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妖怪村の異類婚姻譚  作者: 鍵の番人
第三章 花と香りと、特別な約束
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31.

 ――そう、いつか……、この記憶が必要となる時が来るまで。




「――っ、思い……出した……!」


 長い――、本当に長い夢から覚めて、小姫は目を開けた。


 呼吸が乱れている。胸が圧迫されているかのように息苦しい。顔に手を当てると、頬に涙の痕があった。どうやら、寝ている間に泣いていたようだ。夢の中で過去を追体験したようなものだから、全体的に体がだるいのも頷ける。


 一瞬、自分が小学生なのか、高校生なのか混乱したが、地面に手をついて体を起こすと、次第に意識がはっきりしてきた。

 小姫は涙を拭い、深呼吸をする。


 ――全て、思い出した。


 あの事故の時、何があったか。あの事故の前、何が起きたか。


 セイの夢が、夢だと思っていた子どもの頃の記憶が、感情とぴったり重なった。初めて丘でセイを見つけた時の驚き。仲良くなれそうな気がしたときのわくわく感。セイと一緒に読むための本を図書館で選んでいるときの高揚感。


 そして、セイを置いて逃げたときの、胸に突き刺さるような痛み。いくら消そうとしても、消えない罪悪感。それから逃れようとして必死に走り、事故に遭い――そこで、乙彦に会ったこと。


(小さかったけど……、あの子が、乙彦だったんだ……)


 小姫を心配して泣いていた着物姿の少年。冷静になって思い返してみると、逆光の中の少年には、青年姿の乙彦の面影がある。


 以前、彼に当時のことを聞いたとき、人間の子どもを助けるために、同じ年頃の人間に化けて近づいたと言っていた。騙されて、危うく車に轢かれそうになったのだと。


 その時、乙彦を救ったのが小姫だった。今までその実感はなかったが、確かに、小姫が突き飛ばさなければ、轢かれていたのは彼だった。


 ……だが。


 胸がずきりと痛む。


 乙彦を助けたのは、優しさからでも、正義感からでもなかった。……ただ、罪悪感から逃れたかっただけ。

 自暴自棄になり、自分なんかどうなってもいいと思った。自分を責めるセイの声から逃げたかった。セイの憎しみを真っ向から受け止めるより、その方が楽だったから、車の前に飛び込んだ。――ほとんど自殺のようなものだったのかもしれない。


 だから、体の傷を治してもらっても、現実から逃げようとした。乙彦が、死に物狂いで治してくれたにもかかわらず……。


(私の……人の肉を食べたら、悪鬼に堕ちるとか言っていた……、どうなるかわからない、とも)


 乙彦は本当に危険なことをしたのだ。彼に起こるかもしれなかった異状……、それは、今からなのか、もう済んだことなのかはわからない。乙彦は何も言わなかったから。


 だが、小姫には、そんな犠牲を払うだけの価値などなかった。

 自分勝手で、考えの浅い、寂しかった子ども。乙彦が命の恩人だと思い込んでいたものの正体はそれだった。乙彦を事故から救ったのは、臆病で、弱くて、現実から逃げ出そうとした卑怯な行動の結果でしかない。


 結局、小姫は、乙彦を助けたつもりで、彼に多大な犠牲を払わせただけだ。彼を救ったつもりになって、満足感に浸っていた自分に吐き気がする。乙彦から感謝されるいわれもないし、彼に優しくされていい人間でもなかったのだ。


 セイからも、憎まれて当然だ。小姫がセイを見つめる目――、あれは、しばらく前から、友達に対するものではなくなっていた。きっとセイは、少しずつ傷ついていったのだろう。客観視できるようになって初めてわかる。セイから憎悪を向けられる前に、小姫が恐怖の視線を向けていたことに。


(……ああ、だから……思い出そうとしなかったんだ……)


 岩の神は、記憶を封じるには本人の意志が必要だと言っていた。本人の意志――つまり、小姫が心の中で思い出したくないと強く念じていたから、記憶を封じることができた。記憶を失っているという恐怖も、焦りも、感じなかった。思い出せなくても平気だったのは、そのためだ。


