36.
「――っ、ああ、あああああっ!」
いつの間にか折れたくちばしを限界まで広げ、焦点の合わない目を向けて、鴉は小姫を追ってきた。
すでに言葉はなかった。意味の分からない雄叫びを上げ、目の前の獲物を胃袋へおさめようと、がむしゃらに猛追してくる。
それほどの距離ではないのに、湖のふちまで、やけに遠く感じた。あと一歩というところで小姫は足を止め、セイの方へと振り向いた。
距離を確かめる余裕などなかった。すぐ後ろまで迫っていたことに驚き、息をのむ。大烏が口を開け、真っ黒い口の中と舌で視界がいっぱいになった。
迷っている暇はない。小姫は振り向きざまにポケットから出していた紙きれを広げ、くちばしの前へと突き付けた。
(――お願い、目を覚まして……!)
小姫が取り出したのは、セイが書いた脅迫の手紙だ。連れ去られたときに手に持っていて、そのままポケットに入れていたのだ。キンモクセイの残り香に、セイが一瞬でもひるんでくれることを、祈る。
しかし、吹き荒れる風の前で、そんなかすかな香りは無いも同然だった。広げた瞬間にそれを悟り、力が抜けそうになる。もうだめか、と思ったとき、驚いたことに、大鴉の動きが止まった。
(――今だ!)
なぜかわからないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。小姫は大鴉に向かって斜めに走り、くるりと反転して体当たりをした。そのまま湖に向かってもろとも飛び込む。
「ぐあぁっ!?」
大鴉は鳴いたが、小姫は声を上げることもできなかった。秋の冷たい水に入った瞬間、体がこわばり、息が止まりそうになる。
(――お願い、乙彦……。力を貸して……!)
急速に体温を奪っていく冷たい水の中で、乙彦のことを思った。
川の妖怪である彼にとって、湖は家のようなものだろう。そう考えれば、怖さが薄れた。胸に温かい光が灯るようにさえ感じられた。
それに背中を押され、小姫は暗く深い水の中へ、鴉を連れて沈んでいった。