25.
枝から枝へ。屋根から屋根へ。
夜を迎えた村は明かりも乏しく、人間に目撃される心配はあまりない。だが、おそらく向こうからは見えているのだ。なるべく姿を隠せる位置を選び、乙彦は妖怪の気配を追った。
しかし、相手との差はぐんぐん開いていく。それもそのはずだ、彼の妖気は上空にあるのだから。
家を襲った濃密な風が吹いてきた方角を鑑みるに、空を飛ぶことのできる妖怪なのだろう。視力もかなりいいはずだ。夜目が効くというのは――腐っても妖怪ということなのだろう。
乙彦は何度目かわからない舌打ちをする。
飛べる相手と川の妖怪とでは、相性が悪すぎる。しかも、こちらが追う側というのが厄介だ。水に潜って泳いだほうが速いが、距離があると気配を辿れなくなってしまう。
逃がすわけにはいかなかった。
相手の狙いは小姫のようだ。家から出なければひとまず安全だが、ずるがしこい妖怪はいくらでもいる。外に誘い出す手がないわけでもない。相手を見失い、小姫の元に行かせることは、絶対に阻止しなければならない。
せめて、小姫の側に誰かいれば。何ができるかはわからないが、まったくの一人よりはましだったはずだ。
恐ろしい妖怪が間近にいたのは、はるか遠い、過去の話だ。人間にとって危険な輩はとっくの昔に退治され、警戒する必要がなくなった。おかげで、調停者と呼ばれる者たちの間にも、彼らから身を守る術はほとんど伝わっていない。だから、弥恵や青峰がいたとしても、対抗することはできなかっただろう。
……だが、それでも。
――お願い、乙彦。……無事に、帰って来て。
心細そうな、不安に満ちた小姫の顔を思い出す。その拍子にさきほどの泣き顔が頭をよぎり、乙彦は今すぐにでも彼女のもとに引き返したい思いにかられた。
本人は、ほとんど泣いたことがないと言っていたが、そんなことはない。なにしろ、乙彦が最初に小姫と出会った時も、彼女は泣いていたのだから。
その前から、もちろん、小姫の存在は知っていた。現在の調停者が弥恵ということも、彼女に一人娘がいることも知っていた。ただ、特定の誰かとして意識したことはないし、接触しようなどと考えたこともなかった。あの時、あの事故さえなければ、今でもそうだったはずだ。
だが、現実に、あの事故は起こってしまった。乙彦は小姫と初めて言葉を交わし――、だからこそ、知っている。
小姫が今日泣いたのも、あの時泣いていたのも、セイという妖怪のせいだと。
自分では決して、彼女の涙を止めることはできないのだと。
だから、乙彦は小姫が泣くのが苦手だ。彼女に泣かれると、己の無力さを痛感する。あの時のように、彼女を失うかもしれない恐れがよみがえって狼狽してしまう。
乙彦は、奥歯をかみしめて上空を睨みつける。
――それもすべて、あいつのせいだ。
怒りに任せて枝を蹴飛ばす。大きくしなった枝が木の葉を激しく揺らし、風の音に異音を加える。
セイのことは、今日、初めて知った。それを封じたのが岩の神だということも、弥恵から聞くまで知らなかった。
岩の神とは長い付き合いだが、気の置けない仲というわけではない。だから、お互いの行動を逐一話す必要はないのだが、小姫が関わっていることくらいは話してくれてもよかったと思う。
怒りがセイ以外にも飛び火しそうになり、乙彦は一度、足を止めた。
頭を冷やさなければならない。
丘に封印されていた妖怪。奴は、意外と頭が回る。こうして皆がばらばらになったのも、奴がそう仕向けたせいとも考えられる。
だが、なぜか。
それほど人を喰い続けた妖怪なら、今の妖怪などまとめて蹴散らしてしまえるはずだ。人間ならなおさらのこと、奴の相手にはならないだろう。手間をかけてまで孤立させたのは、何か意味があるのだろうか。
弥恵からは、小姫より一足先に、セイの目的は聞いていた。あくまで予想でしかないが、奴は、小姫に恨みをぶつけたいのだという。
詳しい顛末は聞いていない。誤解だと弥恵は言っていたが……。
しかし、そうすると――。
小姫だけが狙いだから、関係ない者を巻き込まないようにしているとでもいうのか。
(……まさか)