 ――しかし、今、全てを思い出してしまった。


 自分を責め苛むセイの声。自分の中から響く生々しい罵声。軽蔑してもしたりないほど醜い自分。それらを抱えてこれから生きていかなければならないこと。


 思わずうめき声が出た。後悔で息が苦しい。やり直せるものなら、やり直したい。できることなら――何もかも、なかったことにしたい。

 あの時のように、自分を壊してしまいたい衝動まで、蘇る。


 ――だけど。


(……わかってる。もう、私は充分逃げたんだ……)


 心の中ではわかっている。岩の神は、小姫が耐えられるようになるのに必要な時間を与えてくれた。だからこそ、少しずつあの時の記憶を思い出していった。そうして、ようやく覚悟ができたから、全ての記憶が小姫の中に戻ったのだ。


 セイが小姫のせいで苦しんだなら、傷ついたなら、今度こそ向き合わなければならない。

 そうすることでしか、小姫も、セイも、前に進めない。


(――セイちゃんは……?)


 乙彦を見送った後、夢の中かと思って玄関のドアを開けてしまった。そこには、ドア枠からはみ出るほど大きな黒い何かがいて、目だけがらんらんと光っていた。バサリと翼で覆われたときに、巨大な鳥っぽいものだとわかった。視界が闇に染まった瞬間、気を失ってしまったが、あれはきっと――セイだったのだろう。


 夕暮れの気配はすでになく、周囲は闇に閉ざされている。ようやく目が慣れてくると、梢が風に揺れるのが見えた。星はあるが、月がない。あの日の夜のように……。


(私……、どれくらい、気を失っていたんだろう)


 どうやら身ひとつで放り出されていたらしく、小姫の近くにはスマホも鞄も何もなかった。弥恵にも、乙彦にも、連絡はできないということだ。


 せめてここがどこかわからないかと、小姫は周囲を見渡した。木々に取り囲まれているが、キンモクセイの丘ではないようだ。もっと広くて殺風景で、風が入り込む隙間がある。星の見え方と風の冷たさから、標高は高いように思われた。

 地面はコンクリートではなく、草地ではない。砂のような感触と、こんな環境でも芽吹かせるたくましい雑草がちらほらと覗いている。おそらく村から出てはいないのだろうが、こう暗いと、昼の印象とはだいぶ違ってくる。夜に出歩くことのない小姫に、この場所だと断定するのは難しかった。


(野球場……ほど広くないし、同じ理由で、お祭りの会場でもないよね……? 学校にこんなところはないし……。そういえば、乙彦は? 早田さんは、どうなったの……?)


 小姫がセイに攫われたのは、乙彦が出て行ってからさほど時間は経っていない頃だ。おそらく、セイには追い付けなかったのだろう。だとしたら、そのまま手紙にあった学校へと向かったのだろうか。


 早田は見つかったのか。乙彦は無事なのか。何事もなければ、小姫の元に戻ってきてくれるはずだが……。


 ――本当は、そんな義理はないとしても。


 ずきりと痛んだ胸を押さえ、小姫は思考を続ける。

 乙彦への罪悪感に酔いしれている場合ではない。今は、考えなければならないことが山ほどある。


 小姫をここに連れてきたのはセイだろう。ということは、乙彦の側に、もうセイはいないはずだ。


 乙彦には、小姫の居場所がわかるという。小姫の身体の一部は乙彦の妖力でできているし、彼が作ったヘアピンも身に着けているからだ。それでも今ここにいないということは、彼に何かあったとしか……。


 思考を進めるにつれ、尋常でない寒さが背筋を這いあがってきた。自分で自分を抱きしめようとするも、肝心の腕ががくがく震えてうまくいかない。考えれば考えるほど、嫌なことばかり思い浮かんでくる。


(やだ、やだ、やだ……! そんなわけない。乙彦に、何か遭ったなんて、そんなわけない……! だって、約束した……。ちゃんと戻ってきてくれるって、乙彦は言ってくれた。それなのに……。また、私のせいで、そんなことになったら……、私、どうやって償えば……っ)


 いてもたってもいられなくなり、小姫は震える手で地面を押して立ち上がった。小姫ができることがあるとしたら、今すぐセイに謝って、彼らを助けてもらうことだ。


 しかし、さっきから、何の気配も感じられない。人どころか、虫の音も、生き物の息遣いも聞こえないのだ。そんな静寂の中、遥か遠くから、風が雲を押し出す力強い音が、嵐の前触れのように轟いた。不吉な音に棒立ちになったとき、ようやく、無音の闇が割れた。


「――やっと起きたのか」


 耳馴染んだ声に、小姫はハッとして顔を上げた。上空に視線をさまよわせ、目印となる金色を探す。


 二人が友達だった頃、セイは木の枝に腰掛けて、小姫が着くのを待っていてくれた。そう思って探すと、記憶よりも下の方の枝に、星明りを受けて金色に光る二つの目を見つけた。


(――セイちゃん……!)


