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妖怪村の異類婚姻譚  作者: 鍵の番人
第三章 花と香りと、特別な約束
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37.

 湖の中は、真っ暗だった。古鏡湖は小さな湖ではあるが、深いところでは水深が八メートルにも及んでいる。地上が遠ざかっていく恐怖と戦いながら、小姫は水面に出ようとするセイにしがみついて、さらに深みへと潜っていった。


 一か八かの賭けだった。カラスは水鳥ではないから、水中は苦手なはず……、そう思ったが、妖怪にもその理屈が通じるのかはわからなかった。しかし、どうやら、その賭けには勝てたらしい。入水した瞬間はめちゃくちゃに暴れていたセイも、翼が水を吸って思うように動かせなくなったのか、やがて大人しくなった。


 それでも小姫は、逃げられないようしっかり腕を回し、セイの身体を拘束する。


 ここで逃げられたら、もう彼を止められる者はいない。飢えた化け物になって人間を襲うか、それとも、自傷行為を続けて自死するか。小姫には、どちらも認めることはできない。セイが正気に戻ることをただ一心に祈り、願う。


 ……どれくらい沈んでいただろうか。十秒か、二十秒か。それ以上だろうか。


 セイが振り回していた頭や翼に当たらないよう、小姫は目をつぶっていたが、ふいに、腕の中の感触が変わったのに驚いて目を開けた。


 暗い水底を想像していたのに、そこに浮かんでいたのは金色の光。空気の泡や藻がゆらめく水をはさんで、しばし、見つめ合った。


「セイちゃん……? 落ち着いた……?」


 ごぼ、と空気が口から洩れた。それだけでなく、小姫の全身から空気の塊が少しずつ剥がれ、湖面へ向かって浮かんでいく。ゆらめきながら遠ざかっていく透明な空気の粒たちは、わずかに明るい水面で見惚れるような乱舞をした。


「小姫……」


 穏やかな声が聞こえて、小姫は水面からセイへと視線を戻した。少年の姿になった彼は、ぼうっとした顔で小姫を見つめている。


「変……だな……。水の中、なのに……、お前の声、聞こえる……」

「うん……」


 小姫はセイから左手を放すと、そっと、前髪に着けたヘアピンを指し示した。


 乙彦がくれた笹飾りのついたヘアピン。これには乙彦の水の力が込められていて、水の禍から守ってくれるのだという。だから、湖の中でも、きっと小姫を助けてくれると思った。呼吸も苦しくないし、冷たい水に潜っていても、体温の低下はそれほどでもない。


 おかげで、セイを止めることができた。憑き物が落ちたかのような表情をしているセイに、小姫は問いかける。


「ねえ、セイちゃん。あの頃、いっぱい話したよね? この村のこととか、学校のこととか」

「――ああ……」

「約束もしたよね。……セイちゃん、覚えてる?」

「……ああ」


 セイは、懐かしそうに目を細めて笑った。どこか遠くの情景を映しながら、穏やかな声で答えを返す。


「……覚えてるに決まってるだろ。ずっと、羨ましいなと思ってたんだ……。小姫や、俺みたいな年頃の奴らがいっぱいいて、勉強したり、昼ごはん喰ったりするんだろ? ……あの頃は……、学校、なんて名前じゃなかった気がするけど……」


 何かをつかむように、上に向かって手を伸ばす。


「動けるようになってから、しばらく見てたんだよ……。面白いよな。小さいのと、ちょっとでかくなったのと、それぞれで集まってさ……。でもさ、やっぱり、違うなと思って……、さっきも、手前まで行って、引き返してきた。……だって、お前と一緒じゃなきゃさ。……そう、約束したよな、小姫……?」

「うん。約束したよ……!」


 セイは淡く微笑んだ。


「そうだよな、約束したよな……。……楽しそうだな……。俺、こんな体だからさ、でかすぎて怯えられたり、敬遠されたりして……。だから、いつも一人だったんだ。きれいな花を見て回ったり、甘酸っぱい実を探したり……。不満はなかった。楽しかった。……でも、やっぱり憧れて――」


 セイがごぼりと息を吐いて、苦しそうに顔を歪めた。小姫が急いでセイの手を握る。


「セイちゃん! 今からやろうよ! セイちゃんが人と仲良くしてくれれば……、もう、食べないでくれれば、今からなら、いくらでもできるよ!」

「……そう、だな……」


 セイが、灰の中の空気を絞り出すようにして、とぎれとぎれに言葉をつなぐ。


「小姫と一緒に……、学校に行って、字とか習って……、休み時間に、赤い実を探したりしてさ……。……あれ、ええと、遠足、も……、一緒の班になって、山に登ったら……、いろんな花、教えてやれる……。うまい実も、たくさん知ってる……」


