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妖怪村の異類婚姻譚  作者: 鍵の番人
第三章 花と香りと、特別な約束
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29.

 ――どこかで誰かが泣いている。

 声も出さずに、さめざめと。



 声が出ていないのに、泣いているのがわかるわけがない。なぜなら、小姫は目を開けていないから。瞼の裏は真っ暗で……、それなのになぜか、涙の気配を感じる。


 ――誰? 誰なの?


 答えはない。黙って、いつまでも泣き続ける。


 ――あなた、名前は? なぜ、泣いてるの?


 質問を変えても、返事はない。話をさせれば、その間くらいは泣き止むのでは。そんな目論見は、はかなく外れた。


 途方に暮れて、聞こえない泣き声に耳を傾ける。音もなく降る静かな雨に似たそれは、もの悲しく、胸をしくしくと締め付ける。


 ――そんなに悲しまないで。どうしたら、泣き止んでくれるの?


 息遣いや衣擦れの音、そんなささいなものから手掛かりがつかめないかと、小姫は音に集中した。


 ……もしかして、セイだろうか。

 ふと、心に浮かんだそれは、ほどなく確信に変わる。


 悲しくて、やりきれなくて、悔しくて、苦しくて。そんな思いが伝わってきた気がしたのだ。


 ――セイだ。セイに違いない。……小姫が裏切ったから、小姫が信じなかったから、悲しくて泣いているのだ。


 外に出られるのを楽しみにしていたのに、小姫のせいで、それが叶えられなくなったから。弥恵たちはきっと、セイをまた閉じ込めようとしていたから。


 ――約束をしたのに。一緒に行こうと、指切りもしたのに。


 小姫が弥恵に頼んだわけではない。だが、同じことだ。小姫は怯えて、逃げ出した。セイが苦しんでいるのを知っていて、手を差し伸べもせず、目を背けた。これが裏切りでなくて何だというのだろう。


 やりきれないだろう。悔しいだろう。小姫を信じたことを、仲良くしたことを、心の底から後悔しているだろう。


 ――そう。すべて、小姫が悪いのだ。小姫と関わってしまったから。小姫を信じてしまったから。小姫がいなければ――、セイと会わなければ良かったのだ!


 怨嗟の声が、輪唱のように、小姫の内に押し寄せる。セイの声も、自分の思いも、全部入り混じって、小姫を責め、苛んでくる。


(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!)


 次から次に襲い来る声に向かって、小姫は謝った。謝って済むことではないとわかっていたが、そうすることしかできなかった。もし他にできることがあるとすれば――……。


 ――それは、この世から消えること。


 友達にあんな顔をさせることしかできないのなら、このまま消えた方がいい。誰かを悲しませることしかできないのなら、この世からいなくなった方がいい。もし、今の小姫にできることがあるとすれば、それしかない。


 だが、その前に……、消える前に、彼の顔を見て謝りたかった。その思いに突き動かされて、小姫は重たい瞼を上げた。


「――っ! 目が……冷めたのですか……?」

「……?」


 目を開いたのに、閉じていた時と同じように暗闇しか見えなかった。いや、はるか上空がうっすらと明るい。目にかかっていた薄膜が次第に消えていくと、ぼんやりと星空が見えてくる。


 ――澄んだ夜だった。


 月はまだ出ていないのか、空には満天の星が広がっていた。その星々の揺らぎさえ、はっきりと捉えられる。


 どうやら、地面に仰向けになっているようだ。草や土のにおいもなく感触もしないから、アスファルトの上だと思われる。春だとはいえ、夜に地面に寝ていたら冷たいはずなのに、なぜか温度は感じない。他にもいろいろ違和感はあったが、小姫はそれより声の主を探すことを優先した。


 星明りを頼りに、視線を横に動かしてみる。やけに体がぎこちなく、森や川の音もはるか遠くに聞こえた。そんな中で、肝心の涙の気配は、まぎれもなくそこにあった。


「セイ――」


(……セイ、ちゃん?)


 彼は、こんなに静かに泣くのか。こんなに、感情を自分の中に押し込めて泣くのか。

 うつむき加減のその顔は、髪で隠れてよく見えない。背格好も年もセイと同じくらいに思えるが、別人なのだろうか。


(……ああ、私、また間違えた……?)


 視界がふいに暗くなる。絶望と共に意識が闇に呑まれかける。が、白っぽい着物を目の端でとらえ、もう一度視界が回復した。


(やっぱり……、セイちゃん。セイちゃん、だよね……?)


