9.
いつも右に曲がる十字路をまっすぐ進み、少し行ったところから右の脇道に入る。そのまましばらく進むと、やがて、木がまばらに生えた一角が見えてきた。伐採されたわけでもないのに中央部分がぽっかり開いているそこが、目指すキンモクセイの丘である。
その間、ずっと乙彦と手をつないでいたせいで、小姫は疲労困憊だった。日も完全に落ちて、気温は下がっていく一方だというのに、全身から湯気が出ていてもおかしくないほど体が熱い。
「? どうしたのです、ヒメ?」
「な、なんでも……、じゃなくて、ちょっと疲れただけ……」
他方、乙彦は平然としていて、意識の意の字も見当たらない。機嫌が直ったようなのは良かったが、久しぶりに触れるのが嬉しいらしく、幾度となくつないでいる手に視線を送り、力を込めたり指の組み合わせ方を変えたりして、小姫を何度も翻弄した。それはもう首を絞めて「やめろ」と言いたいくらいだった。
近くの木に寄りかかって休みながら、全体を見渡す。言い伝えによると、森の中央にできた空間を取り囲むように、七本のキンモクセイが生えているはずだ。
しかし、まだ時期には早いのか、花が咲いていなくて他の木と判別がつかない。暗くてよく見えないというのもある。どうやら、一年中花が咲いているという言い伝えは、眉唾だったようだ。
(こうなると、展示に使うのは難しいかも……。でも、そういう言い伝えがあるってことだけ、紹介する手もあるか……)
少し期待していただけに残念だった。しかし、妖怪の仕業とかではなかっただけでも良かったのかもしれない。
とりあえず、キンモクセイはどの木なのか、そして、花が咲きそうかどうか、見てみようと体を起こす。と、乙彦が近づいてきて頬に触れた。
疲れたと言ったから、顔色を確認しているのだろう。心配そうな顔が近づいてくる――のが、ものすごく心臓に悪い。この近さは、今の小姫にとって毒でしかない。
「ちょ……、ち、近い! 大丈夫だから、もう少し離れて!」
「離れるなと言ったのです」
「あああ、そうだった! そうだったけど!」
静まっていた心臓が、また激しく鼓動を打ち始めた。顔どころか、耳まで熱い。せめてこの暗さが、顔の赤さを乙彦から隠してくれると良いのだが。
薄闇の中で見る乙彦の顔ははかなげで、気を抜くと意識を全部持って行かれそうだ。理性を総動員して乙彦の手を外そうと試みる。
その時、山からふわりと風が吹いた。それに乗って、爽やかな芳香が運ばれてくる。
鼻から抜けて脳を直接刺激するような、強くて甘い、柑橘系の香り。秋を代表する鮮やかな山吹色の花が、頭の中で像を結んだ。
(――え……?)
まだ、花は咲いていなかったはずなのに。
薄闇の中に目を凝らす。すぐ近くにあったキンモクセイの木にも、ほころびそうなつぼみさえ見当たらない。
しかし、その香りがしたのをきっかけに、キンモクセイは枝の先から順に花を開かせていった。それは他のキンモクセイも同様で、小さなオレンジ色があっという間に樹冠を埋め尽くす。満開の花はそれぞれ芳香を発し、広場はむせ返るような香気に包まれた。
「――っ、乙彦、これ――」
「やはり、妖怪なのです……!?」
乙彦がかばうように小姫を引き寄せる。素早く周囲に視線を走らせるが、それ以上何かが起こる気配はない。
だが、そんな中、小姫は聞いた。
どこか遠くで叫ぶ、子どものような声を。
――絶対に、忘れない……!
――お前も、忘れるな。いつか必ず、この報いを受けさせてやる……!
「え……」
小姫は呆然と立ちすくんだ。
(――誰? 私……、この声を、知っている……?)
思い出そうとした途端、頭の中に白い幕が降りてきた。霧を凝縮したような、重く、圧迫感のある鈍重な膜。
視界を塗りつぶし、耳を塞いで、記憶の中の声を遠ざけていく。代わりに、違う声が聞こえた。
――今は忘れて、眠るのだ。
――時が来るまで。……思い出すべき時が来るまで。
「――……」
落ち着いた女性の声が聞こえたのを最後に、小姫は意識を手放した。