28.
丘を囲むように生えた七本のキンモクセイ。季節外れの花を咲かせるそれらのうち、一本でも枯れたら、セイはこの場所から解放される。
小姫はそれを聞いて、彼が気にしていた一本の木に近寄った。
精一杯背伸びをして見てみると、確かに、他に比べて元気がない。下の方にある葉は、一部が茶色く縮れ、穴が開いているものもある。青々とした葉を茂らせているのは半分ほどで、残りの葉には多かれ少なかれそのような症状が表れていた。
(この木、病気なんだ……)
小姫は木の枝を見上げて、こくりとつばを飲み込んだ。
おそらく、セイに初めて会った頃の木は、ここまで弱ってはいなかった。一方、最近のセイは、輪郭がはっきりしてきて、以前より生き生きとして見える。
なぜこの木が枯れるとセイが自由になるのか、その理由はわからない。だが、その関係性を、小姫は恐れた。うっとりと小学校の方角を見つめるのも、小姫の話を遮ってまで、嫌いな生徒の話を聞き出そうとするのも、恐怖を増幅していくのにつながった。
「人間とは……」
このごろ、セイはよく、小姫たちをひとまとめにしてそう呼んだ。
「人間とは、自分のことしか考えていない、自分勝手なものなんだ。自分さえ良ければ、他の人間も、他の生き物もどうでもいい、それが人間の本質なんだ。だから、小姫。お前も、他の人間に遠慮する必要なんてない。嫌な奴はいない方がいいし、そのことに罪悪感なんて抱かなくていい。当たり前のことなんだから。それに、お前は何もしなくていいんだ。ただ、嫌いな奴を俺に伝えるだけ。そうすればあとのことは、全て俺がやってやるから。……な。それならいいだろ? 小姫」
「……セイちゃん……」
誰の名前も上げない小姫に、セイは執拗に問いを重ねる。そうして、断り疲れた小姫が黙ってしまうのが、近頃の別れの合図だった。
セイは、何者なのだろう。
セイが外に出たら――どうなるのだろう。
今までセイのことは弥恵にも秘密にしていた。しかし、小姫は次第に耐えられなくなっていった。このまま彼のことを黙っていたら、いつか、取り返しのつかないことになるのではないか。そのいつかが来ることに、小姫は怯え、戦慄した。
小姫はしばらく悩んだ末、弥恵にそれとなく聞いてみることにした。
「お母さん、あのね……。キンモクセイがたくさん咲いているところって……知ってる?」
台所で夕食を作る弥恵の背中に問いかけると、彼女は顔だけ振り向いて首を傾げた。
「キンモクセイ?」
「う、うん。……あの、黄色い花が咲いて……においがする木で……」
小姫が説明しようとすると、弥恵は微笑んだ。
「ふふ。知ってるわ。香りの強い花の咲く木よね。でも、あれって、秋の花じゃなかったかしら? 学校の宿題か何か?」
「ううん、違うの。……でも、もう咲いてるところがあるでしょ? そこのことなんだけど……」
「……え?」
それまでふわふわとしていた弥恵の表情が固まった。ぎこちなくもう一度笑みを作ったが、目尻がわずかに上がっている。
弥恵は、村長と調停者の仕事を掛け持ちしていて、忙しい。だから小姫は、話しかける時は気を遣う。しかも、今回は、よく知らない妖怪と友達になり、しかもそれを秘密にしていた。温和な弥恵でも、さすがに怒るのではないかと、小姫は怖気づいていた。
だから、セイのことは、彼女の反応をうかがいながら話すつもりだった。キンモクセイの丘の話をしても平気そうなら、セイについても伝えよう。それで弥恵が特に気にしないようなら安心だし、逆に、気にする素振りを見せたら、怒られないように言い方を工夫しよう、そんな腹積もりだった。
だが、小姫が想定していたよりも、弥恵は深刻そうな気配を見せた。いつものほほんとしている母の声がこわばったことに、小姫は純粋に驚いた。
「キンモクセイが、咲いてるの? ……小姫、どこの話をしているの?」
「どこって……、ええと、そこの川を渡って、ちょっと上ったところの――」
