33.
「――っ、ひゃっ――……」
早速、足元が狂い、バランスを崩して転びそうになった。何とか立て直したが、一歩間違えれば滑落するという緊張感で、呼吸が乱れる。
駐車場から続く道路を素直に走っていたら、どうぞ見つけてくれと言っているようなものだ。しかし、ハイキングコースでもない夜の山は、障害物と罠に満ちた危険と隣り合わせの領域だった。脈絡もなく張り出した枝に頭を打たれ、木の根や草や、茂みに足を取られる。何度も転び、斜面を滑り落ちて、先ほどとは比べ物にならないくらい、切り傷や擦り傷が肌に刻まれていった。
それでも、止まるわけにはいかない。以前、来た時の記憶を必死に思い出し、谷や崖のありそうなところを避けつつ、北へと向かう。山の斜面が接している国道に下りて、そこから延びる小道へ入り、坂道を登って行けば、そこが目指すキンモクセイの丘だ。
木の数が揃っていなくても、あの場所でならセイの力は弱まるかもしれない。いつかの穏やかさを取り戻し、小姫の話を聞いてくれるかもしれない。その可能性に、今は賭ける。
だが、車の行き来する音が聞こえてきた瞬間、上からの強い風に煽られて、足を踏み下ろす場所を誤った。
「――きゃあっ!?」
つんのめった拍子に体が宙に投げ出され、あっと思った時には、勢いよく斜面に打ち付けられていた。しかも、その場にとどまることなく、道路へ向かって転がり始める。
国道を通っている車のスピードはかなり速い。突然山から人が転がり落ちてきたら、ブレーキをかける暇もないだろう。
視界も頭もぐるぐる回った。転がる速度は次第に増し、がむしゃらに伸ばした手は空を切り、固い幹に弾かれる。
車のライトが体をかすめた。道路が近い。もう時間がない。小姫は目を凝らして一本の木に狙いを定めると、頭の近くに迫ってきた木の幹に両腕をからませた。反動で回転したわき腹や足が何かにぶつかり、木肌にしがみついた手や腕の皮膚が破れる感触がした。それでも意地でも離さなかったおかげで、なんとか道路に転げ落ちるのだけは阻止することができた。
「と……、止まっ……た……」
小姫は目の前を走り去るライトを見送り、はあはあと荒い息を吐いた。
あんなスピードで走る車に轢かれたら、ひとたまりもなかっただろう。十年前の事故の時は、スピードなんかわからなかったし、すぐに気絶したためあまり轢かれた実感がなかった。今更ながら、事故の恐ろしさと、奇跡的に助かったありがたさをじんわりとかみしめる。
しかし、いつまでも休んでいられる状況ではなかった。上空から吹き付けられた不自然な風は、セイが生み出したものに間違いないだろう。バサリと大きな羽音が聞こえたのを機に、小姫は素早く立ち上がった。なるべく木の影になる場所を通り、目の前を横切る道路に出た。
しかし、思っていた光景と違う。小姫は愕然として立ち尽くす。
国道にしては道路の幅は狭く、街灯の数が少なすぎた。車通りどころか、家や建物すら見当たらない。奥に向かえば向かうほど明かりが乏しくなっていき、道の先は暗闇に飲み込まれていた。道路の向こう側には川が流れている音がする。そのさらに向こう側には森が広がり、空に散らばる星の光を遮っていた。
(――そっか。わかった、この道……さっき見た!)
既視感があると思ったら、夢で見たばかりの場所だった。納得がいくと同時に、小姫は失敗を悟る。
セイの風に押されて、降りる予定の場所が東にずれてしまったのだろう。キンモクセイの丘へ行くには、この道を左に進み、国道を突っ切るしかない。しかし、翼の音はそちらから聞こえてくるし、おそらくセイは、小姫の狙いにも気づいている。
待ち伏せを避けるには、逆方向へ向かうしかない。仕方なく、小姫は道路を右に曲がった。足取りが重いのは、疲労や痛みのせいだけではない。この先には、夏祭りの会場があり――、その手前には、十年前の事故現場があるのだ。
記憶が蘇ったとはいえ、車に轢かれたときのことはあいまいで、視界も体の感覚もぼやけていた。ただ、小さな小姫の切羽詰まった思いと、血だらけで泣いていた乙彦の映像は、深く胸に刻まれている。
時系列でいえば十年前のことだが、追体験したのはつい先ほどのことだ。あの時の感情は鮮明で、鮮烈だった。が、ためらっている場合ではない。
小姫は意を決して、右側の路側帯をひた走った。そちらの方が山沿いで、空から身を隠すための木々が多いからだ。それもすぐになくなってしまったが、小姫は後ろを振り返らずに、事故現場も花火の打ち上げ場所も走り抜けて、森の中へと駆け込んだ。
そこからはまた、道なき道を進んでいく。山道よりはまだ、平坦だから歩きやすかった。しばらく進むと、上空を警戒しながら道路に出て、コンビニの脇から小道に入る。車も通れる道だが、路肩が狭く、なだらかな傾斜が続いている。棒になりそうな足を叱咤しつつ、小姫は足場の悪い坂道を上っていった。
(セイちゃんは……?)
