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妖怪村の異類婚姻譚  作者: 鍵の番人
第三章 花と香りと、特別な約束
63/81

27.

 ――小姫が、移動した。


 ハッとして、乙彦は瞑っていた目を開けた。


 辺りはさらに薄暗くなっていた。家々に明かりが灯り、窓から光が漏れている。しかし、車通りもなく、人も出歩いていない小道からは、寒々とした印象を拭えない。


 静かな空気の中で、小姫に与えた笹飾りのヘアピン、そして、彼女の体を補う乙彦の妖気だけが、驚くべき速度で移動していた。


 まさか、捕まったのだろうか。


 小姫には、家を出ないよう、きつく言い聞かせてきた。それに、この移動速度は、人間が歩いたり走ったりして出せるものではない。それこそ、地形を無視して空を飛べる、鳥のようなものに運ばれない限り。


 ――何があった。小姫は、どういう状態なのか。


 自分のいないところで彼女に何かあったら。そう考えただけで、いてもたってもいられなくなる。少しでも傷を癒さなければと休んでいたが、それどころではなくなった。


 乙彦は片腕で体を起こし、壊れかけた石塀に捕まって這うようにして歩き出した。


 結局、ほとんど休めていない。傷が癒えるどころか、むしろ、無事だった左半身にまで、痛みが伝播している感じがする。

 もし、小姫の身体の修復が終わっていれば、そちらへ供給している妖力を回復に回せたかもしれない。そんなことを一瞬考えたが、その仮定は無意味だった。たとえそうだったとしても、彼女の行方を追う確実な方法を、今この時、手放すわけにはいかないのだ。


「はぁ、はぁ……。ぐぅ……っ!」


 一歩踏み出すのにも、体重を移動して足を持ち上げるにも、力を振り絞らなければならない。少しでも気を抜くと、地面に倒れ込みそうになる。歯を食いしばり、塀に爪を立てるようにして、ひたすら前を睨みつけて進む。


 目指す先は、村の中心を流れる川だ。ここから道をいくつも横切り、人目を避けながら繁華街近くまで歩かなければならない。この体でそこまで行くことを考えると気が遠くなりそうだったが、四の五の言ってはいられない。

 幸い、辺りはしんとしていて、出歩いている人間はいなかった。人口の少ないこの村では、ありふれた光景だ。それなのに、研ぎ澄まされた乙彦の嗅覚は、かすかな人間のにおいを拾ってしまう。しかも、家の中なのか、遠くにいるのか、その居場所まで無意識に探ろうとしていて、乙彦はそれを振り払うのに苦労した。


 探すのは、セイの妖気であって、人間ではない。それができないなら、少しでも近くにある水の気配をたどらなければ。


 川に入れば、回復は早まる。とはいえ、傷がすぐにふさがるわけではない。少しでも早く癒そうとするならば、河童の姿に戻らなければならない。変化の術を解き、本来の姿になれば、その分妖力の消費を抑えられる。それでも体を完全に治すには時間が足りないが、小姫を追うことくらいはできるかもしれない。


 本当は、小姫とともに生きると決めてからは、本来の姿に戻ることは避けていたのだが……。

 しかし、この際、そんな感傷には構っていられない。小姫を失うわけにはいかないのだ。


 ――十年間、彼女を見つめ、彼女を思い、悩み、苦しんできた。


 乙彦が今まで生きてきた年月からすると、そう長い期間ではない。だが、どの十年よりも濃密で、激しく感情を揺さぶられる、忘れられない時間だった。


 最初は、遠くから見ているだけだった。人間に関わることにはもう凝りていて、彼女に困った様子があっても、よほどのことがない限り手は出さなかった。大事になりそうなときだけ、気づかれないよう、こっそりと手を貸した。


 善意ではない。憎むきっかけが欲しかったのだ。


 乙彦の命を助けたのは、本当にただの偶然なのだと。やはり人間は、ともに生きていける存在ではないのだと、証明してほしかった。命を救ってもらった恩を無に帰するほどの醜さを、乙彦に見せてほしかった。


 しかし、小姫は、悪人でもなく、聖人でもない、普通の少女だった。怒り、悲しみ、笑い、迷い、悩む、どこにでもいるただの人だった。


 怪しげな妖怪が、突如、婚約者として現れたときは、疑い、警戒し、敵意を向けてきた。そのくせ、あっさりと信じ、騙され、死にかけた。あげく、殺そうとした乙彦に同情し、涙まで見せた。


 何もかも中途半端で、筋も道理も通っていない。それだけだ。無知で、無謀で、あきれ果てることもままあった。しかし、いくら見つめていても、憎むきっかけは得られなかった。

 それどころか……。


 彼女にはまた、救われた。妖怪のために自分を犠牲にするなど、およそ人間には見られない行動だ。なぜそんなに、たやすく自分を捨てられる。なぜ妖怪を人間と同じように考えられる。ただの人間の少女が、なぜ――。


