26.
小姫はまた、夢の中で小学生になっていた。
学校から帰ったら、お菓子や本を持ってキンモクセイの丘を訪れる。セイはいつも木の上にいて、小姫が来ると、ふわりと下りてきてくれる。そうして、今日は何を持ってきた、何があったと、好奇心に満ちた目で小姫を質問攻めにするのだ。
「今日はねえ、遠足のお話があったよ」
小姫は遠足、とノートに書き、遠足がどんなものか簡単に説明した。
「ふうん。遊びながら山に登って弁当を喰うのか。お前が通っている学校って、なんか、遊んでばっかりみたいだな」
「ええっ、そんなことないよ! 遠足だってお勉強なんだって、先生言ってたもん」
小姫が膨れると、セイが笑った。
「山で弁当喰うのが、なんの勉強になるんだよ」
「えっと、だから……。たしか、だんたい……。こう、どう……? ……えっと、とにかく、みんなで一緒に山に登ると、学べることがいろいろあるんだよ!」
勢いで押し切ろうと、小姫は大声で言って胸を張った。セイはこらえきれず、また噴き出した。
「そんなこといって、楽しみで仕方ないんだろ」
「……うん。そうだね。……お弁当、食べられるし」
小姫も笑ったが、どこか無理しておどけたような笑いになった。それに気づいたセイが、笑いを引っ込めて尋ねた。
「どうした?」
「え?」
「嫌なことでもあったのか?」
「…………」
小姫はしばらくノートにぐるぐると意味のない線を描いていたが、やがて、秘密を打ち明けるように小声でつぶやいた。
「……グループ分けで、もめちゃったの。私を入れたくないんだって。入れたら、面白くないからって。……お母さんが村長だから、何かあったら言いつけるんだろうって」
「……ふうん?」
セイは腕を組み、しばし黙った。
「それは、仲間外れにされたってことか?」
「んー……。たぶん、そんな感じかな……」
セイは心底驚いたように目をむいた。
「そんな、嘘だろ? 俺だったら、小姫と遊べたら楽しいぜ」
「……え」
「山登るのも、勉強するのも、お前と一緒がいい! そいつら、変な奴らだな。俺がそこにいたら、真っ先に小姫を仲間にするのに!」
「セイちゃん……」
セイの言葉に、小姫は嬉しそうに「えへへ」と笑った。
「そうだね。私も、セイちゃんと一緒に学校通えたら楽しいと思う」
「お、そうか? 俺も、行ってみたいと思ってたんだ。授業とか、体育とか、行事とかいう遊びとか! その、学校ってところで、いっぱいの人間と混じってやってみたい」
「! じゃあ、約束しよ、セイちゃん。いつか、ここから出られるようになるんでしょ? そしたら、私と一緒に学校に行こう!」
「ああ、約束する!」
小姫が小指を出すと、セイもそれを真似て小指を出した。たどたどしく指切りをして約束を交わす。
「――それで、小姫。その仲間はずれにしたやつって誰なんだ? 俺がやっつけてやろうか」
気を取り直していつものように宿題にとりかかっていると、いいことをひらめいたとでもいうように、セイがそんなことを言い出した。小姫は困った顔をして、小さく首を横に振る。
「ううん、いいの。いつものことだし、やっつけたいなんて思ってないよ。……だって私、みんなの気持ち、わかるんだ。私も、もし、先生と一緒のグループになれって言われたら、見張られてるように思っちゃうかなって」
「本当かよ。でも、気分は悪いだろ? ……うーん、じゃあ、やっつけるのが嫌なら、喰っちまうって方法もあるぞ」
「ええ? 喰うって……」
冗談だと思った小姫は、くすくすと笑った。
「絵本のかいぶつみたいに? バリバリって?」
「いや、丸飲みだな」
そのセイの言葉に真剣な響きを感じ取り、小姫は思わず彼を見つめた。
「その方が、痛みも苦しみもないはずだ。お前、そいつらに、痛い思いさせたくないんだろ? それに、中途半端に傷つけると、わめいたり逃げたりするやつもいて面倒なんだよ」
「セ……、セイちゃん……?」
セイはどこか遠くに視線を投げ、懐かしそうに目を細めている。
「――ああ、そうだ。俺が喰えばいいんだ。そうすれば、みんな喜ぶ。これでもう苦しくないって、嬉しそうな顔をする。小姫、お前もその方がいいんだろ? そうすれば……。なあ、嫌なやつっていうのは、何人いるんだ? いくらでもいいぞ。しばらく喰ってないからな。そうだな、どれくらい喰えば、力を取り戻せるんだろう。もしかしたら、待たなくても、自力で抜け出せるかもしれない。外にも出られるようになるかもしれないな……」
