12.
時間はかかったが、乙彦を何とか引っぺがし、これまでの経緯を聞き出した。どうやら小姫は、二時間ほど意識を失っていたらしい。乙彦がキンモクセイの丘から家まで小姫を運び、弥恵に頼んで家の中に入れてもらった上、居間に布団を敷いて寝かせてくれたのだという。
「あ、ありがとう、乙彦……」
そこまでしてくれたのに、つねったりして悪かった。遅ればせながら礼を言うと、横から弥恵が口を挟んだ。
「あら、私も、心配してなかったわけじゃないのよ? ――ただ、あれね、自分より慌てている人がいると、逆に落ち着いちゃうっていうの、本当ね。乙彦君が身も世もないほど狼狽えていたから、逆に冷静になっちゃったのよ。ちゃんと呼吸もしてたし、怪我もしてなかったようだしね」
言い訳がましい言葉だったが、それが本心だろうことはわかっている。弥恵からの愛情はちゃんと感じているし、彼女の言う通り、乙彦の慌てぶりは小姫の想像を超えていたからだ。
なにしろ、目が覚めてからずっと、やたらと小姫に触れたがり、隙あらば抱き寄せようとする。これも色っぽい感じがないので適当にあしらえてはいるのだが、あまりにしつこくて辟易していた。
「――もう! 本当に大丈夫だから!」
「ですが、急に起き上がっては危ないのです。もう少し横になるか、私に寄りかかった方がいいのでは」
「結構です。遠慮しとく」
「いつもより、体温が高い気がするのです。熱があるかもしれないのです」
「たぶんそれ、あんたがしつこくていらいらしてるから」
「目も、半開きなのです。まだ体がだるいのでしょう?」
「――これはっ、乙彦が心配性すぎて呆れてるの!」
一部始終を弥恵に見られているのは、相当に恥ずかしい。たまりかねて、とうとう乙彦の手を振り払った。
「もうっ、いい加減にして! 話が全然進まないでしょ!?」
乙彦は振り払われた手を名残惜し気に見つめ、意気消沈した様子でため息をついた。
「……ですが……、本当に、驚いたのです。心臓が止まるかと思ったのです」
「――妖怪に心臓ってあるもんなの?」
「……そんな憎まれ口がきけるくらいならだいぶ回復したとは思うのですが……、やはり心配なのです」
切なげに見つめられ、小姫は違った意味でくらくらしてしまう。心臓に悪いのはそっちの方だ。
それでも本当に、目が覚めてからは体のどこにも不調はなく、むしろ、疲れが取れてすっきりしている。倒れた原因は不明だが、それ以降は、ただ眠っていただけなのだろう。
「本当に、もう大丈夫だから。……それより、あの時、変じゃなかった? あそこに生えていたキンモクセイの木って、花は咲いてなかったわよね? それなのに、私、急にキンモクセイの花が見えて、香りも漂ってきて――、それで、いつの間にか倒れちゃったみたいなんだけど。乙彦はどうだった?」
聞かれて、乙彦は思案気に視線を落とす。
「……ええ。確かに、花の幻は見たのです。ただ、ヒメが倒れたのでそちらに気を取られているうちに、気が付いたら消えていたのです。……ところで、ヒメは、あの場所があることを、以前から知っていたのですか?」
「え?」
一瞬、どういう意味かと訝しく思ったが、言われてみれば、最近までキンモクセイの丘が意識に上ったことはないかもしれない。今回、クラスメイトからの提案で、「そういえばそんな場所があったかも」とうっすら思ったが、それ以前に丘の話を聞いたことがあるかというと、具体的には思い出せないのだ。