 答えはわからなかった。いや、少しだけ想像はつくが、真実を知るよりも先に、乙彦の中で答えが出てしまった。


 洞窟の中で、自分を殺そうとした乙彦の命を救うために、全部投げうって小姫が胸に飛び込んできたとき、とっさに思ったのだ。


 この娘は、死なせてはいけないと。自分が、守らなければならないと。


 きっと、あの時生まれたのだ。

 強く、温かく、切なる思い。


 ――愛しい、と。


 ひとは、愚かで不合理で、それでもやはり、愛おしい、と。


 そういえば……、あの時まで、小姫の涙を見たことはなかった。あくまで乙彦の見える範囲――屋外にいる時や学校の窓から見える範囲――に限られるが、少なくとも、乙彦が知っている限りではそうだった。運動会で転んでも、道に迷って帰り道がわからなくなっても、彼女が泣いているところに遭遇したことはない。


 別れ際の、小姫の言葉を思い出す。


 ――乙彦のせいだよ。乙彦が泣かせるから……私……。


 あれは、どういう意味なのだろう。乙彦は小姫に泣かれるのが苦手だ。だから、泣かせたいと思ったことなど、一度もない。それなのに……。


 十年間、彼女を見守ってきたが、それでも、小姫についてはわからないことばかりだ。

 しかし、これだけは確信している。きっと、攫われた少女が傷ついたら、泣く。弥恵や青峰、そのほかの人間が犠牲になっても、泣く。


 しかも、小姫はセイのことを、未だに悪く思えないらしい。セイが傷ついても泣くのだとしたら……、その甘さを捨てきれなかったとしたら、それは重大な隙になる。


 小姫の思いがどうであれ、あの大烏――、セイが彼女に復讐をするつもりなのは疑いようがないのだ。

 何をするつもりなのかは知らない。が、何年も、何十年も人を喰い続けてきた化け物が、憎い獲物を目の前にして、喰わずにいられるのだろうか。乙彦の前では冷静だったが、小姫への執着は度を越している。彼女との因縁の再会が、穏便に終わるとは到底思えない。


 こうしている間にも、小姫が、セイに喰われるかもしれない。

 一瞬、そう考えただけで、身を引き絞られるような心地がした。火傷よりも鋭い痛みが全身を貫いた。思わず止めそうになる足を気力だけで引きずり、唸り声が出そうになるのをこらえて前に進む。


 この程度の痛みで、何をひるんでいるのか。

 彼女の隣で、一生、守り続けると、誓ったのではないのか。


 婚約の誓いは、伊達ではない。小姫が受け入れなくても、乙彦の覚悟が消えてなくなるわけではない。

 小姫は、たくさんのものを与えてくれた。信じさせてくれた。セイは、人間を信じてもいつか裏切られる、絶望すると言い捨てたが、そんなのは乙彦も経験済みだ。小姫はそんな経験を経てもなお、信じたいと思わせてくれたのだ。


 彼女に害をなす者を、傷つける者を排除して、今度こそ、与えてもらったものを返す。

 この身に代えても。……何を引き換えにしても。


 ――川岸まで、あと半分といったところだろうか。ふと、見知った気配を感じ取り、乙彦は足を止めた。


 気を取られたのが悪かったのか、止まった拍子に膝からがくんと崩れ落ちた。壁に寄りかかるように背中を預け、荒い呼吸を繰り返す。


(……なぜ、ここに――)


 予定が狂った。間違えるわけはないと思うが、気配の正体を見極めなければならない。相手の正体と――その真意を。


 乙彦は砂にまみれた顔を、ゆっくりと持ち上げた。気配をもとに、目を動かす。その動作すら一苦労だったが――、ほどなく、見つけた。


「――岩の神……!」

「……まだ、我をその名で呼ぶか」


 ふわりと上空から降りてきたのは、女性の姿をした美しい神だった。闇の中でも淡く輝き、未だ神々しさを失わない元・村の守り神。


 髪を結い上げ、絹のような光沢をもつ着物をゆるく着こなした女神は、地面から少し浮いたまま近づいてきた。


 しばらくぶりの再会だった。だが視線は、女神の腕に抱かれたものに引き寄せられる。小姫と同じ制服の、同じ年頃の少女――。顔はよく覚えていないが、髪型と状況からして、攫われた早田という娘に間違いはないだろう。どこかに隠されていた彼女を、岩の神が見つけてくれたのか。

 だが、素直に安心することはできなかった。制服から延びる白い腕から目を引きはがし、岩の神の整った顔を見つめる。


 岩の神は乙彦の目前まで来ると、立ち止まって彼を見下ろした。尊大で美しく、いかにも女神然とした顔には、何の感情も浮かんでいないように見える。しかし、実はそうではない。岩の神は、長らく守り神を務めていたゆえに、感情を表に出さないようにしているだけなのだ。


