24.
いろんなことがありすぎて、何を考えたらいいかわからない。小姫が呆然としていると、弥恵を心配しているからかと思ったのか、乙彦が口を開いた。
「母上様なら、大丈夫なのです。岩の神のことですから、母上様が家に着くまでの加護は与えていると思うのです」
「……、そう、なの……?」
「ええ。だから、安心していいのです」
乙彦はきっぱりと言い切った。ずいぶんと信用しているのだと、岩の神と面識がない小姫は不思議に思う。
(だけど、それより、さっきの……)
弥恵との意味深な会話。乙彦と弥恵の間には、小姫の知らない何かがあるのか。
「……ねえ、乙彦――」
「何なのです?」
しかし、全てを飲み込んだような彼の瞳を見て、言おうとした言葉がのどに詰まった。代わりに、違う言葉がするりと通り抜けた。
「岩の神さまのこと……ずいぶん信頼してるんだね」
「……岩の神は、この村の守り神でもあったのです。それもあって、人間には、特に優しいのです。山の奥の奥に引っ込んだときも、人間を見守る役目を終えたからだと言っていたのです」
人間と関わり、生まれ、つかず離れずして歩んできた妖怪たち。彼らは、人間とは切っても切れない関係だった。人に恐れられることで人を戒め、人に親しむことで良き隣人としての絆を結ぶ。
だが、今はもう、その役目も終えた。正体のわからない、不気味であいまいな、人ではない存在。そのあいまいさを許されぬ現代では、妖怪は生きづらく、人にとって不要なものとなる。
役目を終え、忘れ去られ、静かに、妖怪たちは消えていった。まだ妖怪が健在である日無村にとっても例外ではない。岩の神もそうだ。人の住まない山奥に移動し、静かな余生を過ごしながら、ゆっくりと消えていく道を選んだ。人はもう、自分たちの力だけで、より良い未来を紡いでいけると信じて。
「……それなのに、また、村に戻ってきてくれるの?」
人間のために存在し、人間のために身を引いた守り神。そんな神を、また必要になったからといって引っ張りだす。だが、それでは、人間が一方的に利用しているだけではないか。
「……言ったのです。あのひとは、人間が好きなのですよ」
だから、それでもいいと、乙彦は言う。
それは、無償の愛のようで。乙彦が小姫に向けるまなざしにも似ていて。
「――っ」
……ふいに、恐怖が小姫を襲った。立ち眩みを起こしそうなほど強烈で、しかし、その正体がわからない。思わず乙彦の袖をつかむと、彼は怪訝そうに小姫を見た。
さっきの会話を思い出す。弥恵も青峰も、岩の神も乙彦も。そして早田も。セイの目的が小姫なら、彼らは全員、巻き込まれただけだ。
それに、乙彦は、セイの力に適わないとも言っていた。それなのに、なぜ、そんなに平然としていられるのだろう。罠かもしれないとわかっていて、迷いなく行くと言えるのだろう。
――私に任せるのです。……私が選んだことなのですから……。
(……何を、選んだっていうの? どうしてそんな、簡単に……)
小姫のために、犠牲になるとでもいうのだろうか。それなら、乙彦をこのまま行かせるわけにはいかない。
「乙彦……、あれは、どういうことなの? セイの狙いは、私なの?」
「……それは」
「だったら、やっぱり、私も行く。行くべきだと思う。もし罠なんだとしたら、私が行けば向こうの計画も狂うでしょう?」
「――ヒメ……!」
乙彦の顔が明らかに曇った。小姫の腕をつかみ、言い聞かせるように声に力を込める。
「奴が指名しているのは私一人なのです。人質がいる以上、今は従うしかないのです」
「わかってるよ、でも……!」
「問答している時間はないのです。あの娘が心配ではないのですか?」
「! それは――……」
そんなの、心配に決まっている。だが、そういう問題ではないだろう。早田だけが助かれば他はどうなってもいいということではない。
小姫の顔に苛立ちが浮かぶのを見て、乙彦は仕方なさそうに口を開いた。