小姫は荒い息をつきながら、無理やり顔を上げた。上空に影はない。翼の音もしない。道路にいた時は数度、風を起こされたが、今は近くにいないようだ。それというのも、虫の音やカサコソという小さな物音がするからだ。小姫以外の息遣いを感じる。セイのような力ある者の足元では息を殺していた生き物たちが、この森では自由にうごめいている。
(……見失ったわけじゃないと思うけど……)
ここまで、ただ闇雲に逃げてきたわけではない。キンモクセイの丘の次に思いついたのがこの場所だ。さらに分の悪い賭けになってしまったが、試してみるよりほかはなかった。
そろそろ体力も尽きそうだった。頻繁にストライキを起こし始めた足を、手で叩いたり揉んだりしながら、上を目指して一歩一歩進んでいく。
こちらの標高もそれほど高くなかったのが幸いした。気が抜けそうなほど唐突に、何にも遮られない空が目に飛び込んできた。
明るい青を残した夜空に、こんな時なのに目を奪われた。つい、息をするのを忘れてしまい、小姫は大きく深呼吸をした。
視線を落とせば、星々をそのまま閉じ込めたような、透明で揺らぎのない湖――古鏡湖がある。景観を整えるため、周囲の木々は適度に伐採し、整備しているのだという。クラスの出し物でも観光スポットとしてとり上げられ、夜空を鏡のように映しとった瞬間の写真を拡大する作業には、小姫も携わっていた。
白や青に光る星々が上にも下にも広がっている光景は、息をのむほど美しかった。風もなく、静かな空気の中に漂う神秘的な雰囲気に、小姫は刹那、魅入られた。冷たい空気を何度も吸い込むと、体が正常な空気で浄化されるような錯覚を起こす。
あまりにも、現実離れした光景だった。
棒立ちになった小姫が我に返ったのは、背中に強い衝撃を受けたからだ。悲鳴を上げる間もなく倒れ、受け身も取れずに胸を打つ。一瞬、呼吸が止まり、気を失いそうになった。それほど、遠慮呵責もない攻撃だった。
「――っ、セイ、ちゃん……!」
上半身を起こそうとしたら、背中に鋭い痛みが走った。思わずうめき声をあげ、目だけで空を見上げる。
先程まで輝いていた星空が、今は一部、黒く塗りつぶされている。巨大な鴉が翼を広げて羽ばたきながら、血走った目で小姫を睨んでいた。
視線は鴉の鋭い鉤爪に引き寄せられた。おそらく、それで背中からなぎ倒されたのだろう。制服と共に皮膚が切り裂かれたような痛みがあるが、突き刺されないだけましだったのかもしれない。
大鴉は、数度、羽ばたいた後、落下するようなスピードで降りてきた。足が地面に着く瞬間に人間の姿に変身し、よろけて膝をつく。
「残念、だったな……! 俺をまた……封印できなくて……!」
荒い呼吸の合間に、吐き捨てるようにセイが言った。まだ苦痛は収まっていないようだ。そのおかげでここまで逃げ切ることができたのだろう。セイの不調を喜ぶのは少し良心が痛むが、彼と話し合うためのチャンスだと思うしかない。小姫は力を振り絞って立ち上がった。
「……違うよ。封印したくて、あの丘に向かったわけじゃない……。ちゃんと話を聞いてほしかったの。あのままじゃ、セイちゃん、私の言葉なんて聞いてくれそうになかったから」
セイは小姫を見上げたが、立ち上がろうとはしなかった。地面に爪を立てて、唇を歪めて言葉を絞り出す。
「まだ……、そんなことを、言うのか……! 何度言おうと、お前らの嘘にまみれた言葉なんて、俺はもう、信じない……!」
「――でも! 私は、嘘は言ってないよ。あの時も、今も、セイちゃんに嘘は言ってない! 確かに、私は……私たちは、嘘もつけるよ! でも、だからって、全部が嘘だなんて決めつけないで! ……だって私は、言葉でしか、気持ちを伝えることができないんだよ。言葉でしか、説明できない。私がどう思ってるか、あの時何があったのか、嘘だって決めつけずに、ちゃんと聞いてよ! ……セイちゃんに、誤解されたままじゃ嫌なの。だからお願い……、お願いだから、最後まで聞いて……!」
「…………」
セイは一瞬、目を伏せた。だが、すぐに顔を上げ、小姫を強く睨みつけた。小姫の思いが伝わった様子はない。憎しみと恨みに満ちた目の中に、情のかけらなど見当たらなかった。
