5.
「日浦さん。これ、こっちでいいの?」
翌日の放課後、文化祭の準備が本格的に始まると、小姫は引っ張りだこになった。
クラス委員を務めている小姫は、文化祭では実行委員の補佐をすることになっている。クラス委員はもう一人いるのだが、彼は部活の出し物が忙しいと言ってそちらの準備にかかりきりだ。したがって、実質、文化祭実行委員の二人を含めた三人で、クラスを仕切ることになったのだ。
しかし、準備のために教室に残った生徒達の数も、委員たちと似たようなものだった。展示くらいなら手間はかからないだろうと誰もが思ったのか、事前に聞いていたよりも参加人数が少ない。改めて数えてみると、八人しかいなかった。日によって残ることのできる顔触れは変わる予定だが、明日になって爆発的に人数が増えるなどという期待も持てそうにない。
しかも、出し物の内容がなかなか決まらなかったせいで、肝心の展示品づくりはまったくの手つかずだった。看板を作るにしても、タイトルやレイアウトはどうするのか、誰がデザインして誰が色を塗るのか等、何も決まっていないのだ。すでに今日は火曜日。土曜までに終わらせるには、詳細を詰めるのと同時に教室の内装の作業も進めなければならない。作業内容と残り時間を考えたら気が遠くなりそうだったので、小姫はとりあえず目の前のことに集中することにした。
とはいっても、実行委員ともろくに打ち合わせができていなかい。彼らは彼らで頻繁に呼び出され、会議や打ち合わせを繰り返している。おかげで、今日も小姫は教室に一人取り残された。質問が飛び交う中、実行委員が置いて行った書類を漁っては、答えをひねり出すことに追われていた。
「日浦さん、まだ? 時間、もったいないんだけど」
「ご、ごめん、ちょっと待って……。えっと、その板が何かってことだよね。……大きさ的に入口の看板用だから……あ! あっちのグループに持って行ってくれればーー」
「ねえ、油性ペンってこれ使っていいの? っていうか、色足りなくない?」
「えっ? あ、うん、油性ペンはそれで良くて……、色は、使いたい色あったら教えて。えっと確か、委員会で借りられるとかなんとか、注意事項がどこかに……。――あっ、それはだめ! 写真を張り付けるパネルなの! タイトル書くのはあっちのにして!」
「日浦さーん。ねえ、今こっち、何してればいいのー!?」
「ご、ごめん! 分担表とスケジュールに書いてあるはずなんだけど……!」
「日浦さん、ここわからないんだけどー?」
「えっと、どこ!? 今行くから、ちょっと待って……!」
目が回る忙しさだった。しかし、忙しいのは小姫だけで、手持無沙汰な人たちがちらちらと視界に入る。
役割分担も今日の作業スケジュールもHRで説明してあるのだが、誰も把握をしていないのだろう。それくらいは自分で確認して作業に取り掛かってほしい、というのが正直なところだ。何でもかんでも聞かれても、小姫は一人しかいないのだ。しかも、しょせん手伝いでしかない。出し物の全体像を把握しているのも、細かい資料を持っているのも、実行委員の二人なのだから。
しかし、現実問題、彼らの相手をするのは小姫だった。不満そうな視線に、焦って手元が狂い、プリントを落としてしまう。すると、教室の隅で資材を取り分けていた女子がいつの間にか側に来ていて、ひょいとプリントを拾ってくれた。
「はいこれ。大丈夫? とりあえず、全部ごっちゃになってた道具とか分けてみたんだけど、あたし、今日残る予定じゃなかったからさ、この後どこに入ればいいかわからなくて。それか、どれがどれ用のなにとか書いてあるプリントあるなら、仕分けまでしようか? なんかそういう書類ある?」
「えっと……、あるはずなんだけど、ここにはないみたいだから、たぶん、実行委員が持ってると思う」
「実行委員? どこにいるの?」
「あー……、委員会でまだ帰って来てなくて」
「え……。それ、困るじゃん?」
絶句する女子生徒を見て、なぜか小姫は焦ってしまう。
「あ! でも、ひとまず必要な物だけそれぞれのグループから聞き取りして、最低限の物だけ分けてもらえば問題ないかも! 買い出しは随時行うって言ってたし、予算にもまだ余裕があるらしいから」
「え、そうなんだ……。まあ、日浦さんが言うならそれでもいいけど。でも、見たところ、一人も居残りしてないグループがあるよ?」
「……えっ?」