 今や、神を見ることのできる人間はほとんどいないが、昔はそうではなかった。村のほとんど全員が、妖怪や神の存在を信じており、彼らと会話をすることもできた。岩の神は数多いる神のうちの一柱にすぎなかったが、それでも、神の機嫌を損ねないよう行動しようとするのが人の常である。岩の神はそれを厭い、人間が自分の顔色を窺ったりしないよう、顔から感情を消すことにしたのである。


 しかし、岩の神の本来の気性は、見かけほど穏やかなものではない。付き合いの長い乙彦は、そのことを重々承知していた。女神の機嫌を気配からも感じ取り、乙彦は気取られないよう、足に力を込めた。

 岩の神は乙彦の全身を視線でなぞると、わずかに、眉をひそめた。


「久しいな。乙彦よ」

「…………」

「無様な姿だ。そうは思わぬか?」


 平坦な声音に、乙彦は喉を鳴らした。

 何か言おうと思ったが、どの言葉を選んでも、藪蛇にしかならない。そう気づいてしまえば、後は黙るしかなかった。


 しかし、無意識に退路を探してしまったようだ。岩の神が無造作に荷物を下ろしたとき、それに気づいた。失敗を悟ったが、もう遅い。大胆に踏み込んできた岩の神は、その勢いのまま乙彦を蹴り倒した。


「っ……!」


 息が詰まってうめき声すら出ない。地面に打ち付けられた衝撃が全身に響く。動けないでいる乙彦を、岩の神は足で転がして仰向けにし、その上に馬乗りになった。


「よもや、逃げられると思うたか? 歩けもしない体でよくも――」

「うぐっ……」


 火傷の一番ひどい左腕を足で踏みにじられ、乙彦は思わず顔をそらした。しかし、頬に伸びてきた手に、無理やり正面を向かされる。


 相対した岩の神の表情に、ほとんど動きは見られなかった。仕方なく、乙彦は口の端を上げた。地面に横たわる少女をちらりと確認し、女神に視線を据える。


「……母上様の依頼で、娘を助けに来たのですか。さすが……岩の神なのです」

「…………」

「私も……その娘を探しに来たのです。……ですが、見つからなかった……。どこに隠されていたのですか……? やはり……学校の――」


 その時、岩の神に同じ個所を強く踏みつけられ、乙彦は最後まで言うことができなかった。見れば、彼女の目に、先ほどはなかった怒りが宿っていた。


「聞いてもいないことをぺらぺらと……、甘く見られたものだな。それで話をそらせると思うたか」


 乙彦はうめき声をこらえながら、彼女を見上げた。


「私は別に、あなたを軽んじてなど……」

「自覚はないというのか? 我との約束を破りながら? しかもお前は、このまま我が来なければ、何も無かったことにして済まそうとしていたな? それで我を軽んじていないなどと、よくも口にできる……!」


 岩の神は苛立ちも露に、さらに力を込めた。ぐにゃりという嫌な感触に、乙彦は思わず身体をくの字に曲げかけたが、岩の神から押さえつけられているせいでそれもできない。


「よもや、約束まで忘れたとは言うまいな? ……調停者の娘のことだ」

「……っ」


 ――やはり、それか。


 小姫のことに、思わず反応してしまった。追及を躱し通せると思っていたわけではないが、まだもう少し様子を見るつもりだった。

 乙彦は唇を引き結ぶ。


 非はこちらにある。それは痛いほどよくわかっている。だがそれでも、今は、認めるわけにはいかないのだ。


 岩の神の心を探ろうと、彼女の目を見返した。すると、岩の神はようやく足の力を緩めた。


「……いい加減、白を切るのはやめよ。あの時お前が何と言ったか、我はよく覚えておるぞ」


 そう言った岩の神の声音は柔らかい。乙彦を痛ましそうな目で見つめ、続ける。


「お前の執着は知っておった。あの娘を助けてから、お前は毎日、あれの動向を見ていたからな。朝も、昼も、夕も、お前の視線の先には、必ずあの娘がいた。見守るわけでもない、何をするわけでもない。何をそんなに眺めているのかと不思議に思っておった。聞いても、お前はごまかすだけで、何も答えなかったがな。――ただ、執着していることだけは伝わっていたよ。だから、この村を離れると決めたとき、お前はここに残ると思った」

「…………」

「だが、お前は来ると言った。あの娘への未練を断ち切ったら、その後、私の元へ来て共に暮らすと。だから我は、猶予をやった。十分な時間はやったはずだ。……それなのにお前は、約束を破ったな……!」


 ぎろりと乙彦を睨み、憎々し気に唇を歪める。


「この村から出て行くのは、お前のためでもあった。人間を厭うていても、側にいる限り、忘れることはできない。無関心ではいられない。だからお前は、苦しんでいたのだろう? その苦しみから逃れる方法は、簡単だ。我が指し示してやった。人間と、物理的に離れればよい。人間と関わらず、穏やかに、静かに、ひっそりと生きていく。それが、我らのあるべき姿だと言った時、お前も賛同したはずだ」