セイの決心は変わらないのか。小姫はセイの挙動を一つも見逃すまいと、星明りを頼りに目を凝らした。湖からはまだだいぶ離れている。この距離で飛び掛かられたら、一巻の終わりだ。入口にたどり着いただけで気が抜けて、無防備な背中を向けてしまった小姫の致命的なミスだった。
しかし、セイは時折唇をかみしめながら、ひたすら荒い呼吸を繰り返している。その表情からは、何を考えているか読めなかったが、なんとなく、耳を傾けてくれているような気がした。
「――セイちゃん」
小姫は息を整え、慎重に話を切り出した。
「セイちゃんは、あの頃……、私が小学生だった頃、よく、相談に乗ってくれたよね。勉強のこととか、クラスメイトのこととか……。私、嬉しかったよ。お母さんが村長で、ずっと遠巻きにされてて、特に親しくなってくれる友達もいなくて。誰かに相談したことなんて、なかったから……。だから、本当に嬉しかった。セイちゃんと友達になれて良かった。あの時は、セイちゃんが妖怪なんて知らなかったけど、そんなのどうでもいいと思った」
「…………」
「セイちゃんのおかげで、毎日がすごく楽しかった。友達がいるだけで、世界ってこんなに違って見えるんだって驚いた。相変わらずクラスでは浮いてたけど、セイちゃんがいれば、それだけで良かった……。……だけど、セイちゃん、あの頃から、少しずつ変わっていったよね。嫌いなやつを喰ってやるとか、そんなことばかり言って、私の話を聞いてくれなくなった。セイちゃんが妖怪なんじゃないかって気にするようになったのはその頃。どうしたらいいかわからなくなった私は――、お母さんに相談したの」
「――っ! やっぱりお前が――!」
「でも、違うの! セイちゃんが思ってるようなことじゃない。……だから、もう少し聞いて」
口を挟もうとしたセイを見つめ、小姫は首を横に振る。
「あの時、気づいたんだ。私、セイちゃんのこと、何も知らなかった。セイちゃんが何なのか、そもそも、妖怪なのかすら知らなかった。――調停者であるお母さんなら、わかると思ったの。だから、話してみた。キンモクセイの丘に、こういう男の子がいるんだよって。たぶん、妖怪なんだよって。そうしたら、セイちゃんが変わってしまった理由を教えてくれると思ったの。……まさか、私の知らないうちに、セイちゃんを封印しようとするなんて、思ってもみなかった」
「……ほら。やっぱり、言い訳だろ……」
セイが地面を見つめたまま唸った。
「そうやって、全部母親のせいにするつもりか……!」
「――っ、そうじゃないよ! 今思えば、私が考えなしだったんだって思う。でも、知らなかったことは本当なの! セイちゃんを封印してほしいなんて、考えたこともなかった」
「……黙れ」
「本当なの! でも、お母さんも悪くないの。私、考えてみれば、セイちゃんが友達だってこと、伝えてなかった。伝えていればきっと、お母さんだってあんな一方的なことしなかった。だから、やっぱり私が悪かったんだと思う。――でも、セイちゃんを裏切ったわけじゃない! だまして封印したわけじゃないってことは、せめて、わかって――」
「――黙れっ!」
セイは顔を上げ、立ち上がろうとしながら怒鳴った。
「やっぱり、人間はみんな同じだ。自分だけきれいでいようとする。……結局、お前は逃げたんだよ。なんて言おうと、お前は逃げて、俺の前から姿を消した。何事もなかったように、俺なんていなかったかのように、安穏と暮らしてた。その間、一度たりとも顔を見せなかった!」
「それは……!」
小姫は唇を噛んでから、絞り出すように答えた。
「……たまたま丘に行って、その時、セイちゃんが苦しんでいるのを見て、怖くなって逃げたのは、その通りだよ。でも、その後、私……事故に遭ったの! 大けがをして、記憶を失って、今までずっと、セイちゃんのことを忘れてた。事故のことも、セイちゃんと友達だったことも、すっぽり記憶から抜け落ちてた。それが最近、急に夢でみるようになって……ようやく全部思い出したの。私、ずっと、後悔してた。セイちゃんの前から逃げたこと、謝りたいと思ってた! 友達にひどいことして、罪悪感でいっぱいだった。……だから、セイちゃんのところに来なかったのは、セイちゃんがどうでも良かったとかじゃなくて――」