 セイはやはり木の枝に座り、離れたところから小姫の様子を伺っていた。夢の中と変わらぬ背格好で、衣服だけは以前より小ぎれいになっている。


 様々な思い出が一気に頭の中を駆け巡り、小姫の胸がいっぱいになった。思わず、足がふらりとそちらへ向く。


「セイちゃ――」


 呼びかけようと口を開いたとき、それより先にセイが話し出した。


「ずいぶんぐっすり寝てたもんだな。待ちくたびれて、何度も起こそうと思ったぜ。……久しぶりだな。何年だ? 五年? 十年? お前がそれだけでかくなったってことは、結構な月日が流れたんだろ?」


 穏やかだった頃のセイと同じ声に同じ口調。てっきり、出合頭に怒りをぶつけられると思っていた小姫は、ほっとすると同時に、同じくらい不気味さを感じた。


 ――なぜ、そんなに普通に話しかけられる?


 小姫は足を止め、ぎこちなく笑顔をつくる。


「……十年、だよ。セイちゃん……」

「ふうん。十年か。前回よりは短かったな。それもそうか。あの木もそろそろ限界だったもんな。……考えてみれば、随分、長いこと世話になったもんだ」


 首を回して、右後方へと視線を向ける。その声音が意外と優しいことに、小姫は驚いた。


 キンモクセイの木は、セイにとっては敵ではないのか。それなのに、なぜそんな懐かしそうな声を出すのだろう。

 セイの目がそらされたことで、小姫は肩の力を抜いた。セイに気づかれないよう、息を殺して視線をめぐらす。


 乙彦か早田の姿があるかと思ったが、やはりどちらも見当たらない。小姫へのけん制や人質の意味で、どちらか、あるいは両方を伴っている可能性を考えたのだ。いてほしいわけではなかったが、この目で無事を確かめられたら、ひとまずは安心できただろう。


 やはり、乙彦は学校に行ったのだろうか。では、早田は。もし、乙彦が無事に早田を助け出せたのなら、その後、小姫を探しに来るはずだ。


 結局、同じ結論に達する。二人に――少なくとも乙彦に、何かが起こったのは間違いないようだ。

 だとしたら、その何かとは何だ。それに、早田の状態は。セイはどうやって小姫に復讐するつもりなのだろう。


 聞きたいことが次々と湧いてくる。だが、それを問う前に、小姫には先に言うべき言葉があった。


 セイがそのことに触れないのは不気味でしかない。自分から言い出すのには勇気が要る。しかし、あの時、言えなかった言葉。言いたかったこと、言うべきだったこと。それを伝えられるのは、今しかない気がした。


「セイちゃん、あの、私――」

「――お前にも、世話になったな」

「え?」

「世話になったろ、小姫」


 セイの声音が変わり、まとう気配にも変化があった。どこか遠くを見るまなざしをしていた彼の目が、いつの間にか、まっすぐ小姫に向いている。


 背中を冷たいものがよぎり、ぞくりとした。

 セイは、威圧感を漂わせた金色の目を細め、笑う。


「そう不安がるなよ。ちゃんと覚えてるんだぜ。お前が俺に、いろいろ教えてくれたこと。何百年も眠っていて、右も左もわからなかった俺に、さ」

「…………」


 それは、どういう意味なのだろう。小姫は唇を引き締めた。


 素直に感謝の意だと受け取っていいのか。それとも、小姫の裏切りを暗に責め立てているのか。

 小姫の疑念をよそに、セイは続ける。


「俺、もらってばかりだったよな。だからさ、ずっと、礼をしなきゃと思ってたんだ。こういうの、ギブアンドテイクって言うんだろ? ……あ、いや、もう言わないのか? 人間の言葉って、移り変わりが激しくて難しいよな。それで、何が欲しい? して欲しいことでもいいぞ。正直に言ってみろよ」

「え……?」


(お礼……?)


