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妖怪村の異類婚姻譚  作者: 鍵の番人
第三章 花と香りと、特別な約束
59/81

23.

 鍵を開けて、家の中に入る。中は暗く、ひんやりとした空気が漂っていて、しばらくの間無人であったことを物語っていた。


 当然、帰っているものと思っていた弥恵たちは、まだ帰宅していないようだ。スマホで確認してみると、彼女からの連絡が一時間ほど前に入っていた。


「母上様からなのですか?」

「……うん。強風で、新幹線が止まってるんだって。木が倒れて線路を塞いでいるところとか、山肌が崩れて、土砂や岩で埋まっているところがあるって……」


 念のため、運行情報にも目を通す。それによると、まだ運転の再開には至っていないようだ。復旧には時間がかかる見込みで、運転取りやめの可能性もあると書かれている。


「……それは、今日中には戻れないかもしれないということなのですか?」

「…………」


 そうかもしれない。小姫はそれを口にすることができず、ただコクリと頷いた。


 そもそも、日無村には新幹線が通っていない。遠方へ電車で出かけたいときは、近くの町まで在来線で向かい、そこから新幹線に乗り換えることになる。バスの便も多くないし、代行バスが出るかどうかも、ネットに載っていないのでわからない。これでは、いつ帰って来られるのか、見当をつけることもできそうになかった。


「乙彦……どうしよう。これって、誰かさらわれたってことだよね……!?」


 小姫は紙きれを手に、乙彦の顔を見上げた。


 小姫を名指しにした脅迫文。タイミングからして、丘に封じられていた妖怪からの手紙に間違いはないだろう。乙彦も、この用紙から妖怪の気配を読み取ったという。急いで弥恵たちに相談しようとしたのだが、肝心の二人が村の外で足止めを喰らっているとは思わなかった。

 焦燥感が高まるにつれ、小姫の心臓が強く、早く鼓動を打ち始める。


「……ただのいたずらとは思えないのです」


 乙彦が、扇子を広げ、目を険しくした。


「うん……、いたずらじゃないと思う。これ、私たちが今使ってる教科書だし……」


 今日の授業でも使った歴史の教科書だ。破られているのは前の方のページだから、見覚えがあるし疑いようがない。


(それに、この字――、見たことがある……)


 油性ペンで殴り書きされた、小学生が習い立てで書いたような歪な文字。その特徴は、夢の中で繰り返し見たものだ。


 初めは木の枝で。やがてはシャープペンシルで。

 新しい知識を貪欲に求め、小姫よりずっと早く習得した――力強くて角ばっている、セイの文字。

 やはり、あの夢の中の少年が、丘に封印されていた妖怪なのだろうか。


 しかし、どうにも腑に落ちない。あの穏やかに笑っていた少年と、危険な妖怪の像が結びつかないのだ。


(そうだ。あの夢は、まだ途中だ……。あの夢を最後まで見れば、きっとそこに答えがある……そんな気がする)


 だが、今は夢をみている暇などない。小姫は頭を切り替えて、改めて手紙の文面を注意深く見つめた。

 手紙を素直に読むと、その妖怪は女性を人質に取っていて、彼女を助けるには乙彦が一人で学校へ行かなければならない、ということになる。


「この、女って、誰のことだろ……。誰か、行方不明になってる人がいるってこと? それに、なんで迎えに行くのが乙彦なの……?」

「さあ。それはわかりませんが……」


 乙彦はためらいながら、続けた。


「そういえば、先日、一瞬だけ、妙な視線を感じたのです。あの時は気のせいだと思ったのですが……、そうではなかったのかもしれない。――ですが、私が気配を読めないほどの遠距離から、ほんの一瞬だけだったのです。それを考えると、相手はよほど目の効く妖怪で――」