大体、一年中キンモクセイが咲いているなんて不思議な場所があれば、今までに一度くらいは見に行ったはずだ。しかも、今日、行ってみてわかったのだが、小姫の家の向かいにある森が、そのキンモクセイの丘の裏側にあたるのだ。川を渡り、土手から斜面を登って行けば、十分もかからずたどり着ける。それなのに近寄ったことさえないというのは、いかにも不自然に思えた。
「どうだろう……。さっきまでは、知ってたつもりだったんだけど……」
「……そうなのですか」
乙彦は、珍しく真剣な表情をした。
「あそこは、何か、不思議な感覚がするのです。それに、昔、聞いたことがあるような気がするのです。確か、悪しきものが封印されている、というような……」
「――悪しきもの?」
思いがけない言葉を聞いて、小姫は眉をひそめた。
妖怪の中には、悪さをする者もいたという。しかし、長い時を経て、そういう類の妖怪は退治されたり、追い払われたりして、随分前にいなくなったと聞いていた。
だからこそ、幼い頃の小姫が自由に外を出歩いても許された。一人で勝手に妖怪たちと交流しても、妨げられることはなかったのだ。
(……あれ? そういえば私、子どもの頃、結構、妖怪と遊んでいたような……。妖怪がその辺にいるのが、普通だと思っていた気がする……)
むしろ、クラスメイトと遊ぶより、妖怪と触れ合った時間の方が多かったかもしれない。だが、そう考えるとつじつまが合わない。
小姫は、つい最近――乙彦と会うまで、妖怪なんてほとんど見たことがなかった。弥恵の調停者としての仕事にも関心が薄く、自分には関係がないとも思っていた。しかし今、改めて思い返してみると、あの頃の小姫は、妖怪にも親しみを感じていたし、調停者を継ぐのも自分だと思っていた気がする。
(……いつから? いつから、変わったんだろう……)
認識に、あまりにも大きな乖離がある。こんなに記憶に隔たりがあるのなら、何か転機となるきっかけがあったに違いない。だが、どんなに記憶をさらっても、そんな出来事があったという覚えはない。子どもの頃のことを具体的に思い出したことさえ、随分と久しぶりだった。
それは不気味で……小姫は思わず、自分で自分を抱きしめた。
「――ヒメ? どうかしたのです?」
「えっ? ……あ、ごめん、何でもない」
ぎこちなく笑ってごまかしたが、乙彦の訝しげな視線がまとわりついて離れない。
「やっぱりどこか、具合が悪いのでは――」
乙彦がまたにじり寄って来そうになり、小姫は慌てて否定した。
「ち、違うってば! ただちょっと……そう! さっき見た夢のことを思い出して」
「夢、なのですか?」
怪訝そうな顔をされてひるんだが、今さら言わなかったことにはできない。小姫は仕方なく夢の内容を説明する。
「そ、そうなの。あまりよく覚えてないんだけど、夢にしては、随分鮮明だった気がして……。……確か、私が小学生くらいで……、学校へ行って、帰ってきて。そういう、単なる日常みたいな夢なんだけど、でも、なんか引っかかるっていうか。――あ! そっか、キンモクセイが出て来たんだ! それと……男の子。きれいな金色の目をしてて――」
そこまで話したとき、弥恵が突然、割り込んできた。
「小姫、もしかして……、思い出したの……!?」
緊張か、恐れか。弥恵の声は無視できない深刻な何かをはらんでいた。
いつものほほんとしている母にはあまりに似つかわしくないそれに、小姫は思わず彼女の顔を凝視する。弥恵は鬼気迫る表情をしていた。小姫の腕が消えたときさえ、そんな顔を見せたことはない。
「お母さん? 思い出したって……」
――夢のこと?
