30.
「――お前は……、なんてことをしたのだ!」
意識が闇に沈みきる前に、遠い彼方で、声がした。
誰かに向かって、何かを叫んでいるようだ。その声は次第に近づいてきて……、やがて、言葉が聞き取れるほど大きくなった。
だが、その声自体に、聞き覚えはない。ちょっと固めの、女性の声。
「――自分がどうなるかわかっておるのか!? 人間の肉を食らうなど……! 悪鬼に堕ちる所業だぞ!」
「……そんなの、わかっているのです。私のことなど、どうでもいい……!」
「どうでもいいわけがあるか!」
セイに言っているのだろうか。……いや、セイは、こんな声だったか?
とにかく、不思議だ。今なら、声が聞こえる。さっきは、あんなに耳を澄ましても聞こえなかったのに。
しかし、今度は、しゃべる口を持たない。口を挟もうとも思わない。だって小姫には、関係のないことだから。このまま沈んでいく小姫には、もう何も関係がないから。
それなのに、勝手に耳が、小姫の上で交わされる二人の言葉を拾う。
「しかも、欠損した部分を妖力で修復するなど……、そんな話、聞いたことがない! 人間にそんなことをして、どんな影響が出るかわからぬぞ!」
「あのままにしていたら、確実に死んでいたのです! 体は、作り直せた……、血も通って、呼吸もできて、心臓も動いている……、それなのに、鼓動が弱まっているのです……!」
舌打ちのようなものと、衣擦れの音がした。目を瞑っているのに目の前が陰った気がする。女性が小姫に覆いかぶさったのかもしれない。近くで、息をのむ気配がした。
「――この娘は……!」
「……?」
「……いや、何でもない。何でもないが……。だが、だめだ。この娘はだめだ、乙彦」
「岩の神!」
「お前が言うのが本当なら、体の問題ではないのだ。……この娘の命の灯は、ほどなく消えることだろう。もし、命を取り留めても、おそらく目覚めることはない」
「……それは、なぜ……? この娘、ずっと、泣いているのです。泣いて、謝っているのです。そのせいなのですか……!?」
「……この娘は、逃げてきたのだ。つらいことがあって、そこから逃げてきたのだよ。そうして、このまま消えてしまいたいと思っている……。だから、目覚めることを拒んでいるのだろう」
それを聞いて、少年が唸った。小姫の肩に手をかけて、大きく揺さぶる。
「そんなの……、私は認めないのです……、そんな暗くて寂しい場所が、あなたの逃げ込む場所であるはずがない! まだ、こんなに小さいくせに――、生を受けて、まだ間もないくせに! 何をわかった気になって、この世から逃げるというのです!」
「――乙彦!」
女性が誰かの名前を言って、小姫から少年を引きはがした。だが、彼は諦めていないようだ。強く息を吸って、押し殺した声音で叫ぶ。
「人間のくせに……、私を殺そうとした人間のくせに、勝手に助けて勝手に死ぬなど、私は許さないのです! あなたが死ななければならない理由なんてどこにもない! 何が何でも、死なせない……、無理やりにでも、目覚めさせてやるのです!」
(――っ、嫌だ……!)
少年の言葉に、小姫がピクリと指を動かした。
起きたくない。もう起きたくない。このまま眠ってしまいたい……。セイに合わせる顔がない。もう、彼にあんな目で見られて、ひどい言葉をかけられたくない。
――気づきたくない。彼が、セイではなかったと。小姫が最後に助けたのはセイではなく、無関係な誰かなのだと。セイの小姫に対する憎悪は、何も変わっていないのだと。
小姫は大事な友達を傷つけて、その償いをして命を落としたのだと……、そんな甘やかな夢を抱いて、眠らせてほしい。
(お願い、このまま、眠らせて……!)
だが、小姫の切実な願いは、女性の声によって打ち破られた。
「……お前がそこまで言うのなら……、試してみよう。原因が取り除かれれば、生きる気力が戻るかもしれぬ」
女性が何かを決心したような声で、そう告げる。
「……どう、するのです」
「我の本体は知っているだろう。岩の神などと呼ばれているが、本来の我はそれに含まれる杉石という鉱物だ。感情の乱れを鎮め、心や体を浄化する性質を持つ。肌身離さず身に着けることによって、石と心の間で交感が生じ、徐々に癒していくものだが……。この娘の記憶を吸い取って、石に閉じ込めることができるかもしれぬ」
何を言っているのだろう。小姫には理解できないことを、女性は固い声音で説明する。
「! そんなことができるのですか?」
「だから、一か八かの話だ! こんなことをするのは初めてだ。うまくいくかはわからぬ、期待はするな。……だが、何もしないよりはましかもしれん。我にも、責任の一端はあるしな」
「……。岩の神、あなたは何か――」
「追及はするな。お前には関係のないことだ。それより、この娘の意識をつなぎとめておけ。原因となる記憶の部分を探している間に死んでしまったら、元も子もない」
「……わかったのです」
両手がひとまとめにされ、握られた感触があった。爪がとがっていて、やわらかい肌に食い込むのまで伝わってくる。
さっきまで、そんなことをされても感覚がなかったのに。
痛みはまだない。額にしなやかな手が当てられても、温度は感じない。しかし、意識は急速に浮上していく。甘い毒のようなまどろみに沈んでいたはずなのに、いつの間にか――背中や足に、地面の冷たさが戻っている。
……引きずり出される。逃げてきた現実の前に。傷つけて背を向けたセイの前に。
嫌だ。行きたくない。怒りでゆがんだセイの顔など、見たくない。自分が何をしたのか――突き付けられたくない。
もう、許して。お願い、もう、責めないで。
許してくれなくてもいいなんて、嘘だ。本当は、許してほしくてたまらない。ううん、それ以前に、責めないでほしい、怒らないでほしい、憎まないでほしい、嫌わないでほしい。
……それができないなら、もう――、眠らせて。
「……わかっている」
小姫の心の内なる悲鳴に答えるように、女性の声がささやいた。慈愛に満ちた声は、柔らかい手を伝って頭の中に沁み込んでくる。
「その小さな体には重すぎる荷だ。背負いきれない分は、我の中に置いていけ。今はそう……忘れて良い。冷たくて閉ざされた石の中で、静かに眠っていれば良い。その痛みも苦しみも、永遠には続かぬ。時が来るまで、この中で眠っておれ――」