全部を言い終える前に、弥恵は包丁を置き、小姫を振り向いた。両手を小さな肩に乗せて、目の高さが合うよう、しゃがみ込む。
「それって、近所にある丘のこと? 木で丸く囲まれた……。小姫、そこに行ったの? 普通は入れないところなのよ?」
「え……?」
(入れない? ……そんなわけ……)
小姫は冗談かと思ったが、弥恵の顔を見て口を閉じた。今までに見たことのない真剣な表情をしている。
やはり、怒らせてしまったのだろうか。小姫のしたことは、悪いことだったのだろうか。しかし、セイに会ったとは、まだ言っていない。丘に入れないとはどういうことか。
小姫には、意味が分からなかった。何もおかしなことはしていない。いつも普通にしていたことの、何が悪いのかわからない。
わからないことに、小姫は震えた。首を小刻みに横に振り、必死に言い訳をする。
「わ、私……何もしてない。普通に……歩いて行っただけだもん。入っちゃいけないなんて、書いてなかったもん!」
「小姫。そこで何をしてきたの?」
「だ、だから、何もしてないよ! セイちゃ……、男の子と遊んでただけだよ! 悪いことなんて、何もしてない!」
「……小姫……?」
セイの最近の様子と相まって、弥恵の深刻さに恐怖を覚えた小姫は、ひたすら悪いことをしていないと繰り返した。パニックを起こしてしまったのか、弥恵に抱きしめられ、背中をさすってもらうまで、体の震えが止まらなかった。
「――小姫。ごめんね。責めたわけじゃないのよ。ただ、心配だったの。その、一緒に遊んでた子って、どの子かしら? ……お母さんの知ってる子?」
パニックは収まっても、感情はぐちゃぐちゃだった。小姫はしゃくりあげながら、セイのことを洗いざらい話してしまう。
金色の目をした同年代の少年であること。古ぼけた布のようなものを着ていること。いつもあの丘の木の上にいて、小姫が来るのを待っていること。キンモクセイが枯れるのを待ち遠しげにしていること……。そして、最近の様子がおかしいことまで。
「――ありがとう。話してくれて。……ごめんね、お母さん、何も気づかなかったわ。小姫はずっと、不安だったのね……?」
弥恵は口を挟まず、最後まで小姫の話を聞いてくれた。こんなに話をしたのは久しぶりで、弥恵の時間を奪ったことに後ろめたさを感じながらも、小姫は嬉しさを隠せなかった。
ごめんねと謝る母に、また首を横に振る。
「セイちゃんは……、何の妖怪なの?」
「うーん。何の妖怪かしらね? お母さんにもよくわからないけど……。でも、大丈夫よ。小姫は何も心配することはないわ。怖いことも、何も起こらない。だからね、後は、お母さんに全部任せて? 落ち着いたら、小姫にもちゃんと話すから。だから……、しばらくは、あの場所に近づかないこと。いいわね?」
「……うん」
小姫は少し迷ったが、素直に頷いた。今まで、弥恵の言う通りにしてきて困ったことなど一つもない。彼女がセイに会うなと言うなら、それが正しいのだろう。
しばらくすれば良くなるということは、セイは病気なのかもしれない。あのキンモクセイと同じように、どこか具合が悪いのだ。熱で浮かされたような瞳や、時折、耳が遠くなったかのように小姫の話が聞こえなくなるのも、病気のせいに違いない。
そう思ったら、嘘のように心が軽くなった。弥恵に話すのをためらっていたのが、ばかばかしく感じた。最初から話していれば、悩む必要などなかったのに。これで、きっとすべてがうまくいく。何の疑いもなく、そう信じた。
弥恵はその日から、すぐに行動を開始した。朝早く出て行って、いつもより少し遅く帰って来る。一方、小姫も、三日間、弥恵の言いつけを守って、学校から帰宅した後は家で大人しくしていた。その間、弥恵に丘の様子を何度か聞いたが、彼女は「もう少しだから」と繰り返すだけだった。
そうして、遠足の日がやって来た。バスで隣の村の山へ行き、各班に分かれてハイキングコースを登るのだ。