 ――セイは普通の鴉として生まれた。花や木が好きで、少しだけ他の兄弟たちより大きい、きれいな金色の目をした鴉だった。


 他の鳥からは煙たがられ、同じ鴉からも遠巻きにされたが、しばらくすれば、一人でいることにも慣れた。自分で餌も取れて、寝床もあって、何物にも縛られない生活には満足していた。きれいな色の花、変わった形の花を見て回るのが楽しかった。美味い花もあればまずいのもあって、それを判別するのも楽しみの一つだった。花はいろんな楽しみ方を与えてくれたが、その中でも一番心を惹かれたのは、それぞれの花がもつ特有の香りだった。


 特にキンモクセイは、うっとりするほどいい香りだった。その強い芳香は、木漏れ日と草いきれに混ざると、幸せの香りがした。天気がいい日は、そのオレンジ色の花をついばんだり、枝にとまって昼寝をしたりした。太陽のあたたかな光を浴びて、何も考えずに眠った。


 雨の日はあまり好きではなかったが、身体がすっぽり収まる丁度いい木のうろを見つけてからは、そうでもなくなった。空から落ちる雫を穴の中から眺めていると、いつも時間を忘れてしまう。近くに落ちる雫の音、遠くに降る雨の音に耳をすませる。音の連なりに身を委ねると、安心して眠りに落ちることができた。


 時折、仲間たちのにぎやかさがうらやましくなることもあった。


 近づくと飛び去ってしまうので、遠くから木の葉に隠れて様子をうかがった。息を殺して覗いても、感覚の鋭い仲間たちは、セイの気配を察知してしまう。何度も失敗し、やがて彼らに近寄ることはやめてしまった。


 一方、人間たちは、セイが近づいても気にする素振りを見せなかった。セイは悠々と、屋根に止まって見降ろしたり、街道を歩いて行くのをついて行ってみたりした。しばらく眺めていても、人間たちの営みは見飽きることがない。彼らはいつもかしましく、頼りなく、それなのにどこか力強さを感じられた。


 その頃には、自分の寿命が普通より長いことにも気づいていた。何十年も眺めていると、彼らの生活自体に興味が湧いてくる。ちょっと混ざってみたいと思ったが、セイの身体はすでに人間の大人ほどの大きさになっていて、大烏の姿で近づくと人間はみな逃げてしまう。


 そこで、セイは人間の姿に変化してみた。なんとなくできるような気がしたのだ。しかし、片腕が翼だったり、くちばしがそのままだったりと、なかなかうまくいかない。時間はいくらでもあったので、根気よく何度も練習した。


 そのうち、人間の子どもになら、なんなく変化できるようになった。髪や目の色は変えられなかったので、そこは諦めた。人の姿を長い時間保てるようになってからは、人間の言葉を勉強した。遣い方が間違っていないか、発音はちゃんとできているか。それを知るために、練習相手を探した。住処にしている森に人間が迷い込んでくることが時々あったので、セイはその相手に彼らを選んだ。


 彼らは大抵迷い人なので、道を教えてやると喜ばれた。ついでに一言二言、言葉を交わす。そこまでは良かったが、調子に乗って会話を続けていると、彼らは視線をさまよわせ、あるいは気味の悪いものを見るような目つきになり、そそくさと立ち去るようになった。


 やはり、どこか違和感があるのだろう。外見か、言葉遣いか、会話の内容か。原因がわからなかったので、人間の社会に紛れ込むことはできなかった。それは少し残念だったが、暇つぶしだと思えばちょうど良かった。それに、長い時間をかければ、いつか、人間の仲間ができるかもしれない――。そんな夢を抱きながら、花の香りに包まれて眠った。


 だが、そんな夢は打ち砕かれた。


 人食いの噂が広まり、セイは人間の憎しみを一身に引き受けることになってしまった。


 人に近づきたくて、近づいて。憐れな様子を見ていられなかっただけなのに。

 その同情は翻って、セイに刃となって返ってきた。人に害をなす化け物だと罵られ、家族を返せと物を投げつけられ、お前がいなければとなじられた。


 そうして、キンモクセイの木で眠っている間に封印された。しかし、人々は封印されて以降も、鬱憤をぶつけ続けた。恨みの声は夢にまで入り込み、セイの意識が完全に闇に沈むまで、ひたすらセイを苛んだ。