 彼の姿を、改めて見つめ直した。服には黒い液体がべったりとついていて、彼の手や顔すらも汚している。白い部分の方が少ないくらいで、そのおかげで輪郭もはっきりしないのだと思い至る。

 そんな彼は、さらに顔が汚れるのに構わず、声を殺して泣いていた。顔を覆う手の隙間から、涙が流れているのが見える。それ以外は、肌にいくつか傷があるだけで、大きなけがはなさそうだ。


 ようやく、実感がわいた。車に轢かれそうだったセイを、助けることができたのだ。


「よかった……、無事だった……」


 小姫は頬を緩ませた。途方もない安堵感が心の底からあふれてくる。

 助けられた。救うことができた。消える前に、たった一つ、セイにしてあげることができた。


 大きな傷はなくても、セイの身体は傷ついていた。それなのに彼は、どうやら小姫のために泣いている。優しい子なのだ。とても優しい……、それなのに、小姫が裏切った。

 目が熱くなる。涙が勝手ににじみ、あふれて、頬に流れた。


「ごめんね……、ごめんね……。でも、こんな私でも……、役に、立てたね……!」

「何を……、言っているのです……?」


 静かに泣いていた少年が、驚いたように目を合わせた。

 目が――セイのきれいな金色の目が、なぜか色あせて見える。彼の目なら、夜でも光って輝くだろうに……、今はむしろ、銀色のような、闇を透かしてしまいそうな薄い色をしている。


 それでもとてもきれいだった。自分でない誰かのために泣ける目だ。美しくて優しい、透明な瞳。


 その目が苦しそうに歪められた。何か言っている……、なのに、なぜか、よく聞こえない。


「なんで……そんなに、苦しそうなの……? もしかして、どこか、痛い……?」

「――私の心配より、自分の心配をするのです!」


 突然、少年が叫んだ。叫んでいるのはわかるが、声は遠くて聞き取れない。しかし、怒られているのではなさそうだ。心配してくれているのだと知って、嬉しくなる。


「私のこと……? 私は……大丈夫だよ……、どこも痛くない。何も……感じない」

「――いいえ! 起き上がれる……はずなのです。感覚がないなんてそんなわけが――、うまくいったはずなのに……! 気を確かに持つのです! ……大体、なぜ、こんなことをしたのですか! こんな小さな体で、私をかばうなどと……!」

「セイ……ちゃん……?」


 彼は、どろどろの顔を手で覆った。やはり、痛いのだろうか。小姫のことを、許せないのだろうか。


 慟哭の声は聞こえない。とてつもない苦しみと哀しみだけが伝わってくる。彼の頬に手を伸ばしたくとも、腕の感覚はなく、ピクリとも動かない。


「セイちゃん……、ごめんね。ごめんなさい。……私が、悪かったの……。セイちゃんは、何も悪くないよ……。だから、そんなに悲しまないで……」

「さっきから、何を謝っているのです……!? しっかりするのです! どこか、痛いところがあるのですか?」

「ごめんなさい……、ごめんなさい……」

「――泣いていないで、ちゃんと私に言うのです!」


 小姫の左手を見せつけるようにして握り、何かをずっと叫んでいる。だが、残念ながら、遠すぎて言葉が聞き取れない。


 彼の涙が頬にいくつも落ちてくる。春の夜の冷たさをはらんだ風は感じない。地面の冷たさも感じない。けれど、彼の涙の温かさだけは、体の中にしみこんでくるようだ。


 セイは、まだ、怒っているだろうか。……ふと、そう考えて、当たり前だと思い直す。一方的に裏切って、一方的に謝って、それで許されるわけがない。けれど、何も言わずにいなくなるのは、それだけは、絶対に間違っていると思ったから。


 意識が混濁してくる。


 最後にセイに会えてよかった。謝ることができて良かった。代わりになるかわからないけれど、助けられてよかった。


 ――ああ、だけど……、セイの声は聞こえないのに、自分の声は届いているのだろうか……。


 不安になって、力を振り絞って、口を開けた。

 どうしても、どうしても、これだけは伝えなければいけない。


 ――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。


 うわ言のように、繰り返した。セイに伝わるまで、繰り返し続ける。


 だんだん、空の濃さが増してくる。光が薄まってくる。夜が更けると、星まで眠ってしまうのだろうか。


 いや、そうではない。視界が暗くなっているのだ。口も、動かなくなってくる。まだまだ言い足りないのに。唇が、持ち上がらない。……もう、目も開けていられない。


(眠い……)


 遠足で疲れたのかもしれない。色々あったのだ。……色々とは、何だっただろうか。


 頭が重い。闇が、体の中まで侵入してくる。そのまま土に溶けて、空と同化して、ここから消えていくのだろう。そうすれば――……。


 一瞬、空に浮かぶ星が金色の光を放ったように見えた。そのとたん、胸をかきむしりたいほどの後悔が、心臓を強く握る。


 ――しかし、それ以上に深い眠りが意識を奪い、底へ底へと沈んでいった。

 


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