 突然、何を言っているのだろう。早田を攫い、小姫を脅し、乙彦を誘い出した。そんな状況で交わされる会話としては、場違いすぎる内容だった。

 それに、聞かずとも答えはわかっているはずだ。小姫の望みはもちろん、二人を無事に返してもらうこと。それから、弥恵たちや村の人々に、危害を加えないこと。あとは、セイには大人しくキンモクセイの丘に戻ってもらって、封印を――……。


(――いや、違う)


 小姫は愕然とした。今、自分は何を考えた?


 小姫がしなければいけないことは、そうではない。十年前の過ちを正すことだ。セイのペースに飲まれず、誠心誠意、話し合うこと。

 小姫は首を横に振り、セイを見上げた。


「セイちゃん……、私、お礼なんていらないよ」

「は? なんでだよ。遠慮することなんてないんだぜ」

「ううん。遠慮してるわけじゃない。だって、セイちゃん……、本当は、怒ってるんでしょ?」


 一拍遅れて、セイが、は、と笑った。


「――怒る? 俺が? 変なこと言うな。なんで、俺が怒るんだよ? ……俺たちは、友達だろ?」


 友達、の言葉が上滑りしている。小姫は唇を噛み、舌で湿らせてから続けた。


「そう、だよ。友達だよ。……それなのに、私、間違えた。あの時、セイちゃんが封印されたのは、私のせいで。……だから」

「おい――」

「っ、ごめんなさい!」


 小姫は息を整え、思い切り頭を下げた。


「あの時、私……、セイちゃんに、ひどいことした……。自分のことで頭がいっぱいで、セイちゃんが苦しんでるのに、あの場から逃げ出した……。謝らなきゃって思ってたの。ずっと、謝らなきゃって……。謝って、それで許してもらえるなんて思ってない。でも、聞いてほしいことがあるの」

「――……」


 セイの声は聞こえない。何も言わない。ただ、静かな息遣いだけが感じ取れる。

 だが、話を遮らず、聞いてくれている。それだけを支えに、小姫は続けた。


「あの時のこと……、言い訳に聞こえるかもしれないけど、私は何も知らなかったんだ。セイちゃんが妖怪だったことも……ううん、そうかもしれないとは思ってたけど、だからって、お母さんがセイちゃんを封印しようとするなんて思わなかった。……でも、それでも、あれは私のせいだった。私がセイちゃんのことをお母さんに相談しなければ、あんなことにはならなかった。だけど……、セイちゃん、あの頃、様子がおかしかったでしょ? 私、それが、不安だったんだ。前みたいなセイちゃんに戻ってほしいって思った。……友達を食べるとか、そういうことを言わない、セイちゃんに。だから……、お母さんに相談した。でも、これだけは信じてほしいの。私、本当に、セイちゃんを騙すつもりじゃなかった。裏切ることになるなんて、思わなかったの……!」

「…………」


 最後は顔を上げて、彼を見つめて訴えた。

 言わなきゃいけないこと、伝えたいと思っていたことを全部詰め込んだ。頭が熱くて、口が勝手に動いて、ちゃんと説明できたかは自信がない。だが、言わずに後悔することは、もうしたくなかった。


 全部わかってもらえるとは思わない。すべて信じてもらえるなんて期待していない。だが、せめて……、セイを苦しめている誤解だけは解かなければならない。


 信じていた者に裏切られた悲しみ。恨み。憎しみ。そのすべてを内包したセイの叫びが、心を切り裂くような悲痛な声が、子供の頃の小姫の胸にも刻まれている。記憶を取り戻した今、ついこの間のことのようにまざまざと感じられる。


 セイの苦しみがどれほどのものだったか、本当のところは小姫にはわからない。だが、少しでもいいから、セイの苦痛を和らげたいと思う。

 小姫は裏切ったわけではない。セイは信じた友達に裏切られたわけではなく、不幸な行き違いがあっただけなのだという真実が、わずかでもセイの癒しになれば。

 そう思って、もう一度、小姫は頭を下げた。


 ――だが、セイの返答は、想定とは違うものだった。


「小姫、いつまで頭下げてんだよ。もういいよ、顔上げろ」

「――でも」

「顔上げろって言ってるだろ。そんなんじゃ、話の続きもしにくいだろ」

「! セイちゃん――」


 一瞬、わかってくれたのかと思った。それがぬか喜びだと悟ったのは、勢い込んで頭を上げて、彼の冷たい視線とかち合った時だ。

 セイは口元に笑みを浮かべ、軽い調子で話を続けた。


「そんなの、もう、過ぎたことだろ。それより、さっきの話の続きしようぜ。ほしいものがないんだったら、したいことはないか? 行きたいところは。見たいものは――、ああ、ほら、また、クラスの奴らに嫌なことされるんじゃないか? 今度こそ、お前の代わりに仕返ししてやるぞ?」

