6.
「……あの時の、砂利なのです」
校門に背を預けてスマホをいじっていた五月の耳に、憎々し気な声が届いた。ふと顔を上げると、着物を着た長身の男性が、扇子で口元を隠したまま彼を見つめている。
「? えっと……、保護者の方ですか?」
「ここで何をしているのです?」
生徒の父兄かという五月の質問には答えず、彼は問いをかぶせてきた。五月は気にした様子もなく、壁から背を離してスマホをしまう。
「俺ですか? 俺は、クラスメイトを待ってるんです。今、文化祭の準備で、いつもより遅くまで居残りができるんですけど、もう暗いから、途中まで送って行こうかと思って」
「……クラスメイト」
「その人、ちょっと離れたところに住んでるらしくて。うちのクラス委員で、女の子なんで」
それを聞くと、青年の眉がピクリと上がった。不機嫌さを隠そうともせず、扇子の裏から低い声を出す。
「その必要はないのです。それは私に任せて、砂利は砂利らしく、邪魔にならないよう道の隅っこにでも避けていればいいのです」
「え? 砂利? 邪魔……、道路の話ですか? ここ、コンクリートだと思うんですけど……」
青年の言葉を額面通りに受け取って、五月は地面に視線を落とす。それを見て、青年の額に青筋が浮き出た。おもむろに扇子を畳み、五月の方へ突き付ける。
「この……っ、察しの悪い砂利が……!」
「――おっ、乙彦っっ!」
そこへ、全速力で走ってきた小姫が割り込んだ。二人の間に入って壁をつくると、五月を背にして乙彦と向かい合う。
「ちょっと、こんなところで何してるのよ!? 学校に……、まあ別に来てもいいけど、いつもだったら――」
「あ、日浦さん」
遅ればせながら小姫の姿を認めた五月が、爽やかな笑顔を浮かべた。緊迫した空気に気づかず、マイペースに話しかける。
「やっぱり、まだ帰ってなかったんだ。今日はごめんね、手伝えなくて」
「さ、五月くん……」
なぜこの一触即発な雰囲気に気づかないのか。おおらかなところは五月の美点でもあるが、せめてこの殺気には気づいてほしいと小姫は思う。
ひきつりそうになる顔を苦労して笑みの形にし、さりげなく五月の視界から乙彦を隠す。
「う、ううん。こっちのことは気にしないで。五月くんも、用事があったんでしょ?」
「うん、実は、そうなんだよね。廊下歩いてたら、突然、野球部のやつらにひっぱって行かれてさ……」
五月はどこの部活にも所属していない。が、学内の男子の中でも運動神経が優れているため、様々な運動部の助っ人要員として重宝されているらしい。男子にも女子にも感じのいい彼は、きっとどこの部からも引く手あまたなのだろう。見目もいいから、文化祭では客寄せとしても活躍しそうだ。彼を狙う部活間で、水面下での争奪戦が始まっているのだと推測できた。
「人数少ないのに、いきなり穴あけちゃったのが申し訳なくてさ。だからせめて、日浦さんを家まで送っていこうかと思って待ってたんだ」
「――えっ……?」
五月の照れを含んだ言葉に、小姫は背筋が凍るような思いをした。背後に漂う殺気が膨れ上がった気配がする。
小姫がここに来るまでの間に、どんな会話が繰り広げられていたかは知らないが、乙彦が不機嫌な理由はうすうす察することができた。
(……でも、さすが五月くん)
スタイルが良くてイケメンで、爽やかで紳士的。しかも、こんな気遣いまでしてくれるとは。彼みたいな完璧な男子に家まで送るなんて言われたら、普通は天にも昇る心地になっただろう。
しかし、この場合は、その親切心はあだになる。彼と二人きりで歩いているところを、早田はもちろん、他の女子たちに見られたら嫉妬の的になるだろうし、何より、乙彦の機嫌が乱高下しているのが怖くて仕方がない。
「えっと、あの……、ありがとう。でも、私は大丈夫だから」
「え? でも、向こうの方って、あまり人気が――」
「うん、でもほんとに大丈夫! 私、この人と帰るから!」
小姫は五月に顔を向けたまま、手探りで乙彦の腕をつかんだ。乙彦が驚く気配がしたが、彼の表情を確認する勇気はない。今はとにかく、この場を乗り切らなければ。ぽかんとしている五月の顔を、祈りを込めてじっと見つめた。
(お願い、汲み取って……! わけがわからなくても、なんか訳ありなんだと、察して! だって、説明できないし!)
乙彦が生徒の前に現れるなんて想定していなかった。だから、彼を紹介するための言葉を準備していない。本当のことは言えないし、従兄弟、親戚のお兄さん、母の弟……と似たような言葉がぐるぐる回るが、どれもしっくりこない。それに、何を答えても、突っ込まれたらぼろが出そうだ。
五月は戸惑った顔で乙彦と小姫を交互に見ていたが、「ひとまず何も聞かずに帰ってほしい」という強い念が通じたのか、ぎこちない笑みを浮かべて頷いた。
「えっと、そ……、そっか。一緒に帰る人がいるなら、安心……だね? ……えっと、じゃあ、日浦さん、また明日……」
「うん、また明日!」
キツネにつままれたような表情の五月にきっぱりと別れの挨拶をし、乙彦の腕をぐいと引っ張って背中を向けた。それからはロボットのように足を動かし、生徒たちの姿がほぼなくなるころになって、ようやく小姫は緊張を解く。
乙彦の腕をほどいてから、小姫ははあ、と体の中にこもっていた空気を吐き出した。
「……なんとか、ごまかせたかな……」
「――ごまかす? ……何をなのです?」
底冷えのする声を落とされ、小姫は肩を震わせた。
そういえば、五月と別れてからここまで、乙彦の声を一度も聞いていなかった。おそるおそる顔を上げると、乙彦の冷たい視線と交差する。
「……なるほど。これを隠していたのですか」
「は? 隠す?」
「あの砂利のことなのです」
「え……」
そこで小姫は気が付いた。乙彦は何か、勘違いをしている。
「おかしいと思っていたのです。文化祭だのという嘘をついて、こっそり二人で密会を――」
「密っか――? ち、違うってば! また勘違いしてるでしょ! 隠してないし、あれはたまたま――」
「まだ未練があったのですか。これは浮気だと思うのです」
「浮気じゃない! 五月くんはただの友達! 五月くんだって言ってたでしょ。本当に、文化祭の準備して遅くなったの!」
「ただの友達なのですか。なら、ある日突然消えてしまっても、特に問題はないのです」
「あ……、あるに決まってるでしょ! 友達が急に消えたら大問題だから! っていうか、友達じゃなくても、他の人でもダメだからね!?」
小姫が五月を憎からず思っていたことを知っている乙彦は、しつこかった。結局、自宅に着くまで小姫の弁解が続いても、乙彦の機嫌が良くなることはなかったのだった。