「……それは――」


 乙彦は言い募ろうとしたが、言葉は続かなかった。


 彼女の言う通り、あの時は確かにそう思った。小姫を見ていれば苦しくて、見ていないと落ち着かない。彼女の存在に縛られ、振り回され、自分を見失いそうだった。そんな日々から抜け出したくて、岩の神の提案に乗った。強制的に離されれば、徐々に忘れられるのではないかと夢想した。

 だが、現実は――……、まったくの逆になってしまったが。


 顔をそらした乙彦を見て、岩の神は目を細めた。


「今もそうだろう。このありさまは、人間のせいではないのか? お前があの娘に関わるから、こんな目に遭う。……我は、お前が傷つくのも、もう見たくはないのだ。あの時のお前はまだ決めかねていたから、気持ちが揺らぐこともあろう。だが、これでわかったはずだ。我らはもう、人とは交わらぬ方が良いのだと」


 岩の神は、声の調子を落として、続けた。


「……人にとっても、我らは必要なくなったのだろう。岩の神として我を信仰する人間も、ほぼ絶えた。寂しくはあるが、肩の荷が下りたような気もした。これでようやく、我は我として生きられる。もう、人のために生き続ける必要はない。自由なのだ。何者にも煩わされず、二人きりで、心安らかに暮らしていきたいと思わぬか……?」


 低く、落ち着いた、なめらかな声が耳朶を撫でて心地よく響く。人と関わる生活に膿んでいた乙彦の心情を、岩の神はよく理解していた。昔であれば……、苦痛と絶望だけを積み重ねていた頃ならば、この声に喜んで身をゆだねたことだろう。


 だが、知ってしまったのだ。小姫を側で見つめることの甘美さを。あたかも同じ存在であるかのように接してくれ、触れたいと手を伸ばしてくれることの嬉しさを。


 未練を断ち切るために近づいたはずなのに、そのせいで気持ちが傾いてしまった。

 目の前からいなくなれば忘れられるなんてのは、とんだ思い違いだった。


 側を離れることなんてできない。目を離すことなんてできない。

 ――そしてそれは、おそらくもう、小姫がいる限り揺るがない。


 乙彦は横を向いたまま、岩の神の言葉を遮断するかのように、一度、目を閉じた。それから、苦しげに息を吐きながら、つぶやいた。


「……約束は、破っていないのです。ヒメを、断ち切れないからあなたの元へは行かなかった。……ただ、それだけのことなのです」

「……っ、お前は――」

「――あなたの言う通り、あの時私は、ヒメから離れるつもりだったのです。人間と関わることに、うんざりしていた……。ですが、あのひとは、ひとと妖怪がともに暮らす世界を諦めていなかった。……一緒に生きていきたいと、そう言ってくれたのです」

「――乙彦!」


 岩の神は激高したように、乙彦の胸ぐらをつかんで上半身を持ち上げた。抵抗する力もなく、乙彦はぶらんと垂れさがる。が、少し顔をしかめただけで、女神に目を据えると言い切った。


「あなたも、本当はそうではないのですか。妖怪は、人間とともにあるべき存在だと……。もう役目は終わったと言いながら、人間と共にいたいと誰よりも願っているのは、あなたではないのですか……!」

「――貴様……っ!」

「……っ」


 互いに眉を吊り上げ、睨み合う。視線が激しくぶつかっても、互いに譲らず、しばらく見つめ合った。

しかし、ふと、岩の神が瞠目した。至近距離で乙彦の瞳の中を探っているうちに……答えを見つけた。


「その目――、そうか、お前は……、恋をしているのか……!」

「――っ!」


 乙彦が驚愕に目を見開く。岩の神は立ち上がりざま、彼を突き放した。背中を打ち付けた乙彦に向かって、詰問する。


「気づかなかった……。いつからだ? いつからお前は、そんな感情を抱くようになった!」


 乙彦が衝撃に呻きながら、体を折り曲げた。肺の中の空気を締め出すようにして声を出す。


「……何を……、言っているのです」

「ごまかしても無駄だ。――いや、自分でも気づいておらぬのか? だが、我にはわかる。何度そういう目を見て来たか……!」


 岩の神は乙彦に取り合わず、落ち着かなげに行きつ戻りつを繰り返した。それから、向こうに横たえていた少女を抱えて戻ってくると、怪訝な顔をしている乙彦の目の前に、乱暴に放り投げた。


