29.
――どこかで誰かが泣いている。
声も出さずに、さめざめと。
声が出ていないのに、泣いているのがわかるわけがない。なぜなら、小姫は目を開けていないから。瞼の裏は真っ暗で……、それなのになぜか、涙の気配を感じる。
――誰? 誰なの?
答えはない。黙って、いつまでも泣き続ける。
――あなた、名前は? なぜ、泣いてるの?
質問を変えても、返事はない。話をさせれば、その間くらいは泣き止むのでは。そんな目論見は、はかなく外れた。
途方に暮れて、聞こえない泣き声に耳を傾ける。音もなく降る静かな雨に似たそれは、もの悲しく、胸をしくしくと締め付ける。
――そんなに悲しまないで。どうしたら、泣き止んでくれるの?
息遣いや衣擦れの音、そんなささいなものから手掛かりがつかめないかと、小姫は音に集中した。
……もしかして、セイだろうか。
ふと、心に浮かんだそれは、ほどなく確信に変わる。
悲しくて、やりきれなくて、悔しくて、苦しくて。そんな思いが伝わってきた気がしたのだ。
――セイだ。セイに違いない。……小姫が裏切ったから、小姫が信じなかったから、悲しくて泣いているのだ。
外に出られるのを楽しみにしていたのに、小姫のせいで、それが叶えられなくなったから。弥恵たちはきっと、セイをまた閉じ込めようとしていたから。
――約束をしたのに。一緒に行こうと、指切りもしたのに。
小姫が弥恵に頼んだわけではない。だが、同じことだ。小姫は怯えて、逃げ出した。セイが苦しんでいるのを知っていて、手を差し伸べもせず、目を背けた。これが裏切りでなくて何だというのだろう。
やりきれないだろう。悔しいだろう。小姫を信じたことを、仲良くしたことを、心の底から後悔しているだろう。
――そう。すべて、小姫が悪いのだ。小姫と関わってしまったから。小姫を信じてしまったから。小姫がいなければ――、セイと会わなければ良かったのだ!
怨嗟の声が、輪唱のように、小姫の内に押し寄せる。セイの声も、自分の思いも、全部入り混じって、小姫を責め、苛んでくる。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!)
次から次に襲い来る声に向かって、小姫は謝った。謝って済むことではないとわかっていたが、そうすることしかできなかった。もし他にできることがあるとすれば――……。
――それは、この世から消えること。
友達にあんな顔をさせることしかできないのなら、このまま消えた方がいい。誰かを悲しませることしかできないのなら、この世からいなくなった方がいい。もし、今の小姫にできることがあるとすれば、それしかない。
だが、その前に……、消える前に、彼の顔を見て謝りたかった。その思いに突き動かされて、小姫は重たい瞼を上げた。
「――っ! 目が……冷めたのですか……?」
「……?」
目を開いたのに、閉じていた時と同じように暗闇しか見えなかった。いや、はるか上空がうっすらと明るい。目にかかっていた薄膜が次第に消えていくと、ぼんやりと星空が見えてくる。
――澄んだ夜だった。
月はまだ出ていないのか、空には満天の星が広がっていた。その星々の揺らぎさえ、はっきりと捉えられる。
どうやら、地面に仰向けになっているようだ。草や土のにおいもなく感触もしないから、アスファルトの上だと思われる。春だとはいえ、夜に地面に寝ていたら冷たいはずなのに、なぜか温度は感じない。他にもいろいろ違和感はあったが、小姫はそれより声の主を探すことを優先した。
星明りを頼りに、視線を横に動かしてみる。やけに体がぎこちなく、森や川の音もはるか遠くに聞こえた。そんな中で、肝心の涙の気配は、まぎれもなくそこにあった。
「セイ――」
(……セイ、ちゃん?)
彼は、こんなに静かに泣くのか。こんなに、感情を自分の中に押し込めて泣くのか。
うつむき加減のその顔は、髪で隠れてよく見えない。背格好も年もセイと同じくらいに思えるが、別人なのだろうか。
(……ああ、私、また間違えた……?)
視界がふいに暗くなる。絶望と共に意識が闇に呑まれかける。が、白っぽい着物を目の端でとらえ、もう一度視界が回復した。
(やっぱり……、セイちゃん。セイちゃん、だよね……?)
