34.
昔、セイが棲んでいたのは、温泉街から少し下ったところの、高校近くの森の中だった。その頃はもちろん、温泉も高校もなく、簡素な家々が立ち並ぶだけの、貧しく小さな村だった。
セイはそこで、兄弟たちと共に卵から生まれた。普通より少しばかり体が大きかったが、まぎれもなく普通の鴉だった。しかし、最初は黒だった目の色が、成長するにつれ、淡く、金色に輝き始めた。その些細な違いが疎まれたらしい。気が付いた時には、親も兄弟たちもいなくなり、ひとりぼっちになっていた。
だが、特に不都合はなかった。その頃にはセイも成鳥になっており、ひとりで餌をとることができたからだ。好奇心旺盛な彼は、人間の営みに興味をもった。人間の近くに棲みつき、観察したり、ちょっかいをかけたりすることが楽しかった。――そうして、いつの間にか、通常の鴉の寿命の何倍もの時間を、ひとりで過ごしていたのである。
そんな日々を送っていた彼の前に、ある日、異変が訪れた。
「最初は、獣や鳥に食われた子どもだった……。森の奥深くで、あちこちついばまれ、食いちぎられて、ひどいありさまになったやつがいたんだ。……それでも息があって、土の上に倒れたまま、俺を見上げていた……。苦しい、早く死にたい、ひと思いに食ってくれないか。そのくちばしの大きさなら、痛みを感じないよう、丸呑みにできるんじゃないかってな……」
セイは年月を経るごとに巨大化し、人間の子どもと変わらない大きさになっていた。いや、むしろ、やせ細った子どもたちからすれば、人間の大人ほどの体格に見えたかもしれない。
だが、それは大部分、羽毛のせいだ。羽毛が豊かで膨らんでいるおかげで、実際の身体の何倍にも見えるのだ。大体、くちばしだって彼らの頭ほど大きくはなかった。セイは理不尽な要求を無視したが、放っておけずにその近辺をうろうろしていた。それを知ってか知らずか、子どもたちはいつまでもいつまでもつぶやき続けた。
痛い。苦しい。つらい。もう嫌だ。助けて。早く楽にしてくれ……、と。
涙交じりの彼らの切ない訴えに、セイはとうとう音を上げた。近づいて頭の横に立つと、子どもたちは嬉しそうに頬を緩めた。
本当に喰えると思ったわけではない。ただ、自分が何とかしなければならないと思ったのだ。がりがりに痩せたみすぼらしい姿の彼らを連れ戻すためには、ついに誰も来なかったから。
初めはうまく喰ってやれなかった。のどを通って行くときに、やたらひっかかっては暴れていた。苦痛を感じているのが伝わってきた。骨ばかりの彼らには大して味も栄養もなく、何の感慨もわかなかったが、越えてはならない一線を越えてしまったことだけは、うっすらと感じていた。
「……そういうやつが、一人、また一人とやってくるようになった。それがあまりにも頻繁で、不思議に思うようになった……。そしたら、そいつが言ったんだ。一部の村人の間に密かに流れる、ある噂があるんだってな」
――あの森に迷い込んだ者は、二度とこの世で見ることはない。骨も残さず消えてしまう。それは神の所業である。神に選ばれ、神の地に運ばれて、そこで幸せに暮らしているのだと。
あるいは、森に棲みついた人食いの化け物が、痛みを感じる間もなく食い尽くしてくれるのだと。
「だから、家族を捨てたいやつは、わざと森の側を通らせたり、森に入るよう用事を言いつけたりするのだと……。……はっ! そうすれば、偶然、見つかってしまった不幸なやつが、化け物の餌食になるって寸法だよ! 捨てた奴が悪いわけじゃない。そもそも、捨てようとしたわけじゃない。悪いのは、運が悪かったそいつと、そいつを喰った化け物だけ。だから、そう仕向けたやつらは、罪悪感なんて抱かなくていいんだ。だってそいつらは、大切な家族を理不尽に奪われた、不幸な被害者なんだからな!」
土に汚れた手で顔を覆い、セイは叫んだ。指の間を涙が伝い、地面に音もなく落ちる。
それは、ずっと昔の話。貧しくて、毎日の暮らしも満足に送れないような人々が、少しでも生き残る可能性を高めるために食い扶持を減らしていく……、そんな蛮行がまかり通っていた数百年も前の時代。妖怪が、まだ人間に、身近に感じられていた頃のこと。
妖怪は、人々の信仰や思いによっても生み出される。道端に生えた木や植物。毎日使う家具などの道具。見慣れた虫や動物たち。それらに新たな命を与えることもある。
慈しみや親しみをもって生まれる妖怪たちもあれば、その逆もある。人食いの妖怪は、その最たるものだったのだろう。家族のために、ひとりを犠牲にする――、いわば必要悪とも言える行為だったが、だからといって、間引く方も平気ではいられなかったはずだ。自らの行為に苦しむあまり、彼らは悪の権化を生み出した。自分の中にある罪悪悪をその妖怪に押し付けることで、心の平穏を取り戻していた。