彼女の変化に戸惑いつつ、無意識に記憶を深く探ろうとして――、その時、頭の奥が鋭く痛んだ。
「痛……っ」
「! ヒメ……!?」
今まで感じたことのない激しい頭痛にふらつくと、乙彦がとっさに手を伸ばして抱き寄せてくれた。視界がぶれるほどの痛みに意識が支配され、乙彦に抱え込まれたことに動揺する余裕もない。
(なん……で……? ただ、夢を思い出そうとした、だけなのに……)
小姫が目覚めてから、そう時間は経っていない。夢の断片を追っていけば、内容を拾い上げるのは難しくなさそうだった。それなのに、いざ思い出そうとすると、鋭い痛みが邪魔をする。頭の中でキンモクセイの字面を追うことすら、許されない。
「……小姫。もう、やめなさい。無理に思い出そうとするのは良くないわ」
痛みを覚えながら続けようとする小姫を、弥恵がやんわりとたしなめる。乙彦もそれに賛同するように、小姫を抱える腕に力を込めた。仕方なく小姫が諦めると、痛みが嘘のように引いていった。
「ヒメ……」
「……ごめん。ありがとう。もう大丈夫みたい」
痛みは治まったが、それによる疲労で体がだるい。のろのろと乙彦の腕から抜け出して、小姫は弥恵に向き直った。
「――ねえ、お母さん。何か知ってるんでしょ? この夢が、どうしたの? ……知ってるんなら、私にも教えて」
弥恵の顔から心配の色は抜けていなかったが、小姫の真剣な目を見て、ため息をついた。
「そうね。……でも、その前に、一つ確認させてほしいの。丘で見たキンモクセイの花……、全部咲いていたか覚えてる?」
「え……?」
「さっき、乙彦くんには聞いたんだけど、あんまり覚えてないんだって」
「……ヒメのことで、それどころではなかったのです」
乙彦はばつが悪そうな口調だった。だが、倒れて介抱してもらった手前、小姫に責めることはできないし、もともとそのつもりもない。
「うーん……、でも、私もはっきりとは……、それらしい木は、全部咲いてたと思うけど……」
「……そう。なら、すぐにどうこうってわけじゃないかもしれないわね……。まあ、一応、明日、青峰くんと確認してくるわ」
弥恵は一度言葉を切ると、意を決したように小姫に向き直った。
「実はね、あの丘には、乙彦くんの言う通り、人に害をなす妖怪を封印してあるの。封印の効力には妖怪を閉じ込める以外にもう一つあって、普通の人には認識もできないし、立ち入ることもできないようになってるわ。あなたが今まで認識できなかったのはそれのせいね。でも今日、あなたには丘も見えたし、中に入ることもできた……、ということは、封印が綻びかけているのかも」
「……綻び……?」
「ええ。以前にも一度あったのよ。その時は、岩の神さまに協力していただいたの。丘の様子は春にも確認したんだけど、その時には異常はなかったわ。もしかしたら、岩の神さまが土地を離れたことが、影響しているのかもしれないわね」
「――ああ、なるほど。見知った気配だと思ったのです」
乙彦が腑に落ちたようにつぶやいた。
「? そうなの?」
「ええ。いろいろな気配が複雑に混じり合っていたのですが、その中に一つ、馴染みのある気配があったのです」
(岩の神さまって、そういえば、乙彦の友達なんだっけ……?)
過去に、そんなようなことを聞いた記憶がある。弥恵とも関わりがあるとは知らなかった。長らく村の守り神をしていたが、今は神の座を降りて、日無村をも出て行ってしまったと聞く。
「返す返すも残念だけど、愚痴っていても仕方ないわね。あの方にも事情がおありなんだろうし。とにかく、今日はもう遅いから、できるのは連絡網を回すことくらいかしら。当分、立ち入り禁止にでもして、誰も入れないようにしておかないと。まあ、あの辺りは普段から人通りも少ないし、夜になれば道があることすら気づかれないから、用があってわざわざ行く人がいない限り、大丈夫だと思うけど。ああ、もちろん、小姫も近づいちゃだめよ。わかってると思うけど」
「えっ、それって――」
(文化祭の出し物には使えないってこと?)