「……え?」

「なんだよ、そんな顔するなって。見てみろよ。俺は自由だ! もう、どこにでも好きなところに行けるんだぜ! あの頃とは違うんだ!」


 セイは枝の上に立ち上がり、夜空へ向かって腕を広げた。


「――ああ、こんなに思いっきり空を飛んだのはどれくらいぶりだろう! ずっと眠り続けて、体が自由になるのは夢の中だけ……。何の感触もなく、何の感慨もない……、こうやって、夜風を感じることもなかったんだ! 点…そうだ、空を飛ぶのはどうだ!? おまえ一人くらいなら、抱えて飛ぶこともできる。なんたって、ここまで運んできたのも俺なんだからな!」


(セイ……ちゃん?)


 一体、何の話を。


「セイ――」


 小姫は呼びかけようとしたが、ためらった。


 話が通じていない。さっきの小姫の言葉は、彼に届いていない。

 それどころか、セイの目に小姫は映っていないようだった。どこか遠く――、十年前の小姫を見ているのかもしれない。


 これでは、だめだ。きちんと話をしなければ。きちんと気持ちを伝えなければ。震えそうになる足を鼓舞し、一歩、セイに近づいた。


「……空を飛ぶのは、今度でいいよ。セイちゃんはもう自由なんだから、それはいつでもできるでしょう? それより、私、セイちゃんと話がしたい。あの時のこと、ちゃんと謝りたいの。セイちゃんが話を聞いてくれないと、私、謝ることもできない……!」

「はあ? 話なんて、それこそいつでもできるだろ。大体、お前の話、面白くないよ。どうせ昔の話するんなら、もっと――、ああ、そうだ。お前、今度、算数ってやつ教えてくれるって言ってたよな。今は難しいからって十年前は断られたけど。そうだ。せっかくならその話しようぜ。さすがにそろそろ、教えられるようになったんじゃないか?」

「セイちゃん、ごめん。今は、違う話をさせて。セイちゃんにとっては嫌なことかもしれないけど、それでも、聞いてほしいの。あの時、何があったか、ちゃんと説明したい。だから――」

「なんだよ。算数の話は嫌なのか? お前、勉強苦手だったもんな。だったら、そうだな……、ああ、じゃあ学校の話はどうだ? お前、前とは違う学校に通ってるんだろ? 制服とかいうの着てるもんな。どういう生活してるんだ?」

「セイちゃん、お願い――」

「そこにはうまい木の実はあるのか? 遠足ってやつもあるのか? あ、お前のことだから、また仲間はずれにされたりしてな。――あっ、そうか! お前がしたい話ってそれか! なんだよ、回りくどいな。昔の話を蒸し返したりして、結局お前、嫌なやつらに仕返ししたいんだ!」

「! 違う! どうしてそんな話になるの!?」


 たまりかねて、小姫は声を荒げた。


「私、そんなこと一言も言ってないよ! どうしてすぐ、そんな話に結び付けるの? あの時、私がお母さんにセイちゃんのことを話したのは、セイちゃんがそういうことばかり言ってたからだよ! あの頃、確かに、クラスメイトと嫌なことがあったよ。でも、仕返しをしたいとか、そういうふうには思ってない。セイちゃんには、話を聞いてほしかっただけなの。私の話を聞いて、私の味方になってほしかった。私にはセイちゃんがついてるって、そう思わせてほしかっだけなの。……だから、みんながいなくなればいいとか、死んじゃえばいいとか、そんなことは思ってなかったし、私は望んでいなかった!」


 だが、セイはそれを聞いて笑った。


「嘘をつけ。そんなのきれいごとだろ。本当は、そんな奴らいなくなってほしいくせに。ひどい目に遭って、消えてなくなればいいと思ってるんだ。正直に言えよ。俺に、あいつらを喰ってほしいって」