学校で授業を受けているはずの時間に、みんなで山を登るというのは不思議で新鮮だった。天気が快晴だったこともあり、小姫は一日中心が弾んでいた。しかも、班分けの直後はよそよそしかったクラスメイト達も、声を掛け合っているうちに打ち解けていき、頂上に着いた時には、弁当を分け合うほど仲よくなることができたのだ。
帰りのバスでは疲れてぐっすり寝てしまったが、小姫はどうしてもセイに会いたくなった。楽しかった遠足のことを、今日のうちに伝えたくなったのだ。重くだるい足に鞭打って、右に曲がるべきところを左に曲がり、橋を渡った。山の傾斜よりは緩やかなけもの道を登れば、セイの居場所はすぐそこだ。
弥恵の言いつけを破るつもりはなかった。だが、三日も会わないでいるのは初めてだったし、話をするのが無理なら、木の影からこっそり顔を見るだけで我慢しようとも思った。
だが、もし……、もし、セイと会っても平気そうなら、少しだけ話をしたかった。
仲間外れになんかされなかった。みんな、仲良くしてくれた。嫌いな子なんて、誰もいない。それだけでも、セイに伝えたいと思った。
小姫の正直な気持ちが通じれば、セイも元に戻るかもしれない。子どもたちを食べるなんて、おかしなことを言わなくなるかもしれない。いやすでに、セイの病気は治っていて、弥恵はそれを知らせようとしているところかもしれない。
空を吹く風も、川を流れる水も、キラキラと輝いていて、何もかも上手くいくような気がしていた。遠足の興奮をそのままに、小姫は斜面を登り切った。木々に隠れながら、セイと会っていた場所まで近づいた、その時――……。
「――やめろっ……!」
怒鳴り声が聞こえて、小姫の肩がびくりと跳ねた。
甲高い、男の子の声だった。初めて聞く……、だが、間違いない、セイの声だ。小姫の柔らかい胸を切り裂くような、苦しみと怒りに満ちた、悲痛な声。
――何かが、起きている……!
小姫は棒立ちになった。高揚感は一気に消え、不吉な予感に、手が震えた。
「やめろ! ……やめろ、やめろ、やめろ! どうしてそんなことをする! もう少し……、もう少しなのに!」
セイの声は断続的に聞こえてくる。しばし立ち尽くしていた小姫は、いつまでも終わらない声に、こわごわと足を踏み出した。
足音をさせないよう、忍び足で歩き、木に張り付くようにして広場を覗く。するとそこには、三つの人影があった。こちらから見て対角線にある入口近くに弥恵の姿が、枯れかけたキンモクセイの近くには宙に浮いている知らない女性が。
――そして、広場の中央には、頭を抱えて苦しんでいるセイの姿があった。
「――セイちゃん!」
とっさに名を呼んでしまった小姫に、全員の視線が集中した。弥恵の顔が、遠目にも青ざめたのがわかった。一瞬で血の気が引いた。
ここに来てはいけなかった。今、ここにいてはいけなかった。小姫が言いつけを破ったせいで、大変なことが起こる――。弥恵の表情からそれを読み取った小姫は、遅まきながら逃げ出そうとした。
「――小姫、お前か……!」
だが、セイが声を発する方が早かった。背中に冷や水を浴びせられたかのように、小姫は立ち止まった。いったん、止まってしまったら、無視して走り去ることはできない。ひどく緊張しながら振り返ると、セイが鬼のような形相で小姫を睨みつけていた。
「お前が裏切ったのか……。お前が……俺をだましたのか!」
「セ、セイちゃん……?」
うっとりして遠くを見ている目でも、楽しそうに小姫の報告を聞いている顔でもない。小姫の知っているどの彼とも違う恐ろしい顔で、セイは声を振り絞る。
「なぜだ! なぜ、こんなことをする。俺が、何をしたというんだ……? ――小姫、答えろ! 俺はお前に、何かしたか! お前が嫌がるようなことを、何かしたっていうのか!?」
「ち、違う……、セイちゃん……」