乙彦は苦笑する。どうやら、小姫の言葉に惑わされてしまったようだ。何百年も封印されるような妖怪が、そんな生ぬるい性格なわけがない。おそらく、長い間眠っていたせいで、力が衰えているのだろう。一人ずつしか相手にできないほど弱っているならば、互角以上に戦えるかもしれない。
しかし、家を襲った時の力を考えると、侮ることはできなかった。
もちろん、全力ではないだろう。それなのに、あの程度の威力があるのだ。思わず苦笑いが口元に浮かぶ。
だが、悪いことばかりではない。わざわざ家まで来て乙彦をおびき出したということは、待ちきれなくなったということだろう。血に飢えて、冷静さを失いかけているのかもしれない。それは、人質の娘の身に危険が及ぶ可能性も指し示しているが、同時に、こちらの好機でもあった。
頭のまわる相手は厄介だが、理性を無くしてただ力任せに襲ってくるのであれば、やりようはある。隙をついて妖力を奪うことも可能だろう。問題は、空を飛ぶ相手にどうするかだが……、それは、相手の出方を見て判断するしかない。
乙彦は首を横に小さく振ると、足を東の方角へと向けた。
セイの気配はとうに無い。しかし、向かった先は把握している。手紙に書いてあった学校と同じ方角だ。待ち伏せされていることを覚悟して、慎重に進んだ。
高校の校舎には、まだ明かりのついている部屋もあった。乙彦は樹上から気配を探り、何も感知できないことがわかると、敷地内をくまなく探した。
グラウンド、中庭、プール、校門、駐車場、駐輪場、体育館の裏……。
地面に降りて、校舎に沿って一周してみたが、あるのは植物と小さな生き物の気配だけ。あまりに静かで、あまりに穏やかな空気感に、乙彦は眉を顰める。
「……これは、おかしいのです……」
乙彦は手紙の文面を一字一句、頭の中に思い浮かべる。
『女を助けたければ、河童をひとりで学校に寄こせ』
学校というのは、小姫が通っている高校のことだと思ったが、違ったのだろうか。
日無村に高校は一つしかない。が、小学校と中学校は別にある。とはいっても、小中一貫の義務教育学校で、校舎は統一されているのだが。
そういえば、封印されたのは小姫が小学生の頃らしい。だから、そちらを選んだということなのだろうか。
そうだとしても、小姫が今は高校生だということも、こちらの校舎に通っていることも、数日見張っていたのなら知っているはず。それなのに、以前通っていた学校を指定するというのは、どうにも釈然としない。
乙彦はもう一度ぐるりと周囲を見渡した。
納得はいかなくても、高校の敷地内に、やはりめぼしいものは見当たらなかった。これ以上ここにいても、時間を浪費するだけだろう。
それなら、小中学校の方に向かうしかない。ここから北東の方角だが、そこに行くには、まばらに木が生えているだけの殺風景なところを抜けて行く必要がある。身を隠せる場所はほとんどなかったはずだ。民家も少なくて人目を忍ばなくていいのが唯一の利点と言えるだろう。それでも、乙彦は人間と鉢合わせしないよう、慎重に足を進めた。
温泉旅館を通り過ぎ、少し行った頃だろうか。乙彦は、ふと、気配に気づいた。嫌な予感がしてとっさに横に飛ぶと、さっきまで立っていた地面が爆発したようにはじけ飛び、小さな穴が開いた。
「っ!」
乙彦は陥没した地面を見、それから視線を空へ向けた。何か物体が飛んできたわけではないらしい。おそらく、空気を圧縮してぶつけてきたのだろう。空気の塊といえど、まともに食らったらただでは済まない。件の妖怪はよほどの高みにいるのか、気配は希薄で姿は見えなかった。
しかし、敵の姿を捉えられない間にも、次々に地面が穿たれていく。空気を切る音と感覚を頼りに、乙彦は間一髪で攻撃を避け続けた。
だが、地面が思いのほか緩いせいで足を取られる。ここ数日は雨も降っていなかったのに、一度すべて掘り返したかのように沈んで踏ん張りがきかない。訝しく思っても確かめる暇がなく、避け切れずに小さな傷が増えていく。些細な風程度なら、水の防御膜で向きをそらすことができるが、これだけ強固な塊だとそうはいかなかった。防戦一方になった乙彦は、次第に山側に追いやられていった。