「よくも、そんな都合のいい嘘を――」
「――嘘じゃないってば!」
小姫はカッとなって叫んだ。これだけ言葉を重ねても、届かないのか。その事実に、悲しくなる。
「……セイちゃんこそ、私のこと、一つも信じてないじゃない。セイちゃんが思いたいように思いこんで、それを私に押し付けてるだけじゃない! 私が悪者で、セイちゃんが被害者だって、そう思いたいだけなんでしょ!?」
「……っ」
セイがのどの奥で呻いた。その傷ついた表情にひるみかけたが、もう、言葉は止められなかった。
「私だって、怖かったんだよ……っ!? セイちゃんが変わっていくのが怖かった……。人を食べる話ばっかりして、私の話もろくに聞いてくれなくて! 友達だから、怖いなんて思っちゃだめだって思った。でも……、怖かったよ。セイちゃんが怖かった。怖いから逃げたんだよ。――当り前じゃない。あんな嬉しそうに人を食べようとする妖怪、怖いに決まってるじゃないっ!」
「――お前ぇ……っ!」
地の底を這うような声に、小姫はハッとした。
いつの間にか、セイの顔つきが豹変している。歯をむき出しにして食いしばり、真っ赤に充血した目で小姫を睨んでいる。
――言い過ぎた。
後悔したが、すでに後の祭りだった。
「人を食べるのが怖いだと……? 俺が怖いだと!? だから、逃げるのが当然だというのかっ!」
怒りを爆発させたセイは、震える手を顔に当てた。湾曲した鋭い爪が肌に食い込み、ぶつりと皮膚を破って血が浮き上がる。
思わず後ずさりする小姫に、セイは一歩近づいた。
「怖いだって……? そんなはずはない! 嬉しいはずだ……、喜んでいるはずだ……! 口では心配していても、本当はいなくなってせいせいしているはずだ! だってそうだろ。お前たちが望んだんだ。こういう俺を、お前たちが望んだんだよ!」
(……え……?)
セイが爪を引き、裂け目が広がる。血がどろりと幾筋にも流れ出て、地面に落ちて染みを作った。星明りの下で、その色は、息をためらわせるほどの迫力があった。痛みを感じていないようなセイが恐ろしく、小姫は震え出した腕を強くつかむ。
彼は、血を吐くようにして続けた。
「よくも、嬉しそうだなどと……! そんなわけがないだろう! 誰が、人なんて喰いたいと思うか! お前のためだと思ったから、俺は……! ずっと、我慢して、俺は……っ! ――俺だって、誰かの役に立ちたかったんだよ。お前に何か返したかったんだよ! 何の力も持っていない俺がお前にしてやれることは、それしかなかったんだよ!」
「――セイちゃん……!」
胸を突かれたような気持ちだった。恐怖でマヒしていた頭に、セイの言葉がじわじわと沁み込んでくる。
(ああ……そうだった。セイちゃんはずっと、私のためって言っていた……。私のために、喰ってやるって……)
思い返してみれば、セイは一度も、人を喰いたいとは言っていない。ひたすら、小姫のためだと言っていた。それが小姫のためになると、本気で信じていたのだ。
だが、なぜそんなふうに思うのか、小姫には理解できない。理由を考えたこともなかったからだ。
……だから、すれ違ってしまったのだろう。小姫は人を喰うのは怖いことだと思い、セイは誰かのためだと信じ込んでいた。お互いのその考え方を不思議に思いこそすれ、理解しようとはしなかった。そうして、誤解は解けることなく、決定的な亀裂が生まれた。
小姫は大きく息を吸った。あの時すべきだった問いを、十年経った今、ここでする。
「セイちゃん……。教えて。セイちゃんは、なんの妖怪なの?」
「――」
セイは一瞬、怒ったかと思った。目を吊り上げ、小姫に襲い掛かるような仕草をした。が、小姫の表情を見て取ると、全身から力を抜くかのように、肩を落とした。
「……俺は……、ただの、鴉の妖怪だよ……」
セイは声音を落とし、苦しそうに息をつなぎながら話し始めた。