「さっきは、すぐに危険が及ぶことはないと言いましたが……、人間を喰い続けていた妖怪が、長い間封印されていたのです。飢えていないはずがない……。人間の味を覚えた妖怪が、人間を前にして、それほど我慢できるとは思えないのです」
「――え……」
乙彦の言葉を反芻する。
我慢できないとなると、それは――……。
早田のことを想像して、息を飲んだ。しかし、小姫は頭をフル回転させる。
乙彦は論点をずらそうとしている。何かをごまかそうとしている。何か、はわからないが、何のためかはわかる。それが、自分には到底承諾できないことも。
「……だったら、私が説得する。私がセイを説得するよ! 私なら……、子どもの頃仲が良かった私なら、話を聞いてくれるかもしれない!」
「ヒメ」
「だって、長い間封印されていたっていうなら、十年前だって同じじゃない! だけど、セイは私のこと、食べてない! きっと、何かの誤解なんだよ。私がセイに会いに行けば、きっと解決することなのよ! ……お願い、乙彦。足手まといにはならないから――」
「――ヒメ!」
乙彦に強い口調で呼ばれ、小姫は身を震わせた。小姫が唇を噛んで黙ると、乙彦が諭すように語りかける。
「あなたを連れていくわけにはいかないのです。あなたは、妖怪について知らなさすぎる……。人間に害をなすことに、何の疑問も持たない妖怪もいるのです」
「――……」
「ヒメには以前、私たちは言葉に縛られると言いましたが……、もともと、騙し、欺く性質を持った妖怪もいるのですよ」
人の恐れや願望、言い伝えなどから生まれることもある妖怪は、実体が不安定な分、概念や言葉に縛られる。人間が使っていた物体や、猫やキツネなどの動物が妖怪化したものと違い、乙彦も「水辺に棲む化け物がいる」という言い伝えから生まれた妖怪だ。
それゆえに、乙彦は言葉に縛られる。言霊が力を持ってしまう。嘘だと認識している物事を舌に乗せることは叶わず、一度約束したことを破ることはできない。
一方、もともと「人を欺いて食らう化け物」と定義されて生まれた妖怪は、嘘をつくことができる。そのように生まれついた存在だからだ。それゆえ、罪悪感など感じない。小姫がそういう妖怪の良心まで信じているとしたら、足元をすくわれる。
小姫は反論することもできず、唇を引き結んだ。
乙彦の言っていることは、正しいのだろう。小姫は妖怪についてほとんど知らない。彼らの存在を一時期忘れていたくらいなのだ。夢の中の出来事だって、未だに自分のことだという実感が持てないでいる。
考えれば考えるほど乙彦の言葉は的を射ていて、調停者の娘であるという小姫の自負を削り取る。無力ゆえに、彼を黙って見送ることしかできないのだと、思い知らされる。
だが、それでも、譲れないものがある。
(――なんで、わかんないの……?)
口から気持ちがあふれそうになり、小姫はつばと一緒に飲み込んだ。
いつも、気づいてほしくないことばかり気づいて、気づいてほしいことには気づいてくれない。小姫は不安でたまらないのだと、なぜ気づかないのか。
乙彦がこともなげに自分を犠牲にしようとすることが不安なのだと、なぜ気づいてくれないのか。
――乙彦の、異常なまでの献身が怖い。
今までも、そうだった。乙彦は、小姫のためなら、迷うことなく自分を犠牲にする。命を投げ出す。そんな危ういことが何度もあって、小姫はそのたびに胸がつぶれるような思いをさせられた。
どうして自分を大事にしないのかと。どうしてそこまで小姫を守ろうとするのかと。それが苦しくて、悲しくて、怖くもあった。
自分の命より、小姫の無事を優先する。そんな乙彦の苛烈さが、今度こそ彼の命を奪うかもしれない。今度こそ、小姫の前から彼を永久に連れ去ってしまうかもしれない。
(そんな覚悟なら、いらないのに……)
小姫は奥歯をかみしめた。
だが、結局、小姫は乙彦に頼るしかないのだ。彼が行かなければ、早田を見捨てることになるから。小姫にはそれもできないから。
なんてわがままで、自己中心的で、偽善的で……。
だが、それがわかっても、小姫は諦めることができなかった。誰にどんな誹りを受けてもいい。乙彦が誰かの――自分の犠牲になることを、受け入れることは決してできないだろう。