 乙彦は考えをまとめながら話しているようだったが、そこでハッとしたように小姫を見た。


「――ヒメ、昨日、ヒメと一緒に買い物をしていた娘……、今日は、どこに行ったのです?」

「……え? 昨日って、早田さんのこと?」


 どうしてここで、早田の名前が。

 嫌な予感を抱きながら、小姫は記憶を遡った。


「……早田さんなら、今日は部活に行って、そのまま帰ったと思うけど。あとで教室に来るって話だったけど、結局、来なかったから……」


 乙彦の表情がみるみる険しくなるのを見て、小姫は続きを口にすることができなくなった。


「……あの娘、まだ明るいうちに学校を出て行ったのです。自宅がどこかは知らないのですが、校門から左に曲がり、まっすぐ歩いて行くのを見たのです」

「――え……」


 小姫の顔色が変わる。

 文化祭の出し物に固執していた早田。展示に必要だと言われ、しかし、小姫は写真を撮ることができなかった場所。

 彼女が乙彦の言う通りに歩いて行ったとすると、その先は――キンモクセイの丘に通じている。


 ――女を助けたければ……。


「うそ……!」


 頭が真っ白になって、小姫はとっさに玄関から飛び出そうとした。それを、乙彦が引き留める。


「ヒメ! あなたは行かない方がいいのです!」

「だって、もしかしたら早田さんが!」

「――落ち着くのです……!」

「……っ」


 乙彦が腕を掴む力が強まり、小姫は唇を引き結んだ。心臓がバクバクと鳴っている。


 十中八九、この手紙の「女」とは早田のことだろう。封印されていた、人に害をなすという妖怪。早田は無事だろうか。なにもされてはいないだろうか。もし彼女が傷ついたり、怪我をしていたとしたら……。


「ヒメ。しっかりするのです。まだ、その娘に何かあったとは限らないのです」

「――……」


 うんともいいえとも言わない小姫を部屋の中へ連れ戻し、乙彦は手にスマホを握らせた。


「一度、母上様に相談してみるのです。何かわかるかもしれないのです」

「……乙彦……」


 乙彦に手を握られ、気づかぬうちに凍えていた手に体温が戻っていく。恐怖が少しやわらぎ、乙彦に言われた通り、まずは落ち着こうと自分に言い聞かせる。


「……そういえば、お母さんと青峰さん、どこに行ったんだろう」


 出かけるとは言っていたが、外出先は聞いていない。スマホに視線を落とす小姫に向かって、乙彦が告げた。


「……母上様は、岩の神に会いに行ったのです」

「え?」

「昨夜、急に言われたのです。岩の神の引っ越し先を教えてほしいと。おそらく、一時的にでも助力を頼みたいのでしょう。……ですが、岩の神の居場所については、私も詳しい場所は知らないのです。ただ、母上様が山の中まで尋ねて行けば、向こうから近づいてくると思うのです」

「……そう、なんだ……」

「私が行ければ良かったのですが……、少し、事情があるのです」


 乙彦がわずかに視線をそらした。だが、すぐに戻して説明を続ける。


「それに、基本的に妖怪は、あまりほかの場所に移動しようとは考えないのです。自分が生まれた土地との結びつきが強いですし、縄張りを持つ者もいるくらいなのです。それでも移動したりすると、よそ者は、その土地土地を治めている神の張っている網に引っかかってしまう。私がよその土地をうろうろしたら、そういう者たちをいたずらに刺激してしまう可能性があるのです」


 小姫はそれを聞いて考えこんだ。


「……そっか。じゃあ、逆に言えば、この村にいない方がお母さんたちも安全なんだ。セイも、他の村までお母さんたちを追っていったり、逃げたりしないってことだよね……?」

「……セイ?」


 小姫が自然に呼んだ名前に、乙彦がぴくりと眉を動かした。


「あっ……、ええと、私、キンモクセイの丘の夢をみたって言ったでしょ? その夢に出てくる男の子が、セイっていうんだ。名前がないっていうから、子どもの頃の私が付けて。触ろうとするとすり抜けちゃうから、幽霊かもしれないって思ったりしたけど。……たぶん、妖怪なんだと思う」


 その言葉に、乙彦の表情がこわばった。


「……ヒメ。その時のことを、思い出したのですか?」

「え? ううん、そうじゃないけど。あくまで夢の中の話。……でも、すごく生々しくて、実際にあったことだとすると、いろいろ符号が合うっていうか……。乙彦もやっぱり、私の記憶だと思う?」