慌てて残っている顔ぶれと割り当て表を見比べてみると、確かに彼女の言う通りだった。質問に答えるので精いっぱいで、そこまで確認していなかった。気が付けば、残ったクラスメイト達も、作業の手を休めておしゃべりに花を咲かせている。
小姫の視線を追っていた彼女が、呆れたように言った。
「でもさ、やっぱり、日浦さんしかいないっておかしくない? ここまで仕切ってたの、実行委員でしょ。実際に作業が始まったらいなくなるんじゃ、今まで相談してた意味がないっていうか」
強い口調に、小姫は思わず身をすくめた。それを見て、彼女はばつの悪そうな表情になる。
「あー、ごめんごめん。日浦さんを責めてるわけじゃないんだ。でも、必要な資料もなくて、一番わかってるはずの実行委員もいないんじゃ、みんなどうすればいいかわからなくて困っちゃうじゃん。その様子じゃ、日浦さんだって詳しく知ってるわけじゃないんでしょ?」
「……まあ、そうなんだけど」
彼女の意見には小姫も賛同するが、しかし、実行委員の二人もさぼっているわけではない。
「実行委員は、委員全体の集まりがあるから仕方ないんだ。それが終わったら、当日の係に分かれて説明があるって。だから、結構長引いているのかも……」
おそらく、他のクラスはみんな、実行委員が仕切らずともいいところまで準備が進んでいるのだろう。小姫のクラスは、初動がだいぶ遅かったのだ。実行委員のスケジュール管理がうまくなかったとも言えるが、自分を含むクラスメイトたちのやる気のなさがその一因だったことも否めない。
それを悟ったのか、彼女は呆れた顔をしながらも黙ってしまった。が、すぐに、気を取り直したかのように両手をパチンと打ち鳴らした。
「――よし、じゃあ、ちょっとグループを再編しよう!」
「え?」
「ねえ、日浦さん。何でもいいから、今すぐに何かできる作業ってある?」
「え? えーと……。あ、入口の看板なら……」
突然の発言に戸惑ったが、彼女の言う条件に当てはまりそうなのはそれくらいだった。看板づくりなら、道具はある程度そろっているし、内容を子細に詰める必要もない。
「じゃあさ、時間もないし、みんなで先に看板だけ作ってもらわない? その間に、あたしたち二人で、パネルの基本的な構図とか文体とか考えちゃおうよ。そこさえ決めれば悩まなくて済むし、アレンジしたければ好きにしてもらえばいいでしょ?」
「え……」
「そんで、それに必要最低限な材料も機械的に割り振る。それ以上何か欲しい人は自己申告してもらう。そんな感じでどう?」
「あ……、うん。それ、いいかも」
小姫は、半ば勢いに押されたようにして頷いた。
しかし、改めて考えてみれば、彼女の提案はわかりやすくて効率的だった。小姫のクラスの出し物は展示――そして、転校生の五月がいるからという理由で、テーマは「日無村の名所」に決定した。歴史ある温泉宿や売り切れ必至の饅頭屋、村随一の花見スポットなどを取り上げ、わかりやすく紹介するパネルを設置するというものだ。
ただ、それはあくまで基本構想であって、そこからどうするかは全く決まっていない。デザイン一つとっても悩みの種だろう。面白みはなくなるが、図案や構図などを統一すれば、少なくとも迷う項目は減らすことができる。
実際、彼女の言う通りにしてみると、クラスメイト達は見違えるようにきびきび働いた。やらなければならないことがあまりにも漠然としていて、彼らも困惑していたのだろう。具体的な過程と目標が見えて、俄然やる気が出てきたようだ。
彼らの働きに目を奪われながら、小姫は隣の人物を横目で眺めた。髪を一つに結った活発そうな彼女は、バドミントン部の副部長を務めている早田という生徒だった。今まで一対一で話したことはなかったが、さばさばとした性格で感じのいい人だとは思っていた。しかし、今日は、部の活動に参加するからと、前もって連絡を受けていたはずだが。
それとなく聞いてみると、彼女は苦笑しながら頭をかいた。
「あー……、そうだね。そのつもりだったんだけど、まさかこんなに人が少ないとは思わなくてさ。自分のクラスが中途半端な出来だったら、当日受け受付してても嫌じゃん? 親とかも招待しづらいし。……あ、でも、余計なお世話しちゃってたら、ごめん」
つまり、部活に行こうとしたところ、クラスの準備にまわる生徒が少なすぎて心配になり、急遽予定を変更してくれたということか。
そんな気遣いをしてくれるクラスメイトがいるなんて。彼女の心遣いに胸を打たれこそすれ、迷惑なんて思うわけがない。