大切なひとができると、こんなにもわがままになるなんて、思ってもみなかった。
「――じゃあ、せめて、約束して」
乙彦の袖をつかんで、一言一言、区切るように言った。
「絶対、無茶しないって言って。……無事に、帰って来るって言って」
「……ヒメ……」
乙彦は困ったように瞳を揺らした。
だが、それだけだ。幼子をなだめるような表情をして、小姫の頬をそうっと撫ぜる。
――違う。そうじゃない。欲しいのは、この場限りの慰めなんかじゃない。
「危なくなったら、帰ってきて……! 絶対に、自分を犠牲にしないで。いざとなったら、私のためだとか考えないで、すぐにここに戻ってきて……!」
「……それは……」
乙彦が何か考えるように視線をずらした。何か言い訳を――、この期に及んで、小姫を適当にごまかすための言葉でも考えているのか。
そう思った瞬間、目の前が大きくぶれた。
「――なんで……、なんで言ってくれないの!?」
目の前がにじんで乙彦の顔が見えなくなる。不安が……受け止めてもらえなかった不安が、とうとう爆発してしまう。
頭が熱い。目が熱い。のどが熱い。熱くて自分が何をしゃべっているか、わからない。
「いつもそうよ。むやみやたらと優しいくせに! どうでもいいときに、私の言葉を真に受けるくせに! わかってるふりして、何にもわかってない! 乙彦は、わかってほしいことは、何一つわかってくれないのよ! ……ねえ、どうして? 約束するだけだよ! 無事に帰って来るって、そう言うだけなのに……!」
乙彦が驚くばかりで頷いてくれないことに、さらに苛立ちが増す。叫べば叫ぶほど、負の感情が膨れ上がる。
事態も把握せず、自分の要求だけわめき散らすなんて、駄々っ子のようだ。そう思うのに、感情の発露は止まらない。
「私に、恩があるっていうなら……、お願い……っ!」
耐えきれず、はらはらと、涙が流れだした。こぼれ落ちたそれに、乙彦がぎくりとする。
「……な、なぜ泣くのです……!?」
わかりやすくうろたえる乙彦を見て、さらに胸が締め付けられた。きっと、お互いを大切に思っているのは同じなのに、どうしてこんなに、すれ違うのだろう。
どうしてこんなに、通じないのだろう。
そう思ったら、みるみるうちに涙のつぶが膨れ上がった。乙彦が指でこすっても、手の甲を当てても、涙はとめどなく流れ続ける。
ついには着物の袖で拭おうとしたが、それでも止まらないのを見て、乙彦が青ざめた。
「ヒメ、泣きすぎなのです。それ以上は――」
「……乙彦の……せいだよ……っ!」
涙が詰まって、うまくしゃべれない。こんなの、ただの八つ当たりだとわかっていても、苛立ちも、涙も、収まる気配がない。
もう、感情がめちゃくちゃだった。色々なことがありすぎて、なぜ泣いているのかもわからない。処理しきれない感情を涙にして、外に追い出しているのかもしれなかった。
「……私だって、泣きたくなんか、ないのに……っ。私、泣くことなんてほとんどなかったのに……っ! 乙彦のせいじゃん。乙彦が、私を泣かせるようなことばかりするから、私――……」
拭っても拭っても、指の間から涙はこぼれ、腕をつたった雫が服を濡らしていく。両手のひらを使っても受け止めきれない。泣きすぎて、頭に締め付けられるような痛みが生まれた。
「……ヒメ……」
必死に涙を拭い続ける右手を、おもむろに乙彦がつかんだ。頬を流れ、顎を伝った雫が、何者にも止められず、地面に落ちる。呆然として乙彦を見上げると、透明な瞳が小姫をまっすぐ見つめていた。
「……乙彦、離し――」
「――ですが、あの時、ヒメは私以外のことで泣いていたのです……」
「……え?」
(あの時……?)
何のことだろう。泣きすぎてぼうっとした頭は鉛が詰まったようで、過去のことを思い出そうにものろのろとしか動かない。
おそらく、最近のことではないだろう。それこそ、乙彦のせいで泣いた記憶しかない。だとしたら、それ以外……?