「セイちゃん! 私、思ってない。そんなこと、思ってないよ!」


 首を横に振って否定するも、セイは熱に浮かされたように話し続けた。


「ああ、そうだ、それも忘れてたよ。お前たち人間は、はっきり言うのを嫌うんだっけ。たとえ相手の死を望んでいても、それを口にするのは嫌なんだよな。自分は善良で清廉潔白で、そんな汚いことは考えないと思ってる。あくまで、勝手に相手に罰が当たった……そういうふうにしたいんだ。――いいぜ。何でもしてやるよ。お前は友達だからな。俺が勝手に、そいつらを懲らしめてやればいいんだろ?」

「な……何言ってるの?」


 ざわざわと胸の内側を嫌な予感が這いまわる。セイの真下に駆け寄って、そこから彼の立つ木の枝を見上げた。


「セイちゃん、聞いてよ! 私、セイちゃんにそんなこと、してほしいなんて思ってないよ! 嘘じゃない! だからやめて! そんなことしないで!」

「小姫、いいよ。それ以上言わなくて。俺はちゃんとわかってるから。……お前は、何も気にしなくていい。お前をいじめた奴らに何があったって、それはお前のせいじゃない。俺が勝手にやっただけだ。――お前は誰の不幸も願わない、清廉な人間だ。これでいいんだろ?」

「セイちゃん……っ!」

「さあ、まず、誰にする? 遠足の時、仲間はずれにしたやつか? 十年前と今と、どっちが先だ? ――ああ、違うな。わかってる。最初はあいつだろ。一本結びのあの娘……、俺が眠ってたあの丘に、一人でのこのこやってきたやつ」

「え――」


 小姫は息をのんだ。


「それって……早田さんのこと……? セイちゃん、早田さんをどうしたの? 早田さんは無事なの? 今、どこにいるの!?」 


 やはり彼女は、一人でキンモクセイの丘に行ったのだ。展示を諦めきれなかったのだろう。丘の様子を確認し、小姫たちを説得する材料でも探そうとしたのかもしれない。

 セイは表情を消すと、勢い込んで詰め寄ってきた小姫の目を、静かに見降ろした。


「……顔色が変わったな」

「――えっ……?」

「あの娘は、お前のなんだ? 友達か? でも、あそこを立ち入り禁止にしたのはお前の母親だろ。それなのに、あいつはルールを破って入ってきた。自分たちが作ったルールさえ守れない悪いやつ。なら、罰が当たるのは当然だ。そうだろ?」

「……罰って……!」


 小姫は青ざめた。


「セイちゃん、早田さんに、何かしたの……? 罰って、何したの!?」

「なんだよ。何かしたら、どうだっていうんだ?」

「どうしたって――、早田さんにも、事情があったんだよ。だからルールを破っていいなんて言わないけど、でも、セイちゃんが勝手に罰を下していい理由にはならないよ! ねえ、教えて! 早田さんに何をしたの!?」

「うるさいなあ……。あいつも同じだ。ぎゃーぎゃーうるさかったから、喰った」

「えっ――」


 頭の中が真っ白になった。一瞬、呼吸が止まったかもしれない。そこへ、セイが続けた。


「――って言ったら、どうするんだ?」

「――……っ」


 嘘なのか。早田を喰ったというのは、嘘なのか。


 頭が回らない。頭も顔も固まってしまって、何も考えられない。

 呆然とセイに視線を向けた小姫を見て、セイが口の端を歪めた。


「――ああ、やっぱりな。……小姫、お前はもう、俺の友達じゃないんだ」

「――っ」


 小姫ははっとしてセイの顔を凝視した。


 暗闇でも光る金色の目――、太陽の光の下では純粋に見えた目が、今は濁り、悲痛な色を湛えている。

 どこかで……、ついさっきも見た覚えがある。傷つき、悲しみ、絶望に染まった心の色が、そのまま表面に現れたような。


「わ、私――」

「やっぱり、お前にとって、友達ってのは人間だけなんだな。ルールを破っても、人間なら許せる。妖怪は、役に立たなければ存在すら許せない。そういうことなんだろ?」

「ち、違う……」

「あの娘は、無事だよ。お前の友達かもしれないから、喰うのはやめたんだ。気絶させて放り出してきたけど、たぶん死んじゃいないだろ。……良かったな。友達が化け物に喰われずに済んで」

「私、セイちゃんを化け物なんて――」

「今更、何、言ってんだ。――お前、どんな目で俺を見たか、気づいていないのか?」

「え……?」

「あの時も――今も。俺を、どんな目で……!」


 小姫の心臓がどくんと鳴った。


 セイを――友達を、どんな目で見たか。あの時と……、十年前、彼の前から逃げた時と、同じ目で。


 ――彼を、化け物だと……?