とどめを刺すのでもない、やけに単調な攻撃の連続に、不気味さを感じた。どこかに誘導されているような……、そう思った時には遅かった。一際強い烈風が二度、三度、足元に打ち込まれたかと思うと、地中に開いた穴から、勢いよく高温の蒸気が噴き出した。
「ぐぁっ……!?」
じゅう、という嫌な音がして、乙彦の半身に大量の蒸気と熱湯がかかる。熱とも痛みともわからない強烈な刺激に目が眩み、どうと地面に倒れ伏した。
熱湯がしみこんだ着物が肌にまとわりつき、刺激は明らかな激痛へと変わった。それは次第に強くなり、じくじくした痛みを訴え続ける。
火傷なら水で冷やせばいい。わかってはいるものの、焼けただれた皮膚の熱と痛みに支配され、水を上手く操れない。頭がもうろうとして、川の水を呼ぼうとしても集中がすぐに途切れてしまう。
その原因は、痛みだけではなかった。してやられたことが、はっきりわかったからだった。
姿を見せたのはわざとだった。焦っていると思わせて自分を追わせ、指定された場所の手前に罠を仕掛けていた。まんまと相手の策にはまり、何もできずに深手を負わされた。
――無様すぎる。小姫を守るどころか、時間稼ぎにすらなっていない。力では敵わないと知りながら相手を侮っていた己の愚かさに吐き気がする。
「――ちぇっ。やっぱり、俺がいた頃とは違うか。もっと勢いよく温泉が噴き出すはずだったんだけど。まあ、でも、水の妖怪が熱に弱いってのは本当なんだな。思ったほどの効果が出てないのは、全身を水で守っているせいか……?」
かすかな風が吹き、地面に軽いものが降り立った。かすかに立ち上った砂埃の中に人間の裸足のようなものが見え、乙彦は口の端を上げる。
「は……、不覚を取ったのです……。意外に、頭がまわる……」
しかも、慎重な性格なのかもしれない。足は、乙彦から少し離れた場所にあった。乙彦が何らかの動きを見せれば、すぐに飛び立ち逃げられる距離。
痛みをこらえて少しだけ頭を持ち上げれば、様子を見に地面に降りてきたそれは、小姫が言った通りの外見をしていた。
黒い髪に金色の瞳。小学一年生くらいの少年の姿。着物は襤褸ではないが、あまり寒さを感じないのか、簡素な単衣を身にまとっている。
目は大きく、猫のように暗闇で光っていた。ずるがしこそうにも、反対に、無邪気そうにも見える。素肌は健康的な肌色で、肉付きも悪くない。
人間への変化は完璧で、特徴的な目さえ隠せば、その辺にいる子どもたちと何ら変わりがないように見える。が、中に渦巻く妖気が外見を裏切っていた。妖怪何人分にも何十人分にもなりそうなエネルギーを小さな体に押し込めて、内部はいわば圧縮された台風のようだ。
「ふん。なんだお前、俺をなめてたとでも言うのか? 確かに俺も全盛期ほどの力はないけどな、お前程度に後れを取ることはないぜ。……ま、警戒はしていたけどな。見たところ、お前が一番邪魔だった。あの時俺を封印した神はいなかったしな」
少年はそこまで言って、鼻を鳴らす。
「って言っても、人間も何するかわからないんだよな。今まで、散々騙されてきたし、あの人間の女は封印の場にもいたはずだ。余計なことされても面倒だから、村に戻ってこられないようにしてやったぜ。あの電車ってやつ、決まった道しか走れないんだろ? ちょっと骨は折れたけど、これでお前は助けも呼べないってわけだ」
少年が肩をもむような仕草をしながら言う。それを見て、乙彦は予想が的中したことを知った。
やはり、彼は小姫たちを見張っていたのだ。新幹線が動かないのは、弥恵と青峰を排除するため。電車の知識は、幼かったころの小姫か、本から得たものだと思われる。
だが、電車で出かけたからといって、戻る方法がそれしかないわけではない。彼にどのくらいの知識があるかはわからないが、バスや自動車など、他の交通手段を知らないのであれば好都合だ。後は、油断を誘いながら、弥恵たちが戻ってくるまでの時間を稼ぐ方法を考えればいい。
――しかし。
乙彦は、以前と同じ疑問に突き当たった。
なぜ、わざわざそんな手間をかけるのか。
邪魔な人間なら喰えばいい。邪魔な妖怪は消せばいい。彼にとって、その程度のことはたやすいだろう。