当然、そういうことになるだろう。誰も近づかないようにと釘を刺されておきながら、観光地だと紹介するなんてもってのほかである。
しかし、キンモクセイの丘の展示を楽しみにしているという早田の顔が浮かんで、小姫はつばを飲み込んだ。展示が中止になれば、彼女はきっと悲しむ。あの明るいはつらつとした笑顔が曇るのを想像し、胸が痛んだ。
「……そう、だよね……、わかった」
せめて、あまりショックを受けないよう、うまく伝えられればいいのだが。
小姫は小さく首を縦に振った。
「それと、小姫、さっき見たっていう夢のことなんだけど……。その内容を思い出そうとすると、頭痛がするのよね?」
「え? あ……うん」
「だったら、無理に思い出そうとしない方がいいわ。心に負担がかかるから、体が拒絶しているのかも。十年前の事故のことも、思い出せていないでしょう? きっと、今はまだその時期じゃないんだわ」
「…………」
そう、なのだろうか。確かに、自分が命を落としかけたという交通事故の記憶は、未だ心の奥底に眠ったままだ。特に思い出す必要もないと思い、取り戻す努力もしてこなかった。
しかし、本当にそうなのだろうか。まだ、その時期じゃないから、そういう気になれないのか。思い出すべき時が来たら、自然に記憶が蘇ってくるのだろうか。
弥恵の顔と、乙彦の顔とを交互に見る。小姫が記憶をなくしたままなのをどう思っているのか、彼らの表情からは読み取れなかった。あの事故は、乙彦にとっても重要な出来事だったはずで、その原因である小姫が何も覚えていないことを、まったく気にしていないとは思えない。
それに、あの夢。随分と生々しく、かなり現実味を帯びていた。昼間の丘の様子なんて一度も見たことがないはずだが、想像だけで、あんなに詳細に思い浮かべられるものなのだろうか。まるで、夢と記憶とを同列に扱うような弥恵の言い方も気になった。
(……もしかして、ただの夢じゃ、ないのかもしれない……)
弥恵もまだ、何かを隠している気がする。それが何なのか、何のためかはわからないが……。
黙ってしまった小姫を気遣ったのか、弥恵が、優しく肩をなでた。
「小姫。色々あって、疲れたでしょう? 今日は早めにおやすみなさい。……乙彦くん。もう少し、ついててもらえる? 私はいろいろとすることがあるから」
「――えっ」
「お安い御用なのです」
「いや、いらないんだけど……っ?」
二つ返事で請け負った乙彦を、小姫は全力で返品しようとした。だが、抵抗むなしく、居間には乙彦と小姫だけが取り残される。小姫は弥恵を追って台所へ行こうとしたが、乙彦に布団の中へと押し戻されてしまった。
「ヒメ。母上様の言う通りなのです。今日はゆっくり休むのです」
「で、でも……」
「眠るのです」
乙彦の手が伸びてきて、小姫は思わず目を瞑る。冷たい手のひらが額に当てられ、頭痛の名残がすうっと引いた。幼子のように寝かしつけられているようで恥ずかしかったが、一度目を瞑れば、不思議なことに、再び眠気が襲ってきた。
(眠い……。……でも、ちゃんと寝るなら自分の部屋で……、あ、ダメだ、部屋に行ったら、もれなく乙彦が付いてくるから……)
額のひんやりとした感触が気持ちいい。悔しいが、このまま睡魔に身をゆだねてしまいたくなった。
(……乙彦の前で、寝るなんて……。寝顔、見られたくない……。っていっても、もう何度も見られてるけど……)
今さら、なんて思いたくなくて、小姫はウトウトしながら、キンモクセイの丘に想いを馳せた。
広場を取り囲むように植えられたキンモクセイの木。咲き誇った幻の黄色い花たち。むせかえるような強烈な香り。
――キンモクセイの花、全部咲いていたか覚えてる?
(……あれ? そういえば、言い伝えって、何本だっけ……?)
眠気のせいで、思考が鈍い。黒板に書いてあった文章を思い出そうとしたが、像がうねうねと曲がって文字の形が定まらない。
倒れる前に、視界に入っていた木が全部咲いていたのは覚えている。あれは……、一、二……、何本だったか。
果たして、キンモクセイはあれで全部だったのだろうか。小姫が背にしていたあの木……、あれは何の木で、花は咲いていたのだろうか。
疑問が泡のようにふつふつと生まれ、また音もなく消えていく。
――ああ、明日、学校で確認しないと……。
そう思ったのを最後に、小姫は眠りの中へ沈んでいった。