 ヒュッ……と空気を吸い込み、そこで息が止まった。


 ただ、怖いと……そう思っていただけではなかった。もとから違う存在だと、最初から相いれない存在だと――化け物だと、そんな風に思って、あの時小姫は逃げたのか。


「……違う」


 小姫は、小さく首を振った。


「違う。違う。私は、セイちゃんを化け物だなんて、思ってない」


 だって、あの時。

 様子が変わって、不気味なことを言いだした彼に、元に戻ってほしいと思っていたのだ。元の優しい彼に戻ってほしいと、また、穏やかに笑い合いたいと、そう思って弥恵に相談したはずだった。


「――今更、そんな言い訳をするのか」

「ううん。言い訳じゃない。本当に、そう思ってた。……だけど」


 ――だが、また、間違えた。

 彼の味方に、なれなかった。自分の味方になってほしいと言いながら、セイに怒りを抱いてしまった。……敵意を、向けてしまった。


 セイは試していたのだ。小姫がどちら側にいるのかと。……まだ、セイの味方なのかということを。


「……だけど、ごめん。疑った……。セイちゃんが、本当に早田さんを食べたんじゃないかって。……だから、思わず――」

「化け物だって、思ったんだろ」

「――違うってば! 私が言いたいのは――」

「――うるさいっ!」


 セイがかんしゃくを起こしたように怒鳴り、腕を大きく振るった。すると、腕の動きに沿うように突風が生まれ、小姫を直撃する。


「きゃあっ!?」


 悲鳴を上げて、地面を転がった。そう遠くまでは飛ばされなかったが、砂地に足がこすれて傷ができ、じわりと血がにじむ。


「……もう、嘘はたくさんだ……!」


 痛みに顔をしかめる小姫に向かって、セイが吐き捨てるように言う。


「お前もどうせ、他の奴らと同じなんだ……。用が済めば……、いらなくなったら、そうやって俺を捨てるんだろ! 俺なんか、いなくなればいいと思ってるんだ!」


 セイは叫びながら、次々と突風を生み出した。何も遮るもののない空間で、小姫は格好の的だった。

 風に飛ばされないよう耐えるのに精いっぱいで、立ち上がって逃げることもできない。目をかばい、隙間からセイを盗み見ると、彼を中心に風が渦巻き、唸り声をあげていた。


 ――セイは、風を操っている。


 セイの正体は、鋭い鉤爪とくちばしをもつ、巨大な鴉だった。河童の乙彦は川の水を操っていたから、鳥の妖怪であるセイは、その対象が風なのかもしれない。


 荒れ狂う風の中心で、セイは一人だった。木の枝も、木の葉も、もちろん人も、近づくことはできない。これ以上近づくなと、自分を傷つけるなと叫び、全てを拒絶しているように見えた。


「お前だけは違うと思っていた! お前だけは……、俺をそんな目つきで見ることなんてないと、信じて……っ!」

「――っ、ごめん……、ごめん、セイちゃん……!」


 一瞬だけだ。一瞬だけ……、小姫がセイに、無意識に向けてしまった敵意。早田が傷つけられたのではないかと恐れ、とっさにぶつけてしまった怒り。


 だが、一瞬でも、そんな目でセイを見てしまった。また、以前と同じように……セイを傷つけた。もう、彼の友達でいる資格は、小姫にはないのかもしれない。そんな小姫がこれ以上何を言っても、空々しく響くだけだ。もうきっと、小姫の説得はセイの心には届かない。


 ――でも、それでも、否定したい。否定しなければならない。


 要らないなんて思わない。セイがいなくなることを願ったことは、一度もない。 ごうごうと唸る風の隙間から、セイに向かって声を張り上げる。


「セイちゃん……! ごめん……、ごめんなさい……! 私、間違えてばっかりで……! でも、これだけは本当なの! あの時も――、今も! セイちゃんがいなくなればいいなんて、考えたことないよ! いらないなんて、思ったことないよ!」