さっきは、長年の封印のせいで力が衰えているからだと考えた。しかし、これほどの力があるならば――。
そこまで考えて、ぎくりとする。
少年が一歩、足を踏み出したからだ。
なぜそんな方法をとったのか。そんなことを考えている場合ではなかった。今、小姫は一人なのだ。ここまで頭が回る妖怪ならば、彼女を攫う算段は、おそらくついているのだろう。
少年が近づいてくる。ケガの程度を確認しようというのか、それとも、とどめを刺そうというのか。
妖力を集中させれば回復は早まるが、それでも、完全に治すには数日はかかる。一歩一歩、彼が近づいてくるのを、乙彦はひとときも見逃さないよう目を凝らして見つめた。
少年が立ち止まった。乙彦は苦しい体勢で見上げると、問いただす。
「お前は……何がしたいのです……」
「…………」
無言で見下ろす冷たい瞳に、乙彦は歯を食いしばって再度問うた。
「ヒメに……、あの娘に、何をする気なのです」
「……関係ないだろ、お前には」
「関係あるのです……! あの後、あの娘がどうなったか、お前は知っているのですか!」
十年前、小姫とセイの間に何があったのか、乙彦は知らない。しかし、乙彦にとって、忘れられない名前だった。それが一体何なのか、どんな意味が込められているのか、今でもわからないし、知りたくもない。彼に対して、余計な世話を焼くつもりもない。だが、それで小姫がどんな思いをしたかだけは、セイは知らないといけないのだ。
どんな思いで……あの時、泣いていたのか。
「お前と何があったかは知らない……、ですがもし、復讐なんて馬鹿なことを考えているのなら、やめるのです。そんなことをしても……、一時の慰めにしかならないのです。それに、あの娘はずっと後悔して――」
「――うるさい」
ぎろりと、金色の目が冷酷にひらめく。妖気がじわりと全身から染み出してくる。
「あいつは、後悔なんかしていない。わかったような口をきくな。あれからあいつがどうしてたかって? そんなの、考えなくてもわかる。どうせ、俺のことなんか忘れて、幸せに暮らしてたんだろうさ」
「……っ、それは――」
その通りだが――違う。根本的なところが、間違っている。
しかし、乙彦が言葉を発するのを制するように、セイが鋭い歯を見せつけるように口を開いた。
「お前、二流のくせにごちゃごちゃとうるせえよ。……妖怪なんてまずそうな匂いしかしねえけど、喰ってやってもいいんだぜ……?」
「――っ」
少年の妖気が膨れ上がった。人間の体が解け、代わりに黒々とした闇の塊が現れた。それは直径二メートルほどの大きさになり、同様に巨大化した金色の目がらんらんと光る。むせかえるような狂暴な妖気に顔をしかめつつ、乙彦は溜めていた力を解放した。
「――そうはさせないのです……っ!」
道路をいくつも超えた先にある川に、勢いよく水柱が立った。それは体をくねらせるようにして折れ曲がると、渦を巻きながらセイの背後を急襲する。
変化の途中であり、身動きできない決定的な隙。絶対に逃れられない瞬間を狙った。
――だが、わずかに遅かったらしい。
圧倒的な水圧で人食い妖怪を打ちのめすはずが、それは化け物をすり抜けて、その先にいた乙彦に向かう。
「――っ」
とっさに力を抜いたおかげで、建物を壊すことも乙彦を押し流すこともなかった。流水は柔らかく広がり、周囲を水浸しにしただけで、あとは道路や砂地に浸みこんでいく。
乙彦は水を全身に浴びたが、火傷の熱を完全に冷やすには足りなかった。濡れて張り付く前髪の隙間からセイの姿を探す。が、左右に視線を動かしても見当たらない。
「――ははっ、さすが、他所では水神として祭り上げられることもある妖怪だな。離れたところにある水も操れるのか」
頭上から声が投げ落とされた。どうやら、寸前に飛び上がって難を逃れたようだ。
バサリ、バサリとはばたく音が耳を打つ。夜空に目を凝らして音の出所を探すと、それがようやく輪郭を現した。
羽の長さも含めると、全長はどのくらいに達するのだろう。濡れ羽色の大きな翼。黒々とした中で金色に輝く瞳。はるか遠くまで見通せる視力。
やはり、そうだ。
セイの正体は――大烏!