――その悪の象徴が、セイだったのだろう。人間たちの悪業を一身に背負わされた、ただ体が大きく、金色の目をして、長く生きていただけの妖怪……。
「……だけど、捨てられる奴らはわかってたよ。とうとうその時が来たんだって。道の途中で、俺を待ってるやつもいた。どうせ、自分一人ではこの森は抜けられない。この森で探して来いと言われたものは、一生かかっても見つからない。ここから出ても、家に自分の居場所はない。家族に見送られたときから、覚悟はできている。ひと思いにやってくれって……。何度も言っていた。仕方がないんだ、家族は悪くないんだ。……俺がいてくれて良かったってな!」
「――……!」
セイは嗚咽を漏らしながら、魂を引きちぎるようにして言葉を紡ぐ。
小姫には、かける言葉が見つからない。口の中が渇きすぎてのどが苦しくなり、こくりと空気を飲み下した。
小姫は、その時代のことなんて知らない。当時の人間たちが、どんな厳しい生活をしていたかなんて、教科書から拾うことはできても、実感を抱くことはない。
だが、なんて一方的で、自分勝手な言い分なのだろう。家族を捨てておきながら、被害者面する人間たち。悪いのは人食いの化け物だと、すべての罪をセイに背負わせて。
セイはずっと、人間は嘘つきだと言っていた。それも当然だ。森へ行く用事なんて嘘。森で何が起こるか知らないなんて嘘。自分は何もしてないなんて嘘。すべてセイが悪いなんてのも嘘。
……そうやって、彼らはセイを利用してきたのだ。
「――初めてだったんだ……。誰かから、必要とされたのは。兄弟からも、親からも疎まれて、他のやつらも気味悪がって近づかなかった。ずっと一人だったし、それでも別に平気だった。だけど、時々思ったんだ。必要とされたことがないなんて、それじゃ、俺はいなくてもいいんじゃないかって。いてもいなくても変わらないじゃないかって。だから――……!」
「ごめん……、ごめんね、セイちゃん……!」
結局、口から出てきたのは、そんな普通の言葉だった。
セイが人間に近づいたのは、仲良くしたかったからなのだろう。それなのに、化け物だなどと言われて、どんなに悲しかったことか。人を喰うことを強制され、どんなに苦しかったことか。
……初めてできた友達に、怖いと言われ、逃げられて、どんなに傷ついたことか。
「セイちゃん……。ごめんね、私……セイちゃんの気持ち、全然わかってなかった。セイちゃんのこと、何も知らないで、ひどいこと言った……」
話を聞いていなかったのは、小姫の方だ。セイの言葉に疑問を抱きながら、深く考えようとしなかった。なぜ、セイが人を喰うことに固執するのか、小姫はそこを尋ねるべきだったのだ。
妖怪だからと差別して。人食いだからと決めつけて。だが、実際は小姫と何も変わらない。ずっと一人でいたら寂しく、誰かと仲良くなりたいと思う、同じ心を持つ存在。
涙を落とすセイが、一回り小さく見えた。
「セイちゃん……、それでも、私……セイちゃんと友達でいたいよ」
一度は友達になれたのだ。何度も傷つけてしまったけれど。
「もう、私には、そんな資格ないかもしれない……。……でも、もし、セイちゃんが許してくれるなら、もう一度――」
もう一度、友達に。
そう言おうとして、セイの目を見つめる。と、突然、セイが苦悶の表情をして頭を抱えた。肩が小刻みに震え、そのたびにぼたぼたと何かが落ちる。
「……? セイ……ちゃん?」
「う、ぐ……、小姫……」
がちがちと噛み鳴らした歯の間から、セイが低い声を漏らす。顔を上げ、指の隙間から小姫を捉えると、口からは次々に唾液がこぼれ落ちていった。
目は不安定に揺れていて、焦点が定まらないようだ。小姫から必死に視線をそらそうとしているように見える。小姫はぞっとして後ずさったが、セイはその分、近づいてきた。獲物に襲い掛かる瞬間を狙い定めているかのように、一歩一歩、着実に足を運んでくる。
「そうだ……。俺は、喰わなければ……。お前が逃げたのは、俺が誰も喰わなかったからだ! 俺が役目を果たさなかったから……、俺が要らなくなったんだ……!」
セイはおぼつかない足取りで、うわ言のようにつぶやきながら近寄ってくる。時折、唸り声や威嚇音も混ざる。小姫は負けじと声を張り上げた。
「セイちゃん! 私を見て! セイちゃんは、人食いなんかじゃないんでしょ!? ……セイちゃん!」
「ううう……っ!」
叫ぶと、セイの足が一瞬止まったが、すぐにまた同じ調子で歩き出す。じわじわと恐怖が高まっていき、後ろに下がる足が何度かもつれた。
(人を食べたくないって言ってたのに……!)