 ――それから数百年の月日が経ち、封印が綻びかけたときに出会ったのが小姫だった。


 ……今度こそ、仲良くなれると思ったのだ。


 一人では生きていけない人間たち。彼らには、自分が必要なはずだ。それに、今の彼らは、過去のセイを知らない。以前よりうまく変化して、人間に違和感を抱かせなければ、きっと、化け物だなんて言われない。


 誰にも裏切られない。

 彼女に必要とされれば……、きっと――……。


「――だけど、もう遅い……」

「え?」

「もう遅いんだよ、小姫……!」


 突然、セイが小姫の手首をつかんだ。すごい力で締め上げられ、恐慌に陥った小姫は、大量の空気を吐き出した。


「もう無理だ……、無理なんだよ! もう、あの頃には戻れない!」

「セイ……ちゃ――」

「人間を喰ったらおしまいなんだ。肉の味を覚えたら、もう、戻れないんだよ! こうして正気を保っていられるのも、今だけだ。封印が解けてから、何度も意識を失いかけた。気が付けば、人間の匂いに引き寄せられていたことが何度もあった。もう、人間なんて、食い物にしか見えない。お前ですら、時々そうなんだ。もう、俺は……、とっくの昔に、お前の友達になる資格はなかったんだ!」

「そんな……、ことない、セイちゃん……!」


 息が苦しい。急に、苦しくなった。肺の中の空気が、勝手にどんどん搾り取られていく。セイが、さらに手に力を込めた。


「俺はもう……嫌なんだ。ひとのために、ひとを喰って……。それしかできなかったから。お前のために、嫌なやつを喰ってやろうと思った。でも、もう嫌なんだ。喰えば喰うほど、俺が俺でなくなっていく。人間の匂いに消されて、花の香りも楽しめない。血の匂いの方に惹かれてしまうんだ。あんなに好きだったのに、あんなに安心したのに、何も感じなくなっていくんだよ!」


 人間を喰ってから、セイの世界は一変した。


 あれほど好きだった花や実を、体が受け付けなくなった。体はさらに巨大化し、禍々しい気配を漂わせるようになった。虫や魚、鳥やウサギ、イノシシまでも息をひそめ、セイの一挙手一投足に細心の注意を払っていた。セイが暮らす森からは、次第に生き物の気配が乏しくなり、花や木までもが元気を失ったように見えた。


 いつからか、知らないうちに人を喰っていることがあった。なぜか腹が満たされていて、口の中に血の味が残っている。その間の記憶がぽっかりと抜けていた。足元に見知らぬ草履が落ちていて、それで自分がしたことを理解した。


 ぞっとしたのは、一瞬だけだ。自分がおかしくなってしまったのかと戦慄した。だが、すぐに思い直した。この森に人間がいたということは、おそらくそういうことなのだろう。喰ってほしいと来たのだから、何も間違ってはいない。自分はおかしなことはしていない。


 セイは緩やかに麻痺していった。だがそれも、今だから気づけること。またすぐに、それを当然のこととして捉える自分に戻ってしまう。


 近づく人間はすべて餌だ。今さら、人間と友達になれるわけがない。


「――だからお前は、もういらない」


 セイは、泣き笑いのような表情で言った。


「!? セイちゃ――!」

「お前も、もう俺はいらないだろ? お前には、あの河童がいるんだろ? ……だったら、ここでお別れだ。お前を守ってるその水の守りの力も、一時的なものだ。もうすぐ、効力が切れる。切れたら、ただの人間のお前なんか、あっという間に命を落とす。だから――、お前は、ここで帰るんだ」

「っ、だ、だったら、セイちゃんも――」

「……言ったろ。もう俺は、戻れない」


 そう言って、セイは小姫の手を無理やり引きはがした。焦ってセイの手をつかみ直そうとしたのを、彼は冷たく振り払う。


「……俺に、お前を喰わせるな」

「――セイちゃん……っ!」


 セイはうすく微笑みながら、水底へと沈んでいった。みるみるうちに小さくなり、金色の目が光を失う。鴉の時の色と同じ、闇の色に飲み込まれ、肌色も着物の色も、見えなくなった。


 小姫は無我夢中で彼を追った。


 セイの言った通り、笹飾りの力は消えかかっていた。もう、声を出すことはかなわない。空気が一方的に漏れ続け、目の前が次第に暗くなっていく。


(セイちゃん、まだ、諦めないで――……!)


 小姫は必死に手を伸ばした。――だが、意識を保てたのはそこまでだった。


 肺から最後の空気が搾り取られ、視界がさらに暗くなった。これ以上の暗闇があったのかとぼんやり思いながらセイの幻影を見つめ、その直後に意識が途切れた――……。


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