「!? 岩の神……!」


 彼女らしくない行動に、乙彦が思わず声を上げる。


 人間の身体は柔い。少女ならなおさらだ。大した高さではなかったが、どこか傷ついていないかと、少女の肌に目を凝らした。

 幸い、見える範囲に大きな怪我はない。地面に当たった部分がどうなっているかは……、もっと近づかなければ、わからないだろう。


「……この娘は、小学校で見つけたのだ。校門の外にある茂みに倒れておった。あの鴉に攫われでもしていたのか?」

「……ええ、その通りなのです」


 岩の神に問われ、乙彦ははっとして少女の肌から目をそらした。無意識に距離を詰めていたようで、ぞっとする。


「そういえば、あなたは……、この娘が攫われたことは、知らなかったのですね……」


 今更、そのことに思い至る。

 セイの手紙を見て小姫が電話したのは、弥恵が岩の神と別れた跡だった。早田が攫われた顛末を、彼女が知っているわけがなかったのだ。


「そうだ。我は、お前の妖気を辿ってきただけだ。何かを探している様子だったから、我も近くを見回ってみたら、その娘を見つけたのだ。不自然な倒れようだったから、偶然助けたにすぎぬ」


 それに、と岩の神は付け足した。


「この村はすでに、我の手を離れた。我はもう、守り神ではない。以前のような神力もない。蓄えていた力も置いてきた。さすがにこんな状態では、あの者を一人で封印し直すなどできぬよ。ひこばえとやらが届くまでは、待つしかあるまい。……だから、我の目的はお前だ。お前の始末をつけねばならぬ」


 静かにそう言うと、乙彦の目の前に立ち、彼を見下ろした。


「あの娘を助けに行きたいのだろう? ――ならば、これを喰え」

「――は……?」


 乙彦が耳を疑う。苦労して顔を上げて女神を凝視したが、能面のような顔にはためらいも迷いも見当たらない。

 視線で早田を示され、つられて顔を動かしそうになるのを必死で耐えた。


「笑えない冗談なのです……、あなたらしくもない……!」

「冗談ではないからな」


 岩の神は片膝をつき屈みこむと、乙彦の顔を覗き込んだ。


「お前は、あの娘の元へ行くつもりなのだろう? だが、その有り様で何の役に立つ。まともに立っていることもできないではないか。たとえたどり着けたとしても、そんな状態では助けることなど能わぬ。もし本気で娘を助けたいと思うのならば――これを喰うしかなかろう」


 ――人間の身体が、命が、どれだけ妖怪の力になるか、お前はよく知っているはずだ。

 口には出さなかった岩の神の言葉が、聞こえるような気がした。


 しかし、そんな提案、呑めるわけがない。……呑むわけがない。乙彦は愕然として、問いを重ねる。


「正気なのですか……? 何を考えているのです……!」

「お前のその目……、ただ純粋に恩を返すためだと割り切っている間なら良かったが……。恋情を抱いているなら別だ。野放しにはしておけぬ」


 確信を抱いている口調で、岩の神は続ける。


「恋はだめだ、そんな激しい思いは。気が付かぬうちに目は眩み、感情に支配され、正常な判断ができなくなる。狂っていく……。御しきれぬ思いは害にしかならぬ。嫉妬や愛憎に突き動かされ、相手や他人や、自分の身を亡ぼす輩をたくさん見て来たよ。人間より厄介なのはな、肉体のくびきがない分、感情の振れ幅が大きいからだ。代わりに言葉に縛られるが、肉体ほど絶対ではない。一度生まれた気持ちは、際限なく膨れ上がりこそすれ、そうやすやすとは冷めぬ。その強さも計り知れぬ。特に恋情はな。しかもお前は、人間の味を覚えてしまった。――放っておくには、危うすぎるのだ」

「…………」

「人間の肉や魂は、他とは比べ物にならぬほど美味だという。それゆえ、一度人間の味を覚えた妖怪は、悪鬼となる。人間が、喰いたくて喰いたくてたまらなくなる。人間を喰うことしか考えられなくなる。――あの当時、お前もそうだったろう?」


 苦痛に耐えて岩の神の言葉を聞いていた乙彦は、唸るように答えた。


「……私はもう、人間は喰わないのです」

「それが信じられればいいのだがな」


 岩の神はため息をついた。


「いや、まったく信じられぬと言っているわけではない。確かにお前は、人食いの衝動を抑え込んだ。それができたのは、あの娘を助けるためにやむを得ず取った行動だったからかもしれぬし、喰らったのが体の一部――腕と足だけだったからかもしれぬ。あるいは単に、二度と起こらぬ奇跡だったのかもしれぬ。……いや、今のは言葉の綾だな。お前は少なくとも二度、その衝動を抑え込んだ。十年前と、春先と……。お前、あの洞窟に、娘を連れてきたことがあったろう」

「――な……っ」


 なぜそれを。

 驚きで息を飲む乙彦に、悪びれなく岩の神が言う。


「言っておくが、好きでのぞき見をしたわけではないぞ。さっき少しだけ寄ってみたら、あの娘の気配と、強い思念が伝わってきたのだ。あそこにあるのは、そういう性質の石だからな。意図せず、取り込んでしまったのだろう」