「…………」


 乙彦の表情が、さらに険しくなった。その割に返事がなく、小姫は居心地悪げに身を縮める。


「あの、でも、途中までで、肝心なことはわからないんだ。ただ、あの丘にいた妖怪っていうと、セイのことなのかなって。でも、小学生くらいの男の子だし、そんな危険な妖怪には見えなくて。……ほんとは、全然関係ないのかも……」


 小姫が小声に込めた本音を、乙彦は見逃さなかった。


「ヒメ。妖怪は、見かけだけではわからないのです。封印された地に現れる妖怪というなら、無関係とは――」

「あ、うん、そうだよね! 関係ないわけがないよね!」


 たしなめるような口調で言われ、小姫は焦って付け加えた。


「うん、私も……わかってる。あれがもし、現実にあったことだったら……。だって、夢の中でも、あの子は丘から出られないみたいだった。だったら、やっぱり、封印されていたのはセイってことで……。大丈夫。同情とかしてるわけじゃないから」


 ただ、現時点で、セイが悪い妖怪なのだと決めつけたくないだけだ。夢の中で、セイは小姫の友達だった。一緒に本を読んで、勉強して、じゃれ合いのような喧嘩をして。あれが全部演技だったとは思いたくない。


 乙彦は何か言いかけたが、思い直したように口をつぐんだ。「……とにかく、連絡してみるのです」と小姫を促す。


「う、うん」


 小姫は言われた通り、弥恵に電話をかける。すると、すぐにつながったので、乙彦にも聞こえるよう、スピーカーに切り替えた。


「――ああ、小姫。こんなことになっちゃってごめんね。メッセージは見てくれた?」


 おっとりとした声が受話口から聞こえ、小姫はほっとして息をついた。


「うん。新幹線が運休なんでしょ? 怪我とかはしてないの?」

「ええ。それは大丈夫。でも……、乙彦くんから事情は聞いたのよね? 保険のつもりだったんだけど、完全に裏目に出ちゃったわ。まさか、こんな時に帰れなくなるなんてねえ……」


 弥恵のため息が聞こえた。自分たちが帰れなくなったことより、小姫を案じているようだった。


「でもね、岩の神さまにお会いすることはできたのよ。協力して下さるって。一足先に村に向かわれたから、そう時間はかからずに着くんじゃないかしら。でも、私たちの方は、どうかしらねえ。今、代行バスの列に並んでいるところなんだけど……。行列がすごすぎて、いつになったら順番が来るかわからないわ」


 タクシーを呼ぼうにも、車はすべて出払っていて、そちらの列も同じくらい長く伸びているということだ。


「乙彦くんにも謝らないと。結局、乙彦くんの言う通りになっちゃったわ」

「え?」


 小姫が首を傾げた横で、乙彦が口を挟む。


「いいえ。きっと、母上様が正しいのです。助けを呼びに行ってくれて、よかったのです。私の力だけでは、やはり足りなかったと思うのです」

「……そう、かしら……?」


(乙彦……?)


 何の話か、と訝った小姫に、乙彦は手紙のことを話すよう促した。納得はいかなかったが、今は細かいことにこだわっている暇はない。説明が進むにつれ、相槌をうつ弥恵の声に、緊張が走るようになった。


「――早田さんのところの高二の娘さんっていうと、沙紀ちゃんよね? ……わかったわ。お母さんに連絡して、沙紀ちゃんのこと、聞いてみる」


 そう言って、弥恵はすぐに電話を切った。

 窓から外を見ると、すでに夜の帳は落ちている。ことは一刻を争うと判断したのだろう。


 彼女からの連絡をじりじりしながら待つ。確認でき次第、折り返すと弥恵は言った。二十分ほど経った頃、スマホの着信が鳴った。


「! お母さん?」

「小姫。落ち着いて聞いてね。結論から言うと……、沙紀ちゃんは行方不明だわ」

「――っ」


(まさか……ほんとに……?)