強烈な憎悪を真正面からぶつけられた小姫は、気圧されるようにあとずさりをした。
金色の目は充血し、これでもかというくらい大きく見開かれている。口からは鋭く尖った八重歯がのぞいており、今にも飛び掛かってきそうな気配がする。いつものセイの様子からは、想像もつかない変わりようだった。
逃げたいのに、目を逸らしたいのに離せない。目の端で、弥恵が何か叫んでいるのが見えた。こちらに近寄って来たいのに、透明な壁のようなものが邪魔をしていて近づけないようだ。
空間を叩きながら叫ぶ弥恵の声は届かない。だがなぜか、セイの声だけは何の障害もなく届いた。耳から頭の中に、目から心臓の奥に飛び込んできて、小姫を責め立てる。
「約束したのに! お前も俺をだますのか! 何百年も閉じ込めておいて、まだ足りないっていうのか! 言ってみろ、そんな扱いをされなければならないほど、俺が何をしたのかを!」
「違うよ、セイちゃん……!」
小姫は頭を覆った。セイの怒鳴り声が頭の中でわんわん響き、痛くてたまらない。
弥恵たちが何をしているのか、何をしようとしているのか、小姫は知らない。だが、セイが苦しんでいるのも、こうしてわめいているのも、小姫のせいであることだけは確かだった。
弥恵に話したから。弥恵に、セイのことを教えてしまった小姫が悪いのだ。
セイとも、クラスメイトとも友達になって、楽しい学校生活を送るはずだった。そんな小姫の淡い期待は、シャボン玉のようにあっけなく弾けた。さっきまでの楽しかった出来事がすべて間違いだったかのように、世界は一変し、暗転した。
クラスメイトとほんのひととき親しく話ができたからって、なんだというのだろう。セイは毎日、笑顔で出迎えてくれた。金色の瞳をキラキラさせ、小姫の話を聞いてくれた。二人で本を読み合い、字の練習をした。いつか、一緒に遊びに行こうと約束もした。
小姫の友達は、セイだった。クラスメイト達と比べるべくもない、ただ一人の友達だった。それなのに小姫は、セイが苦しんでいるときに、クラスメイト達と笑い合っていた。それどころか、彼を苦しませている原因まで、小姫にあるという。
ひどい――、あまりにもひどい裏切りだ。セイの苦しみようが、心の傷の痛みをも表しているようで、小姫も胸をえぐられるような心地がした。
「わ、私……っ。――っ」
そんなつもりじゃなかった。そんなつもりで弥恵に話したのではなかった。
そう言いたいのに、声が出ない。罪悪感に苛まれた小姫の言葉は、セイの敵意の前に押し出されるのを嫌がった。
「――信じてたのに……」
ぽつりと、セイがつぶやく。その声に悲しみを感じ、小姫ははっと顔を上げた。
セイは涙を流していた。静かに頬を濡らしながら、血を吐くようにして叫んだ。
「信じてたのに……! お前は、お前だけは、俺を裏切らないと……! 同じ人間でも、お前だけは違うと思ってたのに! ……もう、許さない……、お前だけは、絶対に許さない!」
「――セ……」
「小姫! お前も、忘れるな。いつか必ず、この報いを受けさせてやる……!」
「――っ!」
憎しみに満ちた言葉を投げつけられ、小姫は頭が真っ白になった。足が勝手に踵を返し、弾かれたように走り出す。心の中では、声にならない叫びがこだましている。
誰かの、何かの声が聞こえた気がしたが、小姫の足は止まらなかった。これ以上、何も見たくなかった。自分を責める声を聞きたくなかった。目も耳も塞いで、小姫はがむしゃらに足を動かした。
いつの間にか、家が間近に迫っていた。小姫は向きを変えて走り続けた。学校に至る道に入ったときには、次に現れた横道に逸れた。
家も学校も、セイが知っている場所は避けなければならないと思った。そうして気が付けば、ろくに人家のない、見知らぬ道路に立っていた。
早春の夕暮れは早く、すでに空には一番星が光っている。それでも小姫は走るのをやめなかった。
――裏切ったのか。信じてたのに……!