「……」

「安心しろ。読み取った記憶は断片的なものだ。お前が、崖から落ちたこと、その際に負傷したこと。近くにあの娘がいたこと。体に傷を負ったお前には、あの娘は上等な食い物に見えただろう。人間の匂いとその味の記憶は、お前の理性を奪っていく……、我慢するのは容易ではなかったはずだ。――だからお前は、さらに自らを傷つけた。身動きができないほどの深手を追えば、あの娘を襲うこともできなくなると思ったのだろう。まあ、あの娘の方からのこのこ近づいてくるとは、想定外だったようだがな。……それでも、お前は、耐えきった。あの娘を喰うまいという、お前の必死な思いが残っていた。――だから、お前があの娘を食らわないというのは信じよう」

「……っ、なら――」

「――だが、他の人間ならどうだ?」


 冷静に切り込まれて、乙彦がぎくりとする。その反応を見逃す岩の神ではなかった。乙彦の顔を持ち上げ、無理やり、気を失っている少女の方へと向ける。


「人間を喰いたい衝動は消えてはいないのだろう? さきほどから、故意に目をそらし続けているではないか。この娘を丸ごと喰らえば、その傷を癒すには十分だ。あわよくば、鴉ともある程度やり合えるかもしれぬ」

「……っ」


 岩の神の指が、乙彦の顔に食い込んだ。

 岩の神は煽っている。さあ喰ってみろと、無防備な人間の娘を生贄に差し出してくる。


 乙彦の鼻が無意識にそのにおいを嗅ぎ、その姿を視界に捉えようと視線をさまよわせた。娘を捕まえようとして指に力が入り、唾液があふれそうになる。

 乙彦はそれに抵抗して目を瞑った。こんな衝動にも、妖怪の性質にも、ましてや岩の神にも、支配されるつもりなどない。


 岩の神はため息をついて立ち上がる。諦めたのかと思いきや、おもむろに足を上げると、乙彦の無事な右足を狙って無造作に踏み下ろした。


「ぐぁっ……!?」


 妖の力は妖力に比例する。さほど力を入れた様子はないのに、鈍い音と嫌な感触がした。


「まだ飢えが足りぬか? 覚悟が足りぬか? 早く決断しろ。時間がないのだろう」


 もう一度足を上げ、再び踏み下ろす。乙彦は悲鳴をこらえ、岩の神を睨みつけた。


「人間は……、喰わないのです……っ!」

「そうか。だが、娘はどうする? 今まさに、人食いに痛めつけられているかもしれぬ。いや、すでに喰われてしまったかもしれぬ。最愛の娘なのだろう? 助けに行かなくていいのか? もう諦めたのか? それよりお前は、自分の身が大事だというのか?」


 岩の神は話をするたび、足を踏み砕いていく。激痛に意識が飛びそうになりながらも、乙彦は必死に少女から視線をそらした。


 あの時――、小姫の身体を喰った後の苦しみに比べれば、今の飢えなど大したことはない。

 洞窟の奥深くにもぐりこみ、獣のように唸り続けた。人を喰らい尽くしたい衝動でいっぱいだった。わずかに残った理性で、ただ、洞窟の外には出ないことだけを自分に課した。


 苦しみから逃れるために暴れ、自分の爪や岩肌で体を傷つけ、そのせいでさらに人の肉を求めてしまう。苦しみが薄れるどころか、着実に増していく悪夢のような繰り返し。


 後に、乙彦が閉じこもっていたのは、二週間ほどのことだと聞いた。だが、一日の流れもわからない暗闇の中では、まるで永遠の時間にも思えたものだ。一分一秒のあまりの長さに、何度絶望しかけたことか。


 それに耐えられたのは、岩の神の協力と、自分が自分であるという誇り、そして――小姫への思いだった気がする。それを認めるには、それからまた時間が必要だったが……。


 あの時、人間を襲わずに済んだのは、小姫のおかげだ。だから、彼女を失うくらいなら、他の何を、誰を犠牲にしても許されると囁く自分がいる。人間たちも、一人二人で済むのなら御の字だろうと、そう惑わす声がする。

 だが、それを小姫は許さないだろう。自分のために誰かが犠牲になったと知れば、きっと彼女は、乙彦より、誰より、自分を許さない。

 ずっと彼女を見て来た乙彦は、それを知ってしまったから――結局、目の前の娘だろうと、知らない人間だろうと、誰も犠牲にはできないのだ。


「――何を笑っている」


 岩の神が眉を顰め、足を地面におろした。乙彦はそう言われて初めて、自分の口が笑みを形作っていたことに気づいた。

 焼き切れそうな理性をかき集め、岩の神に焦点を合わせた。


「いえ……、どうすれば……、あなたが信用するのかと思ったのです……」

「……お前を信用していないわけではない。妖怪の本能を……、人食いの末路を知っているだけだ」


 ――つまり、結論は同じだ。


 乙彦が失笑する。


 無茶苦茶なことを言っていると、岩の神もわかっているのだろう。怒りを装いながら、その目は悲しみを湛えている。

 さっさと観念して人を喰らおうとする一端でも見せれば、これ以上痛めつけなくて済むのにとでも思っているのだろうか。完全に悪鬼と化す前に命を絶ってやるのが慈悲だと、そう思っているのだろうか。

