気が引いた。
最後に見たセイの顔が、まざまざとよみがえってきて、胸に鋭い痛みを与える。
「ねえ、乙彦……、セイちゃんはどうしたの……!?」
震える声で重ねて問うと、乙彦はしぶしぶ口を開いた。
「……心配しなくても、死にはしないでしょう。ただあれは、危険な妖怪なのです。意識を取り戻せば、また襲ってくるだけなのです」
「! セイちゃんは、誰も食べてないよ! 早田さんだって、無事だったでしょう!?」
「それは、たまたまなのです。たまたま、あれの理性がもっただけ……。それに、ちょうど良かったのです」
「……え!?」
「時間稼ぎにはもってこいでしょう。封印の準備は、まだできていないのですから。あれだけの傷を負い、ましてや、腐っても鳥の妖怪なのです。しばらくは、水底から浮かんでは来られないでしょう。……あるいは、このまま静かに眠りにつき、いつか自然に忘れ去られる――その方がいいかもしれないのです」
「――そんな……!」
そんなことって。
小姫は絶句し、硬直する。
いつか、自分の存在が忘れ去られて消えるのを、冷たい水底で待てというのか。
誰もいない、苦しくて寂しい場所で、たった一人で命の終わりを待てというのか。
それはなんて――、なんてひどい、罰なのだろう。
「お……、乙彦、お願い、セイちゃんを――」
「いくらヒメの頼みでも、それはきけないのです。……大体、あなたにこんなに怪我をさせて……、それだけでも、許しがたいのです」
「……乙彦!」
「――仕方ないのです! 一度人間の味を覚えた妖怪は、人間を喰わずにはいられないのです。もう、諦めるしかないのです……!」
「――っ、乙彦が……、それを言うの……!?」
ショックで声が震えた。乙彦がハッとして、小姫を見やる。
一度ひとを食べたなら――、それは、乙彦にも当てはまることだ。
仕方ないから、諦める。小姫にも……乙彦にも、そうしろというのか。
小姫は怒りたいような、泣きたいような気持で乙彦の目を見返す。
「乙彦が言ってることも……わかるよ。セイちゃんは、ひとを食べたくないから、戻りたくないって言った。私を、食べたりしたくないって……。でも、本当に、どうすることもできないの? 私……、諦めたくないよ。諦めたくない……! それに、こんな寂しいところで、一人ぼっちにしたくないよ。せめて、セイちゃんが好きな花の香りがするところで、ゆっくり眠らせてあげることはできないの……!?」
「……ヒメ……!」
乙彦の顔がゆがんでいる。その顔を見ていられなくて、小姫はうつむいた。
乙彦が言っているのは、ひるがえって自分にも返って来る諸刃の剣だ。彼だって、言いたくないことに違いない。それをわかっていて、それでも言うしかない状況に、小姫が追いこんでいる。
その上で、セイを助けてくれと、わがままを言っている。そんなこと、セイも、乙彦も、望んでいないかもしれないのに。
「……ごめん。私……、めちゃくちゃなこと、言ってるね……」
乙彦を苦しめたくはない。セイは怒るかもしれない。だが、どうしても譲れない。
「――でも、やっぱり、諦められない。……無理はしないから……できる限りのことはさせて……!」
今の理由でセイを諦めるとしたら、乙彦のことも諦めるということだから。
それはできない。どうしても、できない。残った体力でどこまでやれるかわからないが、今ならまだ、セイを引き上げられるかもしれない。
「~~っ、言ってるそばから……!」
乙彦は大きく舌打ちをした。湖に飛び込もうとする小姫を再度捉え、強引に腕の中に閉じ込める。
「っ、乙彦、離して――」
「離すわけがないでしょう。ちょっと、黙って見ているのです……」
乙彦が眉をしかめ、視線を湖の方へ動かした。するとほどなく、水が底からせり上がるように持ち上がってきて、中央の頂から一人の少年を吐き出した。すぐ側の地面に転がったセイはずぶ濡れで、意識を失っているのかピクリともしない。
ふいに、乙彦の腕から力が抜けた。肩からだらんと垂れ下がるような不自然な力の抜け方だったが、腕の拘束が緩んだとたんに飛び出した小姫は気づかなかった。
「セイちゃんっ!」
小姫はセイの元に駆け寄り、近くにしゃがみ込んだ。青ざめた肌に触れないよう、おそるおそる覗き込むと、かすかに胸が上下しているのが見て取れた。
(――生きてる……!)