「……セイちゃん……?」
セイの視線は定まらず、何を見ているのかわからない。ぶつぶつと独り言を繰り返し、小姫の声は聞こえていないように見える。
金色の目がいつもより見開かれ、そこに狂気の色が宿るのを感じた。その視線の先に小学校があることに気づき、小姫は彼の横顔に、底知れぬ不安を抱くのだった。
その日から、セイの話題は人を喰うことに偏っていった。
その話をするときは決まって、セイの目はらんらんと輝いており、小姫の言葉は彼の耳には届かない。熱に浮かされたように、同じことを話し続ける。
セイが何者なのか、何をしようとしているのか、なぜこの丘から出られないのか。その時になって初めて、小姫は彼について何も知らないことに気がついた。そんなこと、今まで気にしたこともなかったのだ。
むしろ、彼の正体を問うことは、二人の間に壁をつくってしまうのではないかと恐れていた。妖怪でもなんでも、セイがセイでありさえすれば、どうでも良かった。大切なのは、セイが友達であること、そして、小姫にとって大切な存在であること、それだけだった。
だが、こうなって初めて、聞いておくべきだったのかもしれない、と。そう、漠然と考えた。
しかし、もう遅かった。もはや、改めて尋ねることは叶わない。そんなことをしたら、セイは怪訝に思うだろう。なぜそんなことを聞くのかと。自分を疑っているのかと。最悪の場合、彼の怒りを買うかもしれない。
今のセイが怒ったら……。そう思うと、怖くてただ口をつぐむことしかできなかった。
「――セイちゃん。最近、よくそれ見てるね」
セイは遠くを見るのと同じくらい、ある一本のキンモクセイを観察していることが多くなった。その木は他のそれより花が少なく、元気がないように見える。
近頃は、セイに近づくのも、話をするのにも、だいぶ気を遣っていた。会話の途中で豹変することがあるからだ。
だが、木を心配する優しさがあるのなら。
そう思って、久しぶりに自分から話しかけた。以前のセイが戻ってきたのかもしれない、そう思った。そんな期待を、しかし、彼は打ち砕いた。
「ああ、そうだな。もうすぐだと思ってさ」
「……もうすぐ?」
「ああ。もうすぐ。こいつが完全に枯れたら、術が解ける。そうしたら、俺は解放される。ここを出たら、行きたいところがたくさんあるんだ。小姫の学校、赤い実がなる庭、小姫たちが遠足で登る山……。――それに、小姫の家」
「え……?」
(……私の家?)
小姫はぎくりとして、セイを見つめた。
「私の家、知ってるの? 教えたこと、なかったよね?」
尋ねると、セイは笑った。
「もちろん知ってるさ。俺は目がいいんだ。お前がそこから出てくるのも、ここから帰って行くのも、よく見える」
セイの赤い口の中から、鋭く尖った八重歯が覗いた。それがやけに目について、小姫は視線を外せなかった。
いつか指切りをしたときのような胸の高鳴りはなく、ただ、背筋に寒いものが走った。
(……なんで? 友達が……、ただ、友達が、私の家を知っていただけ。うちに遊びに来たいって言った、それだけ、なのに……)
心臓が不気味な心音を奏でる。友達に抱いてはいけない感情を、小姫は唾液とともに飲みこんだ。
セイは金色の目を怪しく光らせて、さらに口の端を上げた。
「――約束、忘れてないよな、小姫?」
「……うん」
小姫は、力なく頷くことしかできなかった。
――小姫。小姫。
何度も名前を呼ばれて、小姫はぼんやりとした目を開けた。
頭が重い。グラグラする。瞼が張り付いているようで、目を開けようとしても開けることができない。
電気をつけたまま寝てしまったのだろうか。もう夜のはずなのに、部屋の中は明るいようだ。
(……寝てた? え? なんで、私――)
ようやく瞼が少しだけ持ち上がる。半分も開かない目で確かめると、どうやら居間にいるようだ。服の感触からして、着ているのは制服だろう。
なぜ、着替えもせずに居間で寝ているのか。思い出そうとしたが、頭に靄が広がっていて、答えを探すことすらままならない。
(ああ、でも、とにかく、起きなきゃ……)
泥のように重い体を何とか起こして立ち上がる。だが、畳に手が触れても、畳を踏んで足を延ばしても、何の感触も伝わってこない。空気に肌が触れている感覚や、足を動かしている感覚すらなかった。このまま歩いたら、足を踏み外して転んでしまいそうだった。