 長い付き合いのある神だ。人間に崇められ、祈られ、彼らの安寧を第一に考えてきたことはよく知っている。村の守り神は降りたと言いながら、その性質は変わっていないようだ。


「あなたが信用しなくても……、私は、人間は喰わないのです」

「……」

「ヒメの……心も守ると……決めたのです」


 小姫に救われたのは、命だけではない。もしあの時、人間を手当たり次第に襲っていたら、いつか理性を取り戻したとき、自分の所業に耐え切れず狂ってしまっていたかもしれない。


 命だけではだめだ。それでは、本当に救ったことにはならない。彼女が自分を責め、苦しむ姿はもう見たくない。

 だから、決めたのだ。彼女のすべてを守りきると。


 ……ただ、その感情が、岩の神の憂いになるというのなら……。


「――それでも信じられないのなら、……私の記憶を消せばいいのです」

「……な……っ?」


 岩の神が、驚愕のあまり絶句した。乙彦はうっすら笑みを浮かべ、その珍しい狼狽えぶりを見物する。


「今、ここで、人間を喰わなくても……、あなたの不安は消えないのでしょう……? ならば、私の中の、ヒメの記憶を消せばいいのです……。私が、人を喰わなければならない理由、それ自体を消せばいい……」

「――……っ」


 乙彦が、人間を喰うことはない。幾度、そう繰り返しても、岩の神は納得しない。言葉の制約があっても、約束という縛りがあっても、彼女が言う通り絶対ではないから、もっと確実な方法を求めてくる。

 しかし、それを証明するためには、乙彦がこのまま息絶えるか、小姫がそうなるのを待つしかない。が、そんなのは本末転倒だ。乙彦にとって、許容できる手段ではない。


 そんな方法を取るくらいなら――、そして、こうして何もできずに手をこまねいているくらいなら、記憶くらい、いくらでもくれてやる。それで彼女を守れるならば、生きる理由を見失うくらい、取るに足らないことだから。


「お前は……、何を言っているのかわかっているのか!?」


 岩の神が顔を歪め、口をわななかせた。乙彦が、笑みを深める。


「わかっているから……言っているのです。ヒメへの想いも、記憶も、全て消してしまえば……、あなたの懸念は払拭(ふっしょく)される。ヒメのために……誰かを犠牲にしようとは思わなくなる。……ただ、その時は……、あなたがヒメを守ると、約束しなければならない……。それ以外の条件では……私は了承しないのです」

「……お前は――……」


 岩の神が一度口をつぐみ、苦しげな表情を浮かべた。


「……前にも言ったが、記憶を移すというのは、我の性質であって、能力ではない。思い通りに扱えるわけではないのだ。その証拠に、あの娘はすでに、当時の記憶を思い出し始めている。思い出そうとすれば、自然に解放されていく――その程度のものなのだ。それゆえ、本人が望まなければ、そもそも記憶を閉じ込めることなどできぬ。それをわかった上で言っているのか?」

「ええ……、望むのです。それで今、ヒメを救えるのであれば」


 岩の神の抱いている恐れは、以前、乙彦にもあった。


 いつか、我慢できずに小姫を傷つけてしまうかもしれない。人を喰う衝動に侵されて、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうかもしれない。


 その可能性を考えて、離れた方がいいのではないかと、何度も迷った。何十回、何百回と考えた。しかしそれでも、離れられないのだと思い知らされた時、覚悟をしたのだ。


 何が相手でも、彼女を守る。人や物、この世にあるものすべてから。……もちろん、自分からも。

 小姫を守るためならば、自分すら殺す。彼女を傷つけた未来に、おそらく自分はいないだろうから。


「…………」


 岩の神は乙彦の側に膝をつくと、額の上に手を掲げた。


「……あの娘は、泣くだろうな」

「何を……。私を殺そうとしていたくせに……」


 何度もためらう様子に、乙彦は苦笑した。今更、何を言っているのかと。

 しかし、こんな時まで人間の心情を思いやるなんて、岩の神の人間びいきは筋金入りだ。


 ――あの娘は、泣くだろうな。


 彼女はそう言ったが、乙彦にはそうは思えない。

 自分の記憶が一部なくても、それほど気にしなかった小姫のことだ。岩の神が心配するほどの反応はしないだろう。


「ヒメも……、きっと、すぐに忘れるのです……」

「……お前は、あの娘の気持ちは信じておらぬのか?」

「人間の心は移ろいやすいと……、そう言ったのはあなたなのです……」


 妖怪の心は永遠。だが、人間の心は移ろいやすい。だからこそ、妖怪と人間の間には悲劇が生まれるのだと、岩の神は何度も言った。


 だから、小姫の恋心などいらなかった。そんなものをぶつけて、こちらの感情を波立たせないでほしかった。約束で結び付けて、側にいるだけで良かったのだ。生まれかけた感情に蓋をして、見て見ぬふりをし続けた。