小学生の頃、だろうか。……いや、もっと小さかった頃なら、一人で泣いていたことは、確かにある。だが、乙彦が小姫を知ったのは、十年前――小姫が七歳の時の事故のはずだ。
いつの頃からか、小姫は泣かなくなった。泣きたくなるようなことはもちろんあったが、それでも涙は出なかった。乙彦と関わるきっかけになったあの事故の後も、泣いた覚えはなかったように思うのだが……。
小姫が過去をさらっている間にも流れ続ける涙を、乙彦がまた着物でぬぐう。
「私が原因だというのなら……、この涙は、私が止めることができるのですか……?」
「え……?」
乙彦が視線を落とした。意外に長い睫毛が瞳に影を落とし、瞼で彼の目が隠されてしまう。
それを心細く思った瞬間、乙彦が顔を上げた。まっすぐで透明な瞳に小姫が映っている。煽るような、飲み込もうとするような強い視線に射抜かれ、息が止まった。
「乙彦――……?」
名前を呼ぼうとしたら、唇に乙彦の吐息がかかり、それ以上言葉を紡ぐことができなくなった。視線が絡み合い、引き寄せられるようにして、乙彦がさらに近づいた――。
――その時、小姫の家を暴風が襲った。
ごう、という質量のある音が屋根にぶつかり、柱が軋んだ。瓦ががたつき、何か軽い物が飛んできて、屋根や壁に当たって弾き飛ばされる。ドアや窓が悲鳴のような音を立てた。
とっさに小姫に覆いかぶさった乙彦は、音がやんだのを確認すると、舌打ちをして顔を上げた。天井ではなく、それを透かして屋根の上を見ているようだった。
「……待ちきれずに、催促しに来たのですか……! まあいい。おかげで――見つけたのです!」
「――っ、乙彦……!?」
窓を開けて飛び出そうとした乙彦に追いすがる。
まだ、何も確かめていない。この背中が乙彦を見た最後になるのではないかと、言いようのない不安がのしかかる。
乙彦は振り返ると、困ったような表情を浮かべた。小姫を見下ろして両腕を背中に回すと、ぎゅっと抱き締める。
「こんなことなら……、子どもを作っておけばよかったのです」
(……、……は!?)
「そうすれば、代わりにあなたを守るように、言いつけることができたのです……」
乙彦の爆弾発言に、小姫の頭の中が真っ白になる。
「――な、なな、なに言って……っ!?」
驚きのあまり、小姫の身体が硬直した。真っ赤になって口をパクパクさせる小姫を抱く腕にもう一度力を込めると、名残惜しそうに解放する。
「……ヒメ。今は、言うことを聞いてほしいのです。……なるべく早く戻ってきますから……」
そう言い置いて、乙彦は今度こそ姿を消した。
小姫は湯気が立ちそうなほど火照った頬を抑えて、乙彦が消えた暗闇に目を凝らす。
(な、な、何を……。こ、子どもって……! 代わりにって……! ――何言ってんの!? 乙彦、絶対、何か勘違いしてる!)
だが、おかげで涙が引っ込んだ。突拍子もない思い違いだが、小姫の頭を冷やす効果があったのだろう。大暴れしていた激情が静まり、冷静さが戻ってくる。
自分のせいで乙彦が危険な目に遭うかもしれない。その不安はまだ付きまとっている。
だが……。
小姫は頬を軽くたたいた。
乙彦は戻ってくると言った。彼がそう口にしたということは、少なくとも、戻ってきてくれる気にはなったということだ。なら、今、小姫にできるのは、信じてこの家で待つことだろう。
乙彦のことも。弥恵のことも。早田や青峰のことも。小姫が巻き込んだというのなら、その重さに怖気づくのではなく、背負う覚悟を持たなければならない。
(……だったら、何か、私にもできることを……)
小姫はまず窓を閉めて鍵をかけた。乙彦がいない間に何かが入ってくるかもしれない。弥恵や青峰、乙彦が安心して帰って来られるよう、隙がないか周囲を見渡す。
(あ……)
テーブルの上に、セイからの手紙を置きっぱなしにしていた。気が動転していたせいで、よく見ていなかった気がする。わずかでもいい。何か小姫にも役に立てるような……、何かの手掛かりがないだろうか。
(ボールペンで書かれてる……。たぶん、早田さんのものよね。教科書もきっとそうだろうし。他に、何か情報とか……。早田さんが隙を見てメッセージを忍ばせてたりなんて……?)
手に取って、矯めつ眇めつ眺めてみた。しかし、特に新しい情報は得られそうにない。
「うーん……」
表だけでなく裏側からも見てみようかと、ひっくり返す。すると、その拍子にふわりとかすかな匂いが漂った。
――あ、これは……。
あまりにもあえかな、しかし、小姫の記憶を刺激する香り。
やはりこれは、早田の持ち物だった。最近はまっていたというハンドクリームの香りか、文化祭の準備で持ち運んでいた荷物の残り香か。何かの拍子で、歴史の教科書にも移ったのだろう。
……あの丘にあったのと同じ、キンモクセイの香りが。
――おい。小姫。これはなんと読むんだ? これは……、おい、聞いてるのか、小姫!
「――え……?」
突然、金色の目の少年の声と顔が、フラッシュバックした。目の前が暗転し、バランスを失って膝をつく。
「――……っ」
(――乙、彦……っ!)
声を出す余裕も、時間もなかった。小姫は急激な眠気に襲われ、崩れるように畳の上に倒れ伏した。