「良かった……!」
乙彦の言葉を疑ったわけではないが、実際にセイの無事を確かめられて胸をなでおろす。脱力して乙彦を見ると、彼はその場から動かず、じっとセイに視線を注いでいた。
警戒している目だが、意外なことに、敵意は感じられない。ためらったような沈黙のあと、乙彦が話し出した。
「……その鴉はきっと、他の……、神隠しや化け物の噂に飲み込まれてしまったのでしょう」
話は少し聞こえていたのです、と乙彦は付け足す。
最初は普通の獣だったものが、何かのきっかけで妖怪化していくことは、そう珍しいことではない。セイは体の大きさを気にしていたようだったが、むしろ、他から見れば、その金色の目こそが特異だったはずだ。体が大きすぎれば、食べる量を減らせばいい。だが、生まれ持った目の色は、どうやっても変えることはできない。
異形なものは恐れられる。そこに、何の意味もなかったとしても。
セイの姿は憶測を呼んだ。おそらく、「金色の目の烏なんて見たことがない。しかも、あんなに大きいのだから、妖怪に違いない」とでも思われたのだろう。その憶測が憶測を呼び、「巨大な鴉の妖怪が出る」という噂が生まれた。セイは、それをきっかけに妖怪化したのだと思われる。
セイが人を喰ったのは、その後。……「人食い」の噂になったのも、その後だ。
「……岩の神もそうだったのです」
「え?」
「本来は石の妖怪だったのです。様々な種類の鉱物が、いくつも集まってできた岩の一部。ですが、途中から、神が宿っているのは岩だと人間が勘違いしたのです。そのせいで、岩の神として祭り上げられることになったと、彼女は言っていたのです。……今は、信仰する人間もなく、本来の藍翠としての性質に、ほとんど戻っているようですが」
「そう……なんだ」
岩の神に、そんな由来があったなんて。
しかし、なぜ今、そんな話をするのだろう。小姫の不思議そうな顔に気づいたのか、乙彦は話を続けた。
「……私は、あれが、最初から人食いとして生まれたのだと思っていたのです。ですが、そうではなかった。獣が妖怪になり、それから人食いの噂が生まれた。……ということは、あれにはもともと、人を喰う性質はなかったということなのです」
「……そう、だね。そう言ってたけど。……え? それってもしかして――、セイちゃんも、普通の烏に戻れるかもしれないってこと!?」
人食いの噂はすでにない。文献にも残っていないと青峰が言っていた。「人食い」の性質が後付けのものだとすれば、セイがただの大鴉に戻れる可能性があるということだろうか。
だが、乙彦は眉根を寄せて首を横に振る。
「……いえ、そう簡単な話ではないのです。さっきも言ったのです。その鴉は、人間を喰っている……、おそらく、何人も、何十人も。それも、相当長い期間。一度人間の味を覚えたら、それを忘れることなどできないのです。……人間で例えるなら、たぶん、麻薬のようなものかと」
「……でも……!」
封印されて以降、セイは人間を食べていないはずだ。セイも本音では、食べたくないと言っていた。封印されていたとはいえ、長い間、人を食べていないのであれば、その衝動をこらえられるようになるのではないか。
「……ヒメ」
乙彦が重いため息をついた。ふと不安になり、小姫は乙彦の顔を覗き込む。彼は疲れたような表情で、小姫の髪を撫ぜながら言った。
「あなたも見たでしょう。あの苦しみが……、もっとひどい苦痛が、ずっと続くのです。一度は耐えることができるかもしれない。ですが、ふとしたきっかけで蘇る。何度も、何度も、発作のように襲ってくるのです。この衝動がどのくらいで収まるか、いえ、いつか収まるものなのかどうかすら、私にもわからない。平穏に暮らせる時間なんて、一日に一時もないかもしれない。……それを、あの鴉は望んでいるのですか?」
「――、……それは……!」
「それよりは、封印をし直した方が、救われるかもしれないのです。私だって、別に悪意だけで言っているわけではないのです。封印されていれば、苦しむことなく、安らかに逝ける……。私も、あの鴉に耐えられる保証がなければ、野放しにしておくことはできないのです。また何時、あなたを襲うかわからない。その時、私がいなかったらと思うと、胸がつぶれそうになるのです……」
乙彦が小姫の髪を一房とって、口づけた。なぜかわからないけれど、胸が苦しくなって、涙がにじんだ。
乙彦はなぜ、セイを憐れむような目で見つめるのだろう。
――あんな苦しい思いをするくらいなら、誰にも知られず消えた方がいい。
それは、乙彦自身の望みなのだろうか。そんな風に、乙彦も思っているのだろうか。
乙彦らしくない言葉に、胸がざわつく。小姫は震える声で尋ねた。
「……乙彦も、そうだったの……?」
「…………」
「セイちゃんと同じくらい、苦しかったの……?」
「…………」
乙彦は、撫ぜる手をとめて息を吐いた。そのだるそうな湿った息に、小姫はぎくりとする。
(……乙彦?)
永遠に続くかもしれない苦痛。乙彦もそれに苛まれているとしたら。
いつか、耐えられなくなり、一人静かに消えることを選ぶときが来るのだろうか。
小姫の不安を悟ったのか、乙彦は口の端をかすかに上げた。そしてつぶやく。
「私は、ヒメの手足だけなので。大したことはなかったのです」
「……でも」
「信じられないのです?」
「…………」
額面通りには受け取れない気がして、小姫は唇を引き結んだ。それを見て、乙彦は苦笑した。
「……そんなにあの鴉を救いたいのなら、仕方ないのです。一か八かになりますが、やってみるのです?」
「……え?」
「鴉を、元に戻したいのでしょう?」
「! そんな方法があるの!?」
今、強引に話をそらされた気がした。が、セイを助けられるかもしれない方法を差し出されたら、縋りつかないわけにはいかなかった。
乙彦とは、またあとでちゃんと話せばいい。今は、セイのことが先決だ……、そう自分に言い聞かせ、小姫は乙彦の話を促した。