彼の姿を、改めて見つめ直した。服には黒い液体がべったりとついていて、彼の手や顔すらも汚している。白い部分の方が少ないくらいで、そのおかげで輪郭もはっきりしないのだと思い至る。
そんな彼は、さらに顔が汚れるのに構わず、声を殺して泣いていた。顔を覆う手の隙間から、涙が流れているのが見える。それ以外は、肌にいくつか傷があるだけで、大きなけがはなさそうだ。
ようやく、実感がわいた。車に轢かれそうだったセイを、助けることができたのだ。
「よかった……、無事だった……」
小姫は頬を緩ませた。途方もない安堵感が心の底からあふれてくる。
助けられた。救うことができた。消える前に、たった一つ、セイにしてあげることができた。
大きな傷はなくても、セイの身体は傷ついていた。それなのに彼は、どうやら小姫のために泣いている。優しい子なのだ。とても優しい……、それなのに、小姫が裏切った。
目が熱くなる。涙が勝手ににじみ、あふれて、頬に流れた。
「ごめんね……、ごめんね……。でも、こんな私でも……、役に、立てたね……!」
「何を……、言っているのです……?」
静かに泣いていた少年が、驚いたように目を合わせた。
目が――セイのきれいな金色の目が、なぜか色あせて見える。彼の目なら、夜でも光って輝くだろうに……、今はむしろ、銀色のような、闇を透かしてしまいそうな薄い色をしている。
それでもとてもきれいだった。自分でない誰かのために泣ける目だ。美しくて優しい、透明な瞳。
その目が苦しそうに歪められた。何か言っている……、なのに、なぜか、よく聞こえない。
「なんで……そんなに、苦しそうなの……? もしかして、どこか、痛い……?」
「――私の心配より、自分の心配をするのです!」
突然、少年が叫んだ。叫んでいるのはわかるが、声は遠くて聞き取れない。しかし、怒られているのではなさそうだ。心配してくれているのだと知って、嬉しくなる。
「私のこと……? 私は……大丈夫だよ……、どこも痛くない。何も……感じない」
「――いいえ! 起き上がれる……はずなのです。感覚がないなんてそんなわけが――、うまくいったはずなのに……! 気を確かに持つのです! ……大体、なぜ、こんなことをしたのですか! こんな小さな体で、私をかばうなどと……!」
「セイ……ちゃん……?」
彼は、どろどろの顔を手で覆った。やはり、痛いのだろうか。小姫のことを、許せないのだろうか。
慟哭の声は聞こえない。とてつもない苦しみと哀しみだけが伝わってくる。彼の頬に手を伸ばしたくとも、腕の感覚はなく、ピクリとも動かない。
「セイちゃん……、ごめんね。ごめんなさい。……私が、悪かったの……。セイちゃんは、何も悪くないよ……。だから、そんなに悲しまないで……」
「さっきから、何を謝っているのです……!? しっかりするのです! どこか、痛いところがあるのですか?」
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
「――泣いていないで、ちゃんと私に言うのです!」
小姫の左手を見せつけるようにして握り、何かをずっと叫んでいる。だが、残念ながら、遠すぎて言葉が聞き取れない。
彼の涙が頬にいくつも落ちてくる。春の夜の冷たさをはらんだ風は感じない。地面の冷たさも感じない。けれど、彼の涙の温かさだけは、体の中にしみこんでくるようだ。
セイは、まだ、怒っているだろうか。……ふと、そう考えて、当たり前だと思い直す。一方的に裏切って、一方的に謝って、それで許されるわけがない。けれど、何も言わずにいなくなるのは、それだけは、絶対に間違っていると思ったから。
意識が混濁してくる。
最後にセイに会えてよかった。謝ることができて良かった。代わりになるかわからないけれど、助けられてよかった。
――ああ、だけど……、セイの声は聞こえないのに、自分の声は届いているのだろうか……。
不安になって、力を振り絞って、口を開けた。
どうしても、どうしても、これだけは伝えなければいけない。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
うわ言のように、繰り返した。セイに伝わるまで、繰り返し続ける。
だんだん、空の濃さが増してくる。光が薄まってくる。夜が更けると、星まで眠ってしまうのだろうか。
いや、そうではない。視界が暗くなっているのだ。口も、動かなくなってくる。まだまだ言い足りないのに。唇が、持ち上がらない。……もう、目も開けていられない。
(眠い……)
遠足で疲れたのかもしれない。色々あったのだ。……色々とは、何だっただろうか。
頭が重い。闇が、体の中まで侵入してくる。そのまま土に溶けて、空と同化して、ここから消えていくのだろう。そうすれば――……。
一瞬、空に浮かぶ星が金色の光を放ったように見えた。そのとたん、胸をかきむしりたいほどの後悔が、心臓を強く握る。
――しかし、それ以上に深い眠りが意識を奪い、底へ底へと沈んでいった。