 手から力が抜け、スマホが滑り落ちて固い音を立てた。乙彦が拾ってくれたので、震える手でもう一度スピーカーをオンにする。


 弥恵は電話を切った後、早田の母と部活の顧問に連絡を取ったのだという。結果、彼女は家に帰っておらず、顧問が部長に聞いたところ、部活にも出てこなかったことが判明した。部活仲間にはクラスの準備に出ると言い、クラスメイトには部活に出ると言っていたようだ。しかし、早田はどこにも現れていない。ホームルームを最後に、彼女を目撃した者はいない。


「沙紀ちゃんが巻き込まれた可能性は高いと思う。けど、確かなことはまだわからないわ。 むやみに不安を煽っても仕方ないから、お母さんには、沙紀ちゃんはうちで預かってるって言っておいた。明日は文化祭だし、小姫と二人で盛り上がっちゃったことにしたら、特に疑問にも思われなかったみたい。沙紀ちゃん、小姫のこと、おうちでもお話してたみたいね」

「……そう、なんだ……」


 早田が小姫のことを。

 小姫はこくりとつばを飲み込む。彼女の家族が弥恵の言葉を疑わなかったということは、きっと、彼らの中で小姫の印象は良いのだろう。


(……早田さん……)


 彼女は無事だろうか。どこにいるのだろうか。焦りで鼓動が乱れ、弥恵の声を聞き逃しそうになる。


「――それで、ご飯を食べさせてから、お宅までお送りしますって伝えたから、しばらく時間は稼げると思うけど……。なるべく早く、見つけ出したいところよね。……警察に連絡しても、犠牲が増えるだけかもしれないし」

「……犠牲? 犠牲って……」


 不穏すぎる言葉を笑い飛ばそうとして、声がこわばった。乙彦と――、電話の向こうで弥恵が何かをためらった気配が伝わってきた。


(……え? なに?)


 怪訝に思って乙彦を見やる。口火を切ったのは、弥恵の側で話を聞いていたらしい青峰だった。


「お嬢さん。その妖怪は――人を喰うんですよ」

「――えっ……?」

「! 青峰君――」

「弥恵さん。こうなった以上、お嬢さんにもはっきり伝えておくべきです。そこの河童が信用できないとは今更言いませんが、私たちは当面の間、身動きができないんですから」


 咎めるような声を出した弥恵にそう言うと、青峰は返事を待たずに話を続けた。


「お嬢さん。よく聞いてください。あのキンモクセイの丘に封印されていたのは、極めて危険な妖怪なんです。まともな資料は残っていませんでしたが、昔の文献に一か所だけ、人食いの化け物に関する記述がありました。そういう言い伝えがある、というあいまいなものではありましたが……。山に迷い込んだ村人、特に、子どもを多く食らったとか」

「え……」


(――子どもを……?)


 ぞっとして、思わずスマホを凝視した。

 あの少年が、人を、子どもを、食らってきた……?


 愕然とした小姫の横で、乙彦が小さく舌打ちをする。


「……本当に、無神経な砂利なのです。この状況で、よくもそんなことが言えるのです」


 小姫ははっとして手紙を凝視する。


「待って。じゃあ、早田さんは――!」

「ヒメ。落ち着くのです。わざわざ人質を取ったということは、すぐにどうこうするつもりはないはずなのです」


 小姫の血相を変えた声を聞き、青峰もあわてて口を挟んだ。


「そ、そうです! 私があえて妖怪のことを伝えたのは、お嬢さんに慎重になってもらうためで――」

「……っ、でも――」

「――そうね。小姫、焦らないで」


 自分も落ち着くために深呼吸したのか、深い息とともに弥恵の声が聞こえてきた。


「沙紀ちゃんはきっと大丈夫。少なくとも、あなたが家から出ない限りは」

「……?」


 小姫は眉をひそめた。自分が家を出ないことと、早田の安否が、どう関係あるというのだろう。


「どういうこと?」

「そのままの意味よ。あなたは焦らず、家でじっと大人しくしていてほしいの。だって、彼の目的はきっと――あなただから」

「え――」


(何を言って――)


 反射的に聞き返そうとして、一瞬、手紙の文面がよぎった。


 確かに、宛名は小姫になっていた。だが、文面は、乙彦が迎えに来ることを要請している。それでなぜ、目的が小姫ということになるのだろうか。


 次に、夢の内容が思い出された。しかしこれも、思い当たることはない。金色の目の少年とは仲良く遊んでいるだけで、恨まれるような出来事はなかった。


「それは……違うと思う。だって、呼び出されてるのは乙彦だし、私より早田さんと仲がいい人はいっぱいいる。なんで私あてなのかはわからないけど……。それに、封印したのがお母さんと岩の神さまなら、狙われてるのはむしろお母さんじゃ……」