小姫はとりあえず、壁に寄りかかって感覚が戻ってくるのを待った。
体を動かしたのが良かったのか、血が廻り始めた気はする。それと共に、うっすらと記憶がよみがえってきた。
確か、千切られた教科書の紙からキンモクセイの香りが漂ってきたのだ。その香りを嗅いだとたん、強い睡魔に襲われた。居間で寝てしまっていたのは、おそらくそのせいだろう。
だが、肝心のその紙はどこだろうか。重要なものだったはずなのに。……その紙には、何か……、何か重要なことが書かれてあったような……。
頭が働き始めたと思ったのに、すぐに壁にぶつかって思考が止まってしまった。だが、それでいいのだ、と何かの声が囁く。
ここはまだ、夢の中なのだから、と。
(……あれ? そうだっけ……)
夢の中、だっただろうか。目覚めたはずではなかったのか。
小姫は混乱する。体がふわふわしているのは、確かにそのせいかもしれない。周りが白くけぶっているようなのも、夢の中だからだ。
しかし、小姫は今、高校の制服を着ている。いつもの夢では、小姫は小学生だったはず。
やはり、こちらが現実なのか。では、どこまでが夢だったのか。いや、もしかしたら、夢から覚めたと思ったのは気のせいで、ずっと夢を見続けているのかもしれない。
……そういえば、さっきから、声が聞こえる。
――小姫。小姫。
自分を呼ぶ、懐かしい声。二人の間の親密さを感じさせる、気安さと信頼が滲んだ声。
そうだ。余計なことを考えている場合ではない。早く、会いに行かなければ。彼をずっと、待たせているのだから。――もう長いこと、ずっと……。
(ああ。待って。今……、今、行くから……)
壁に手を突きながら、よろよろと玄関まで歩いて行く。
――小姫、小姫。
(待って。今、向かってるから。焦らないで、待って……)
返事をしたいのに、声が出ない。出すことができない。まるで、動かす唇も、震わせるのども、無くなってしまったようだ。手足の感覚も、まだ戻らない。
やっぱり、これは夢だ。小学生の自分を見ていた時も、こんな感じだった。
違うのは、小姫の思う通りに体が動くこと。歩こうと思って歩いていること。止まろうと思えば止まれるし、手を上げようと思えば上げられる。
しかし小姫は、他人の動きを眺めているような感覚で、足が玄関にたどり着くのをじっと待っていた。
――小姫、小姫。
玄関に着いてみてわかった。声は、扉の向こうから聞こえてくるのだ。
(わかってる。待って……!)
心の中で返答し、玄関の扉に手を伸ばす。鍵を開けようとしたら、手が滑って空を掻いた。
――小姫……、小姫……。
(待って。待って。今、開けるから……!)
うまく開けられないのは、触れている物の感触がないからだ。小姫は息を止めて指に集中すると、片時も目を離さず自分の動作を見守った。やっとのことで鍵を開け、小姫はほっと胸をなでおろした。
だいぶ彼を待たせてしまった。大切な友人なのに。
……もしかして、怒っているだろうか。
そう思ったとたん、ドアノブにかけた手が止まった。開けなきゃいけないのに、手が固まったように動かない。
彼を怒らせてはいけないのだ。怒らせたら、大変なことになる。もう二度と、逆鱗に触れるようなことをしてはいけない。
……おかしな話だ。彼を怒らせたことなんて、一度もないではないか。
小姫は気を取り直して、ノブを回した。そうして、ドアを向こう側へと押し開く。
……さあ、開けたらきっと。――開けたら、きっと……。
――誰が、待っている?
(あれ? 私……、誰を、待たせてるんだっけ?)
乙彦ではない。弥恵でも、青峰でもない。
むしろ、小姫は乙彦を待っていたはずだ。窓から出て行った彼を。無事に帰って来ると信じて。
(待って。私……、もしかして、何か取り返しのつかないことを――)
ノブにかけた手に力が入った。
一度、扉を閉めた方がいいかもしれない。そうして、もう一度考え直す。そう思ったが、開きかけたドアは、勝手に開き続けて外の光を取り込んだ。
(……ああ、まぶしい……!)
外は夜で、室内より暗いはずなのに。まぶしくて目が眩んだ。その光に慣れてから目を凝らすと、ドアの枠に収まりきらない闇の塊のようなものが、音もなく佇んでいた。
そして。
「――見つけた」
その黒い塊の中に、にたりと笑う口と、金色の目が二つ見えた。