セイは、最初から人食いだったわけではなかった。人に頼まれて、苦しいのを見ていられなくて、頼みを引き受けただけだった。人の言葉に傷つき、人の行為に傷つき、それでも自分の心を削って、彼らの願いをかなえてやった。
セイにしてみれば、それは優しさであり、同情だったのかもしれない。――だが、それは禁忌とされる行為だった。人に害のない妖怪が、人に害をなす化け物へと変わる、絶対に侵してはならない領域――。それをセイは、踏み越えてしまった。
……だから、なのだろうか。
だから、彼は今、本当に悪鬼になりかけているのだろうか。人を喰らおうとする衝動に支配され、自分さえ失って、一匹の化け物となってしまうのだろうか。理性も何もない、ただ、人を喰うだけの化け物に。
(そんなの、ダメ……! セイちゃんは、何も悪くないのに……!)
小姫は震える足を止めた。正気を失ったセイの目は、本能的な恐れを呼び起こす。乙彦のくれたヘアピンに手で触れて深呼吸すると、勇気を総動員して、真っ向からセイの目を見返した。
「セイちゃん。思い出して。人は食べたくないって、セイちゃんが言ったんだよ!」
セイの足は止まらない。金色の目が迫り、小姫はそれに向かって訴える。
「思い出して。本当は、人と仲良くしたかったんでしょ? だから、私とも仲良くしてくれたんでしょ? ……ほんの、短い間だったかもしれない。でも、私は友達だと思ってたよ! 思い出して。私たち、約束もしたんだよ!」
「…………う……」
セイの目に、光が灯る。その拍子に、前につんのめってたたらを踏んだ。
セイが足を止めた。だから、小姫はこれ以上、下がるわけにはいかなかった。ここから一歩も引かない決意で、小姫は畳み掛けた。
「もう、人なんて食べなくていいんだよ。そんなこと、しなくていい。セイちゃんは、ただの鴉でいいの。それだけで、私の友達なの! 元に戻って、セイちゃん!」
「――あああ……っ!」
セイは耳を塞ぐようにして、地面に膝をついた。鋭い爪を土に突き刺し、かきむしる。爪と皮膚の間から血が噴き出た。爪が剥がれそうになっても、セイは地面を掘り続ける。
「――っ、セイちゃん……!」
やめさせようと近寄った時、セイが地面にしがみつくようにして突っ伏した。そのとたん、彼を中心に爆発したかのような突風が生まれた。不意を突かれた小姫はあっけなく弾き飛ばされ、湖を取り囲む木の幹にぶつかって、肩と腕を強く打った。
「っ! 痛ぅっ……!」
衝撃で一瞬、目が眩んだ。木の肌をこするようにして地面にずり落ちる。
何が起こったのか。
風は、土埃や木の葉を巻き上げながら縦横無尽に吹き荒れていて、目を守るために持ち上げた腕の隙間から覗き見るのが精いっぱいだ。小姫がずきずきと痛みを訴える体をなだめながら風の中心へ視線を向けると、そこには、闇を深めた鴉の姿のセイがいた。
「ぐぅ……っ、俺は、人を……、――あああ……っ!」
彼はくぐもった叫び声を上げながら、地面や虚空に向かって羽を滅茶苦茶に打ち付けていた。そのたびに暴風が巻き起こり、落ち葉や枝だけでは飽き足らず、ゴミや湖の表面の水滴すら空中へ奪い去っていく。凪いでいるときは美しい水鏡になる湖面も、荒れた海のように激しく波打っている。枝に芽吹いている葉すら巻き込み、千切って、ついには負担に耐え切れなくなった枝まで折れて連れ去られた。
セイはそんな風の中で、羽やくちばしをひたすら地面に打ち付けていた。それにあまり効果がないことを悟ると、近くの木を狙って頭から突進していった。
どん、と重くて鈍い衝撃が木を伝って地面に響く。一度だけでは足りないのか、助走をつけてまたぶつける。
どん……、どん……と、不穏な揺れが、小姫のもたれかかっている木の幹を通して背中に伝わってきた。何度目かで、木が悲鳴のような音を立てて軋んだ。あまりのことに絶句していた小姫は、その音を聞いてようやく我に返った。
「――セイちゃん! やめて……っ、そんなことしたら――!」