 セイはそれを聞いて、顔を歪めた。


「嘘を……、言うなと、言っただろ!」


 さらに風を引き込むと、小姫の周囲に勢いよくぶつけてくる。


「俺、知ってるんだぞ。お前たちが、俺をまた封印しようとしているってこと。その口で、よくもそんなことが言えるな!」

「――っ、それは……!」


 とっさに言い返せず、小姫は奥歯をかみしめた。

 

 確かに、弥恵たちと、そのために準備をしてきた。ひこばえを手配し、以前の村の神に助力を乞うた。すべては、人食いである悪鬼を再封印するために。

 しかしそれは、小姫が記憶を失っていたからだ。セイと友達だったことも、あの時の後悔をも忘れて、見知らぬ悪い妖怪だと思っていたから。


 だが、そんな荒唐無稽で都合のいい話、セイが受け入れるはずがない。小姫だって、彼の立場なら信じないだろう。何度も裏切った小姫が語る言葉ならなおさらだ。


 真実を語れば語るほど嘘っぽく聞こえるとしたら、セイに信じてもらうには、どうしたらいいのだろう。


(……私が、嘘をつけるから。人間は嘘がつけるから……)


 もし小姫が妖怪ならば、嘘を口にすることができなかったならば、セイは信じてくれただろうか。


 言葉に詰まった小姫に、自分の考えを確信したのか、セイはまた腕を振る。


「図星なのか……、図星なのかよ! こそこそと散らばって、お前は何の役割だ? 甘言を弄して、時間稼ぎする役割か? その間に、新しい木でも探してくるのか? それとも、昔やったみたいに、イケニエでも捧げて俺を鎮めようというのか!」

「――きゃ……っ!」


 横からの風にバランスを崩し、その拍子に吹き飛ばされる。とっさに、視界を横切った木の幹にとりすがった。後ろの木に叩きつけられないよう、必死にしがみつく。


「――っ、時間稼ぎって……。私を……攫ったのは、セイちゃんでしょ……! 大体、いけにえって、何の話よ!」


 ぜえぜえと鳴る息の下で、小姫は声を吐き出した。風が強すぎて思うように呼吸ができないのだ。

 セイの感情に呼応しているのか、風はますます激しくセイの周囲を取り囲む。


「ふん。お前たちが、勝手に捧げたんだろ。勝手に決めつけて、祀り上げて、利用したあげく、いらなくなったら捨てる! 同じ人間ですらそうだ。イケニエでも犠牲でも、名前が違うだけで、自分のために命を奪っているのはお前たちの方だろう!」

「……なんのことか……わからないよ……っ!」

「お前たちが……、お前が、嘘ばっかりだって話だよ!」 


 セイが目を吊り上げて、右腕を振った。


 小姫の隠れている木が大きくしなる。しなった枝は、周囲の木々に強く打ち付けられ、何本か折れたような音がした。尋常じゃない量の葉が枝からもぎ取られ、風に巻き込まれて、小姫の肌を切りつけていく。


「あの時、お前は逃げた。俺を見て……、俺が助けを求めているのに、見捨てて逃げた! いらなくなったから、捨てたんだろ!? そうして今も、代わりを見つけたから捨てるんだ!」

「っ、そんなことない!」


 一際強い風に煽られながら、木に張り付いて小姫は叫び返した。


「お願いだから、聞いて! セイちゃんはいらなくなんてないよ! 代わりなんていない! 逃げたのは……私が悪いよ。私が臆病だったから……。でも、私、ずっと謝りたいと思ってた!」

「――お前は、嘘ばっかりだ!」


 質量のある風が頭をかすめ、殴られたような衝撃で顔がのけぞる。小姫はぐらりとかしいだが、地面に手をついて倒れるのは避けた。


 風がかすめたところから、血が一筋流れる。それを乱暴に拭い、木の影からセイを見上げると、彼の目が悲しそうに揺らいでいた。


「――だったらなぜ……、あれ以降も来なかった……」

「……え?」

「俺は、待ってたんだぞ……。お前が、戻って来るんじゃないかって。ずっと、ずっと、待ってたんだ……!」

「――……」


 わずかな間、風が止み、セイの声が微風に乗って小姫の耳朶を打った。ふいに訪れた静寂の間も、小姫の耳には風音の余韻が残り、わんわんと鳴っている。


 あれ以降、とは。

 小姫はつばを飲み込み、セイの顔を凝視した。


「あの後って、まさか――」


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