 ――だが今は、彼女が愛おしくて仕方がない。


「そこまで分かっているなら……よかろう。あの事件の記憶、そして、あの娘にまつわるすべての記憶を封じよう。そして、お前は以前のように、我の側で暮らせばいい」

「約束なのです、ヒメのことは……」

「わかっている。人と妖怪のことわりに反しない限り、お前の希望を叶えよう」

「ふ……。人間に優しいあなたのことは……信じているのです」


 岩の神の滑らかな手が額に乗せられる。

 乙彦は口の端を上げた。視線を女神の顔に定めると、目を細めて付け足した。


「たまには妖怪にも……少しくらい、優しさを分けてほしかったのですが……」


 皮肉気に言うと、岩の神は憮然とした表情をした。


「何を言う。我はお前には甘すぎたくらいだろう。だからあの時も、猶予を与えて――」

「――なら、もう一度、猶予をもらうのです」

「――っ!?」


 乙彦が獰猛に笑った。唯一自由に動く右手で岩の神の胸元をつかむと、強引に引き寄せる。驚きに目を見張る女神の唇に自分のそれを押し付け、素早く妖力を吸いこんだ。


「――っ、貴様……っ!?」


 さすがに岩の神は、すぐに事態を理解した。怒りの形相を浮かべて、渾身の力で突き飛ばす。

 地面に倒れた乙彦を改めて組み敷こうとしたが、急激に妖力を削られた反動で体勢を崩した。乙彦はその機を逃さず、川から水流を引き寄せて、その中に姿を隠した。


「貴様、逃げるか……っ!」

「猶予をもらうだけなのです。約束を果たすのは……、これが終わってからなのです」


 扇子の裏で、乙彦がにたりと笑んだ。止める間もなく、水が渦巻いて乙彦と周囲の砂を攫い、川のある方へと退いていく。


「――っ、あの、馬鹿者が……!」


 岩の神は追いかけようとしたが、倒れた少女を見て思いとどまった。

 地面に浸みた水の跡は早田の手前で止まっている。彼女自身も濡れてはいない。岩の神は息をついて少女の側に寄ると、乱れた髪を直し、頬を撫でてやる。


「……まあよい。川の水で移動したということは、まだ自分の足では立てないということだろう。我の妖力を奪ったとて、回復には時間がかかる……、何ができるわけでもない」


 それなのになぜ、この娘を喰わなかったのか。本当に、極限まで追い詰められても、乙彦は自制できるのか。


 答えを得ることはできなかった。まさか、あんな方法で逃げるとは。


 再度、ため息をついていると、リィ……ンという澄んだ音が響いた。岩の神だけに聞こえるその音に、目を瞑って耳を澄ます。


「ああ、記憶が――、とうとう思い出したのか……」


 岩の神は、小さかった頃の小姫を思い浮かべた。


 十年前のあの出来事を、調停者――弥恵はずっと後悔していたようだ。彼女が何も言わず封印しようとしたことで、セイは誤解し、小姫を恨んだ。ただ封印されるだけではなく、信じたものに裏切られ、捨てられるという苦痛がそれに拍車をかけた。そうして、その憎悪は小姫一人に向かってしまうことになった。


 封印される直前の彼の恨みの言葉は、少女の胸をえぐり、あたかも呪詛のような効果をもたらした。それは幼い心に、どれほどの恐怖を与えたことだろう。

 あの時、小姫の心を、命を守るには、記憶を閉ざすしかなかった。自分でもそれをわかっていたのか、小姫はすんなりと記憶を失った。目を覚めても、記憶を取り戻そうとはしなかった。それなのに、今、思い出したということは――、もう傷は、癒えたのだろうか。


 あの事件は、母親である弥恵にとっても大きな恐怖を与えたようだ。彼女は、いざという時、娘を守る力がないことを痛感させられた。もしも大烏が蘇った時……、似たような脅威があった時、小姫を守ってくれる誰かを、ずっと探していたのかもしれない。そうして白羽の矢が立てられたのが乙彦ということなのだろうが――、結局、大烏に対しては、小姫が向き合うことでしか収まらない。


「……願わくば、あの娘の前途に、光があるように――……」


 岩の神はそっと目を開けると、小姫のいる方角へと顔を向けた。


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