――許さない。絶対に許さないぞ小姫!
(ごめんなさい……、ごめんなさい、セイちゃん!)
セイの声が、悲痛な叫びが、どこまでも小姫を追ってくる。どこまでも小姫を責めたてる。
足はくたくたで、もつれたり、草に足を取られたりして何度も転んだ。だが、止まるわけにはいかなかった。一瞬でも止まったら、セイの声に追い付かれる。そんな幻想に囚われて、土や汗でぐしゃぐしゃになった顔をこすりながらも足を動かした。
(私のせい……私のせいだ。セイちゃんが苦しんでいたのも、あんなに怒ってたのも……。私が、セイちゃんを傷つけたから……)
――そうだ。お前が悪いんだ。小姫、全部、お前のせいだ!
(ごめんなさい……っ!)
何度も、何度も謝った。心の中で謝り続けた。けれど、この声は、セイには聞こえない。心の中でいくら叫んでも、彼には届かない。だから、セイの声は鳴りやまない。
――お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ……っ!
夜が更けていくと、虫の音がうるさいほど大きく聞こえてきた。それでもセイの声を打ち消すには足りず、小姫は追いすがるそれから逃げるため、山道や草むら、車通りの少ない道路にも構わず飛び込んだ。闇雲に走ったせいで、小さな切り傷や打ち身が次第に増えていったが、そんな痛みなんて感じる余裕もない。
やがて小姫は、街灯もろくにない道路に出た。道の先は闇に溶けていて、全景を見通すことは叶わない。視線を上げれば、空の高いところに星明りが見えるだけ。木のさわさわと揺れる音が聞こえるから、近くに森があるのかもしれないが、暗くて境目もわからなかった。道路の脇には黒々と光る川が走っており、水ではなく重たい闇が流れているようだった。
ふと、道路の先で、二筋の光が走った。車のライトのようだった。カーブでふらついた光線が一瞬、小姫の顔を直撃し、目をくらませる。
一台の車がこちらへ向かって来ているようだ。他に車はなく、見た限りでは人通りもない。あの車が通りすぎた先に、誰もいない場所があるのかもしれない、と思った。
そこに行けば……。たどり着ければ――……。
――この声から逃れられるのだろうか。
(……わからない。どうしたらいいの? 私は……どうしたら……)
暗くて足元がおぼつかない。一度立ち止まってしまったせいで、もう一度走る気力も湧いてこなかった。仕方なく、小姫はとぼとぼと路側帯を歩き出す。
必然的に、車に向かっていく形になった。ライトの光がちらちらと当たり、進行方向に何か黒い塊があるのに気が付いた。初めは岩か何かかと思ったが、それはふらりとよろけ、道路の方へと倒れてしまう。
(!? あれって――……!?)
車のライトに照らされ、影が浮かび上がった。
人だ。
小柄で、髪は短く、首や手首の細さから、まだ子どものように見えた。逆光で顔の造詣は不明だが、背格好がセイに近いと思った瞬間、小姫の足が勝手に止まった。
人の形をしたそれは、道路に倒れたまま、車が近づいているのに避けようとしない――いや、起き上がれないようだった。
車はそのことに気づかないのか、スピードを緩めない。進路を変更しようともしない。このままでは、地面にうずくまる人影が轢かれてしまう――……!
小姫の頭の中が真っ白になった。黒い塊に向かって一直線に走り、体当たりをするような勢いでそれを突き飛ばす。
小姫の目には、それしか見えていなかった。辺りが昼間のように明るくなったと思った瞬間、どん、と音がして、小姫は意識を失った。