 そこまで言って、小姫は困惑して口をつぐんだ。乙彦からも、電話の向こうの弥恵からも、否定の雰囲気がひしひしと伝わってきたからだ。


「……え? なに? どうして、みんな……。乙彦。乙彦も、何か知ってるの?」

「……いえ、私は――」


 乙彦が言いかけたのを、弥恵が遮った。


「小姫。あなたは、知らなくていいことだわ」

「! お母さん!」


 なぜそんなことを言うのだろう。明らかに小姫が関わっていて、今回の原因にもなっているのだと、今、口にしたばかりではないか。

 非難の響きに気づいたのか、弥恵がトーンを落として言った。


「今は、まだ、という意味よ。きっと、思い出すべきときが来るから。それまでは……。でも、これだけは覚えていて。あなたが悪いわけじゃないわ。もし思い出しても、自分を責めないでほしいの」

「……え?」

「あなたは何も悪くない。私のせいで、誤解されただけ。あんなことになるなんて思わなかった……いえ、思い至らなかった。母親失格だわ。今回のこともそう。だから、今度こそ、私が――」

「母上様」


 弥恵の声には苦渋がにじんでいた。口をはさむこともできずにただ聞いていると、隣で乙彦が強い声で、たしなめるように言った。


「あなたこそ、考えすぎなのです。あなたは、やるべきことをやっただけなのでしょう?」

「……乙彦?」


 驚いて乙彦を見ると、真剣な顔でスマホを見つめている。


「自分を責めすぎているのはあなたもなのです。それは、あなたのためにも、ヒメのためにもならないのです」


(何の話を、しているの?)


 小姫にはわからない。わからないまま、話は三人の間で進んでいく。


「……そ、そうですよ! って、こいつと同じことを考えているわけではありませんが、弥恵さんが母親失格なんて、そんなことあるはずがありません!」


 青峰も加勢すると、やがて、「……そうね」と弥恵の声がした。


「ありがとう、二人とも。……今は、そんなことを言っている場合じゃなかったわ。小姫、とにかく、何としてでも今日中に村に帰るから。私たちが家に着くまで、大人しく待っていて」


 急に名前を呼ばれて、呆然としていた小姫は我に返った。


「え、で、でも、早田さんは――」

「それは私に任せるのです。手紙にも、そう書いてあるのです」


 乙彦に迷いはなかった。そのことにむしろ、弥恵が戸惑った声を出す。


「……わかっていると思うけど、それはあなたをおびき出す罠かもしれないわ。巻き込んでしまった私が言っていいことじゃないけど、安易に従うのは――」

「ですが、それしかないのです。こちらに選択肢はないのですよ」

「…………」

「それに、巻き込まれたわけではないのです。あなたは気にしすぎなのです。これは、私が選んだことなのですから……」


 乙彦は笑ったようだった。先ほどからずっと、何のことを話しているのだろう。小姫は、不安を湛えた瞳で乙彦を見上げる。


「それに、わかっているのです。私は、時間を稼げばいいのでしょう? ひこばえは、今日中に届きそうなのですか?」

「あ、ああ、そうだったわ。さっき、神社の出仕の方と連絡がついたのよ。新幹線が止まっているから遅れてるけど、こっちに向かっている途中だって。向こうはバスや鉄道を乗り継いで、なんとか来られそうみたい。もし途中で合流できそうなら、ひこばえを受け取ってから帰ると思う。状況を見て判断することになりそうだけど」

「了解なのです。母上様も、気を付けて」

「ええ。一応、警察や消防団にもそれとなく注意を促しておくわ」

「お母さん……」


 小姫はそう呼びかけてみたが、何を言いたいのかわからず、次が続かない。弥恵が少し待ってから、声をやわらげてそれに答えた。


「――小姫。……また、後でね」


 それを最後に、通話が切れた。

 家の中が急に広くなったような錯覚に陥る。


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