7.
その日の帰り道のことだ。いつものように手をつないで川沿いを歩いていると、やおら、乙彦が足を止めた。何気ない素振りで扇子を閉じ、それを川へ向ける。
すると、突如として川から水柱が激しく立ち上った。岸に集まっていた子どもたちに、その水しぶきが直撃する。彼らは悲鳴を上げて、雲の子を散らすように逃げていった。
「お、乙彦!?」
――妖怪お得意のいたずらか?
小姫が呆気に取られているうちに、乙彦はつないでいた手を離し、川原の方へ降りていった。わけがわからないまま、小姫も慌てて後を追う。
乙彦が立ち止まったのは、水柱がおさまったばかりの岸辺だった。そこには、子どもたちと同様、水浸しになった小さな妖怪が残されていた。鼠のような外見をしており、体中傷だらけで泣いている。
「わ、ひどい……。どうしたの、これ……?」
妖怪なんて久々に見たが、それより体の傷が気になった。
「窮鼠なのです。最近はよくあることなのです」
乙彦は当たり前のことのようにすげなく返し、窮鼠の身体を撫ぜ始めた。すると、触れたところから次第に傷が癒えていく。窮鼠はしゃくりあげながら頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございます。ただ水浴びをしていただけなのに、こんなことになって……」
それを聞いても、乙彦は扇子で口元を隠したまま、ピクリとも表情を変えなかった。
「ただ生きているだけで迫害されるのが私達なのです。慣れるしかないのです」
むしろ厳しい口調でそう言うと、あとは振り返ることなく、土手を登っていく。
「ちょ……、ああもう、乙彦がごめんね! 今度何かあったら、私のお母さんに言って!」
思いがけない優しさに、感心した直後にこれだ。
小姫は眉を吊り上げて追いかけていき、息を切らせながら横に並んだ。
「乙彦! なんであんなこと言うのよ。慣れろなんてひどいじゃない」
「事実なのです。慣れなければ……、ここでは生きていけないのです」
「……っ、そんなことは……」
ない、とは言い切れず、小姫は口をつぐんで視線を落とした。
思えば先日も、道すがら知らない子どもに石を投げられた。乙彦が素早く扇子で振り落としたのだが、いかにも日常茶飯事といった様子だった。弥恵がときおり愚痴る現状を、彼と過ごすこの数日間で、小姫も何度も身につまされている。
そんな小姫を見て、乙彦が付け加えた。
「……人間でも、子どもの頃は、妖怪が見える場合もあるのです。ただ、妖怪について教えられる大人はほとんどいない……、そのため、彼らはちょっと変わった異物として、私たちを虐待するのでしょう。ちょっと変わった鼠。ちょっと変わった人間……。少しでも違うところがあれば排除するのは、人間の常なのです」
(子どもの頃は、見える……)
そういえば、子どもの頃は、もっと妖怪が身近だったような。少し引っ掛かりを覚えたが、小姫はそれ以上考えることなく、言葉の続きを待った。
「妖怪も数が多い時は良かったのですが……、少数になった今、排除の対象となったのでしょう。人間は、妖怪と共に暮らすことをやめたのです」
その声がいつもより冷たく聞こえて、小姫は思わず顔を上げた。冷たい、というよりも、刃のような声音だった。
何を考えているのか気になって、彼の目を凝視する。乙彦はすぐに笑みの形に目を細めたが、奥にくすぶる剣呑な光を隠しきれていないように見えた。
あの時――、石を振り払った時も、こんな目をしていた気がする。登下校中は手をつなぐ約束だが、手を伸ばしたら振り払われそうで、小姫は腕を背中に回した。
「――乙彦も、やっぱり人間が嫌いなの?」
今までになく冷え切った空気が耐えられず、小姫は思い切って口にした。
妖怪と人間との間に横たわる大きな溝。そんなものが、目を凝らせば二人の間にもあるのかもしれない。
「……嫌いではないのです」
「それ、嘘でしょ」
「嘘ではないのです。妖怪は、人間とは違って明らかな嘘はつけないのです」
皮肉なのか、乙彦はそんな風に言うと、また小姫の手を取って歩き出した。歩みは速く、小姫は小走りでないとついていけない。乙彦の顔が見えないせいで話しかけることもできず、ただ黙って足を動かす。
「――ヒメの体、治す方法が他にもあるかもしれないのです」
乙彦がそんなことを口にしたのは、あと数分で家に着くというときだった。唐突な言葉に、小姫は驚きの声を上げる。
「えっ、ほんと!?」
「本当なのです。知りたければ、明日の午後、私についてくるのです」
――ただし、他の人には内緒で。
乙彦はそう付け足した。
明日は土曜で学校は休みだ。結婚しなくていい方法があるならば、知りたいに決まっている。
乙彦の意味深な言葉に、一瞬、あの噂が頭をよぎったが、小姫は文字通り首を振ってその考えを振り払った。
妖怪が言葉に縛られるのだとしたら、体を治す方法が他にあるというのは嘘ではない。誰が流したかもわからない噂に行動を左右されるなんてばかばかしいことだ。
小姫は大きく頷き、乙彦が目を細めてそれを見やる。
今日は玄関までも入らず、乙彦は去って行った。おそらく、青峰に会いたくないからだろう。
冷たいはずの乙彦の手が、離されるとなぜか、うす寒く感じた。