21.
しかし、小姫の嫌な予感は的中した。
「――え、早田さん、今日休み?」
クラスの準備が始まっても早田の姿がないことに気づき、近くにいたクラスメイトに尋ねると、そんな答えが返ってきた。彼女からの伝言を預かっていたらしく、作業の手を止めないまま伝えてくれる。
「うん。今日は部活の方に行くって。あんまり顔出せてなくて、準備が遅れてるらしいよ」
そういう小姫のクラスも、本番を明日に迎えて、てんやわんやの状態である。土壇場で作業を増やしてしまい、先行きが不透明な班もある。特にほたる橋チームは、暗幕に電球を飾って夜の情景を演出しようとし、それならば告白の舞台も作ろうと調子に乗ったせいで、未だに半分くらいしかできていない。
だが、クラスの準備に参加してくれる人数も増えた。目処のついた班から人手を借りたり、家でできる作業は持ち帰ったりして、みんな協力して明日に間に合わせようと必死である。実行委員の二人も例外ではない。みんなに片っ端から声をかけ、手が足りないところに入ったりしている。小姫も全体の進行をチェックしながら、あとで各班を手伝って回ろうと考えている最中だった。
(そっか……。やっぱり、キンモクセイの丘の展示がなくなって、やる気がなくなっちゃったんだ……)
危惧していたことが、現実になってしまった。こんなことさえなければ、小姫だって、早田の展示は楽しみだったというのに。
昨日、早田に伝えた後、クラスのみんなにも正式に発表した。今朝は担任からも、丘には近づかないようにと重ねて通達があった。
クラス内からは特に反対意見は出なかったが、数人の女子が早田を気遣う様子が見て取れた。早田は平気なふりをしていたが、それが本心ではないことなど、友人たちにはお見通しだったに違いない。彼女が教室にいないのがその表れだと、暗に責められている心地だった。
「……えっと、でも、いったんは戻ってくるの? 最後の方だけ身に来るとか?」
「え? ……どうして?」
「あそこの荷物、置きっぱなしだから」
キンモクセイの丘を展示する予定だったスペースには、早田が準備した道具や看板がそのまま残されている。彼女が片付けるだろうと思っていたが、いないのなら仕方がない。心苦しいが、こちらで撤去するしかないだろう。
しかし、小姫がそこに向かおうとすると、その子が困った顔をして引き留めた。
「あ、それは……、いいの、そのままで」
「え?」
「沙紀も、そこに置いといてって言ってたし」
「……?」
小姫は眉を顰めた。
それはどういう意味だろう。帰りに片付けるということか。
だが、今、片付けなければ、明日の本番はここに何もない空間ができてしまう。スペースを広げたいと要望している班もあるし、物置にしておくわけにはいかないのだ。
小姫の疑念を感じたのか、しぶしぶその子が口を開いた。
「……ほら、問題の場所が立ち入り禁止になったって、展示には関係ないじゃん」
「え?」
「だって、紹介するだけだし。こういう場所もありますって言うだけ。だから、展示までやめる必要ないんじゃないかって。……沙紀も、後で来るって言ってたし」
「! それはだめだよ!」
思いがけず大声になってしまい、教室にいた生徒たちの視線が集中した。小姫は慌ててみんなに何でもないと告げてから、彼女に向き直る。
「大声出してごめん。でも、やっぱりそれは良くないと思う。昨日も説明したけど、紹介したら行ってみたいと思う人もいるだろうし、それでその人が実際そこに行ってしまって怪我でもしたら、うちのクラスの責任になるかもしれない」
こんな面白いところがありますよ、でも今は立ち入り禁止ですよ、と紹介し、みんなが素直に従ってくれるなら問題はない。だが、そういう人ばかりではないのが、現実なのだ。
しかし、彼女はそんな懸念に異を唱えた。
「それさ、大げさだと思うんだ。写真見た人が、実際行くとは限らないじゃん。それに、もし行ったとしても、それでなんで、うちらの責任になるの? 禁止されてるんだから、それでも行ったらその人の責任でしょ?」
「でも、行きたくなるよう仕向けておいて、あとは全部自己責任ですなんて言っても、理解は得られないんじゃないかな。どっちにしても、一度クラスで決まったことだし、私たちとしても、丘の展示は認められないよ」
「――っ」
彼女は口を引き結ぶと、鋭い目つきで小姫を睨んだ。それから、無言で作業に戻る。
(……納得は、してくれてないよね……?)