「……っ」
顔を上げていられず、乙彦は地面に突っ伏した。水を浴びて多少楽になったものの、力の使いすぎと痛みでめまいがする。
地面が温かい。だが、立ち上がることができない。先ほど浴びた蒸気や熱湯だけでなく、いまだ地中深くに眠っているだろうそれらの気配から、逃れたくても逃れられない。
もはや、全身の感覚がなかった。妖力が滞って指一本すらまともに動かすことができない。痛覚のある場所だけが、まだ肉体が存在することを主張してくる。いくら叱咤しても動かない体に歯ぎしりし、目だけでセイの姿を追った。
「ふうん。なんだ、少しはやると思ったのに、それで限界か。力も使い果たしたみたいだな。そんなところで動けなくなったら、干からびて死ぬんじゃねえのか? ……馬鹿だな。捨てられたことにも気づかずに、そこまで人間に尽くすなんて」
「……? 何を、言っているのです……?」
疑問を口にすると、セイは呆れたように息をついた。
「だから、お前は捨てられたんだよ。どうせ、罠だと知りながら、ここまでのこのこ来たんだろ? あいつは人間とお前を秤にかけて、お前を犠牲にすることを選んだんだよ」
「何を、馬鹿な……」
乙彦は笑い飛ばそうとした。こじつけがすぎる。小姫はただ、セイの指示に従っただけだ。そうするしかないように仕向けておいて、それで小姫を試したつもりだろうか。
(……そうだ、娘……)
そこで、本来の目的を思い出した。まだ声が出せるうちに、聞いておかなければならなかった。
「あの娘……さらった人間は、どこなのです……」
「ふん、そんなの、どうでもいいだろ。どうしてそこまであいつに入れ込む? お前は人間を捨てないが、人間はお前を捨てる。現にお前は捨てられたんだ。いい加減、目をそらさないで現実を見ろよ」
「……お前は……、どうなのです……っ!」
――自分こそ、人間に執着しているくせに。小姫を攫うために、ここまでしたくせに。
人間なんかに構うなというなら、人々に忘れ去られて消えるまで、キンモクセイの丘で眠り続ければよかったのに。封印から解かれたのなら、どこへなりと飛んでいけばよかったのに。
痛みが襲い、全ては言葉にできず飲み込む。
だが、言いたいことは伝わっただろう。大烏は不快そうに目を細めた。
「……本当に生意気な河童だな。まあいい。お前も、そのうちわかる。いつか必ず、絶望する。……今は、同じ妖怪のよしみで見逃してやるよ。そのまま死ぬかもしれないけどな」
そう言って、大烏は空を見上げた。飛び立つつもりなのか。
とっさに足を掴んで引き留めようとしたが、手の届く距離ではなく、それ以前に腕が動かない。
乙彦の動きに、カラスはもう反応しなかった。一度、大きく羽ばたくと、西へ向けて体をひるがえした。小姫の元へ向かうのだろう。
「――待つのです……!」
乙彦は歯を食いしばって地面に爪を立てた。だが、それで精いっぱいだった。
おそらくもう、乙彦のことは大烏の頭の中には無いだろう。弥恵もしばらくは戻って来れない。邪魔する者は誰もいない。
家で一人で待っている小姫の姿が頭をよぎった。復讐するつもりかと聞いたとき、返事をしなかったセイの姿も。
最悪な想像が頭をよぎる。目の前が一瞬、赤く染まった。
絶対に、そんなことをさせるわけにはいかない。今すぐ奴を追うには、どうすればいい。自然治癒など待っていられない。あっという間に傷を修復し、奴の妖力を凌駕するようなけた外れの効果を生む方法は……!
(――ああ……)
乙彦の鼻が、ある匂いをとらえた。
――それを自分は、知っている。
小姫以外は、どうでもいい。……誰を犠牲にしてもいい。彼女さえ守れれば、彼女さえ無事なら、この体がどうなったって――……。
「――……っ」
――落ち着け。
頭に血が上りすぎた。乙彦は、あえて深呼吸をした。逸る心に蓋をして、目を瞑る。
大烏が小姫を喰って終わりなら、ここまで手の込んだことはしないだろう。セイは小姫に執着している。何を求めているかはわからないが、すぐに彼女をどうこうするつもりはないようだ。小姫を周囲から引き離し、誰にも邪魔されない時間を作った。ならばまだ――猶予はある。
何と引き換えても、小姫を守る。何を犠牲にしてでも、彼女の元へ駆けつける。
それは変わらない。乙彦にとっては、小姫がすべてなのだから。彼女を失ったら意味がない。
しかし――……。
乙彦は残る妖力をかき集め、体の修復にすべてつぎ込んだ。何としてでも回復し、小姫のもとに戻らなければならないと念じて。