風で飛んできた水滴が、小姫の頬に当たってつぶれた。温かさの残るそれが、湖の水なのか、それともセイの頭から流れた血なのか……、考えたくもない。
セイが動くたびに、暴力的な風が周囲のものを飲み込んで攫っていく。もはやそれはセイが操っている風ではなかった。見境なく振り回し、限界を超えて行使された力の塊だ。まるでセイが命を削って力をふるっているようで――、小姫は唇を戦慄かせ、体を起こした。
「やめて……、それ以上は……っ。セイちゃん、やめて……、やめてってば……っ!」
「俺は……っ。ああ……、俺は、俺は――っ……!」
黒い羽がばらばらと抜け落ち、風はそれを残らず攫った。近づこうとする小姫を妨害するかのように、渦巻く大きな羽が視界を遮る。向かい風が強すぎて、呼吸すらままならない。風の薄いところを見つけて必死に肺に空気を送り、小姫は這うようにして前へ進んだ。
「――近……づくな……っ! においが……っ、俺は、お前を――っ!」
人食いの誘惑を消そうとしてか、セイは何度も頭を打ち付ける。そのたびに小姫は悲鳴を上げたが、風はそれさえ飲み込み、立ち向かう気力を削いでいく。
(――ああ、誰か……! お願い、やめて……、このままじゃ、セイちゃんが死んじゃう……!)
せっかく、セイを知ることができたのに。十年もかけて、セイの真実にたどり着けたのに。
このままでは、正気に戻る前に、セイは死んでしまう。
「どうして……!」
なぜ、セイが死ななければならないのだろう。なぜ、あんなに苦しまなければならないのだろう。
セイは、そんなに悪いことをしたのだろうか。頼んだのは人間の方で、それを叶えただけではないのか。人に優しくした結果がこれでは、あんまりではないか。
セイの頭はべったりと濡れている。額から流れる血のせいか、それともそこも傷つけたのか、セイの片目は閉じられていた。残った方の目はこちらからは見えないが、まともに見えているとは思えない。
(だめだよ……、セイちゃん、こんなの、だめだよ……! お願い、誰か――)
もう、見たくない。聞きたくない。セイが苦しむ姿をこれ以上見ていたら、小姫の心が壊れてしまう。
誰でもいい。誰でもいいからセイを助けてくれと、心の中で祈りをささげた。
だが、わかっていた。ここには小姫しかいない。セイを止められるのは、小姫だけだ。今、彼を止められなければ、小姫はもう二度と、自分を許すことができない。
「諦めないよ……、セイちゃん、今度こそ、諦めない……!」
気力も体力も底をつき、少しでも緊張感を解いたら気を失ってしまいそうだ。それでも、小姫は頭の飾りに手を触れると、歯を食いしばって足に力を入れた。
浅い呼吸を繰り返し、一息で重い体を引き上げた。風に煽られるたびによろけながらも、どうにかセイの元に近づいていく。
「ううっ! ぐう……! あああっ!」
頭をぶつける音とうめき声に、いつの間にか小姫の目からも涙が流れていた。
「……セイちゃん」
答えはない。
「セイちゃん」
セイは見向きもしない。小姫は風に負けないよう、全身に力を込めて叫ぶ。
「セイちゃん!」
「…………」
どん、と、また木にぶつかる音とともに、地面が揺れた。今度は、小姫はよろけなかった。
雫が風に飛ばされ、小姫の腕に当たって散った。一つではない。いくつもの滴がじわじわと制服に沁み込んでいくのを見ていると、突如、目の前が赤くなるほどの怒りを覚えた。
セイの横に立ち、鋭く息を吸って、腹の底から声を出した。
「――こっちを見ろっ! セイっ!」
「――っ」
セイが一瞬、動きを止めた。初めて声が聞こえたかのように……、初めて小姫の存在に気づいたかのように、どろりとした目をこちらへ向ける。
元の美しい金色の目とは似ても似つかないそれを見据え、小姫は彼に背を向けて走り出した。
「ぐあああああっ!」
濁った声で、化け物が吠えた。
――逃げる気か。
そんな声が聞こえた気がした。それに構わず、小姫はすべての力を込めて地面を蹴った。