だが、不満があったとしても、今は飲み込んでもらうしかない。危険な妖怪が長い間封印されていた場所なのだ。実際、小姫も幻覚を見て倒れている。誰も危険な目には遭ってほしくないから、心を鬼にして、だめなものはだめと言うしかない。
しかし、嫌々でも了承してくれたのかと思いきや、彼女は小姫から目をそらし、「あーあ」と大声を出した。
「やっぱり、日浦さんはえらいよねえ。村長の娘だけあるわー」
「え……」
「無い責任まで探して背負おうとするなんて、責任感が強くてあられますこと。でも、だったら、一人で全責任を背負えばいいのに」
きこえよがしな言い方だった。小姫ではなく、その後ろにいる皆に言いつけるような、皮肉げで意地悪な口調。
一瞬、教室内は何事かと静まり返ったものの、彼女の意図を察した生徒が、後に続いた。
「あー……、だよなあ。だって、学級委員だもんな? ……知ってるか? 学級委員って、ママの言いつけを守る、いい子ちゃんしかなれないんだぜ?」
「おいおい、やめろって。お母さんに告げ口されちゃうだろ? どうすんだよ、そんな反抗的なクラス、排除してやる! なんて思われて、うちのクラスだけ参加できなくなっちゃったら」
「うわー、それって、モンスターペアレントってやつじゃん? 最悪! 責任感あるなら、とっとと辞めた方がいいんじゃない?」
歪んだ笑みを浮かべて、厭味ったらしく笑い合う。
小姫は頭が真っ白になり、呆然と立ち尽くした。が、笑い声が広がって行くにつれ、ゆっくりと理解していった。
(……違う。反対意見がなかったんじゃない……、反感は、買ってたんだ……)
小姫の知らない裏側で、不満はくすぶっていたのだろう。それが、さっきの一言で火が付いた。
何が悪かったのか。小姫の言い方か。説明した内容か。それとも、早田が影で悪口を言っていたのか。
……いや、早田はそんな人ではない。おそらくこれは、八つ当たりだ。何がいいとか悪いとかではなく、ただ、不満をぶつけたかっただけ。その対象として、小姫がちょうどよかったのだ。
悪口は収まらない。あてつけがましい罵声は減ったものの、ひそひそという陰口と笑い声は止む気配がない。実行委員の二人が目の端に見えたが、状況を掴めなくておろおろしているようだ。
「おーい、そこ! もし手ぇ空いてるなら手伝ってくれない? こっち、スペースが足りなくてさ、もっと広い場所に移動させたいんだ」
その時、小姫が凍り付いているのを見かねたのか、五月がひときわ大きい声を出して注意を引いた。ぎすぎすした空気にピリッと電気が走り、一瞬、室内が静まり返った。
「――え? あ、あー、そうだったよな。明日まで時間、ないんだっけ。どれ、どこだよ、手伝うよ!」
「お、おお。俺も手ぇ空いてるぜ」
五月の発言を機に、文化祭前夜の熱気が一気に戻ってくる。悪口に加わらなかったクラスメイト達も、ほっと息をついて、ぎこちなく手を動かし始めた。
「で? 五月んとこは、どこまで進んでるんだ?」
「あー、まだここの途中。でも、このくらいの大きさになる予定だから、移動したくてさ。人も乗れるやつって思ったら、本格的になっちゃって」
「あはは、マジすぎ! こんなでかいの、どこに置くんだよ!」
「本番、明日だぜ。もっと計画的に考えろって」
(……五月くん……)
まるで何事もなかったかのように、時間が流れ出した。五月のおかげで険悪な雰囲気が解け、和気あいあいとした空気が戻っている。
「…………」
しかし、小姫は唇をかみしめ、金縛りにあったかのように動けない。背後から聞こえてくるにぎやかな声との間に、分厚い壁があるように感じた。
「……日浦さん。悪いんだけど、ここのスペース、うちで借りるね。早田さんには俺から頼んでおくから」
そんな小姫に、五月が明るく話しかけてくる。
「あと、古鏡湖の班も確認した方がいいんじゃないかな。俺が言うのもなんだけどさ、ちょっと進み方が遅い気がするよ。こっちはなんとかするから、日浦さんは、向こうの方、手伝ってあげたら?」
「あ……、うん。ありがとう……」
五月の優しさがつらい。助けてくれた礼を言った時も、目を見ることができなかった。彼の表情を確認することもなく、小姫は逃げるように古鏡湖のグループへ混ざった。
「あの……、明日まで、間に合いそう? どこか、手伝えるところあるかな?」
「あっ……、日浦さん」
返事をした生徒は気まずげな顔をしたものの、おずおずと説明してくれた。
「えっと……、実は、文章の方しか進んでなくて。写真がまだ全然手つかずで……」
古鏡湖の班がやろうとしているのは、湖の写真をポスターのようにして張り出すというもののようだ。写真を拡大分割して印刷し、古鏡湖の美しさを前面に押し出す作戦らしい。
小姫はもくもくと作業を続けた。しばらくはぎくしゃくした雰囲気が残っていたが、小姫が気にしないそぶりを貫いたため、それも徐々に消えていった。
そうして、すべての班が一応合格点を出せるレベルまで仕上げたところで、下校時刻となった。