「余計なお世話だなんて、そんなこと全然ないよ。むしろ、早田さんがいてくれて、すごく助かった」
「そう? それならよかったけど。……あ、でも、少しは部の方にも顔出したいんだ。キリのいいところで抜けていい?」
「うん、もちろん。もうずいぶん助けてもらったから、こっちのことは気にしないで」
早田が肩の荷が下りたように、ほっとした顔をした。それを見て、小姫も頬を緩ませる。
早田とあれこれ相談するのは楽しかった。普段、クラスメイトに遠巻きにされている小姫には貴重な体験と言える。遠慮せず意見を言っても、早田は不快に思わず、真剣に検討してくれた。思っていた通り、気持ちのいい人物だった。
お世辞抜きで、本当に早田には助けられた。正直、小姫一人でこの事態を収拾できたとは思えない。彼女のおかげで、てんでバラバラだったクラスメイト達もまとまり、最終日までの段取りもつけることができたのである。これ以上拘束しても悪いし、あとは早田の予定を優先してほしいと思う。
「――ごめん、遅くなっちゃった!」
そのとき、ちょうど実行委員の二人が慌ただしく戻ってきた。真剣に作業をしている生徒たちを見て、信じられないような顔をして入口で固まっている。
彼らの今までの体たらくからは想像もしていなかったのだろう。二人の驚きように、小姫は苦笑した。それもこれも、早田の采配の賜物だと彼らに説明する。
改めて、小姫たち三人で早田に礼を言った。当の早田は、そのことに、くすぐったそうな、少し困ったような顔をしていた。そそくさと自分の席に戻り、片付けと帰り支度を終わらせると、教室を出て行く際に、こっそりと小姫に耳打ちをした。
「……実はあたし、クラスの準備に参加したの、五月くん目当てだったんだ。五月くんって帰宅部だから、クラスの方で参加するでしょ? 今日はなぜかいなかったけど……。そんなわけだから、あんまりお礼とかやめてね。なんかすごく、いたたまれなくなるから……」
早田は苦笑しながら続ける。
「でも、そんな感じで、これからも参加するからよろしくね。あたし、彼のファンなんだ」
彼女はそう言い残し、バタバタと廊下を駆けて行った。突然の告白に呆気にとられた小姫は、少なからず衝撃を受けて、その後姿を見送った。
部活ではなくクラスの準備を優先してくれた動機が、純粋に親切心ではなかったとは。しかもそれが、クラスメイトに対する恋心だったとは。
何より、その相手が五月だったことに驚いた。
五月とは、夏祭り以降も良好な関係を築けていると思う。彼がいつも通りにふるまってくれるため、小姫も気詰まりに思うことなく自然に接することができるのだ。あまりにできた人なので、本当にこの人が一時的にでも想いを寄せてくれたのかと、不思議に思ったくらいである。
そんな五月に、今日手伝ってくれた早田が思いを寄せている。そうなると、さすがに気まずさを感じずにはいられない。それに、なぜ、彼女はそんな思いを小姫に打ち明けたのか。今まで、ろくに話をしたこともなかったというのに。
(あれって、五月君とうまくいくように応援してってこと? ――でも、それって……)
五月が望んでいるならともかく、そうでないなら、軽々しくしてはいけないことだろう。特に、小姫がしたら、きっと五月を傷つける。
――だが、断ったら、早田は不愉快に思うだろうか。せっかく少し仲良くなれたような気がするのに、彼女に嫌われてしまうだろうか。
しかも、五月が以前、好意を寄せていたのが小姫だと知られたら……。
「日浦さん。この後の作業のことなんだけど……」
「――あ……っ。うん、今、説明する!」
実行委員に話しかけられ、小姫はハッとして物思いを打ち切った。
今は余計なことに気を取られている場合ではない。使える時間には限りがあるのだ。早田だって、今日明日中にどうこうしろということではないだろう。しばらくは積極的に行動するつもりはないから、こっそり小姫に伝えたのだと、今は理解しておく。
小姫はそう割り切って、クラスの作業に集中した。忙殺されている間にいつの間にか下校時刻を迎え、生徒たちは追い立てられるようにして校舎から出て行った。続々と校門へ向かう列の中に、もちろん小姫の姿もある。皆の後について校門を出たところで、小姫は思わず立ち止まった。
(――え? 五月くん?)
そこには渦中の人物が立っていて、帰宅する生徒たちの流れに取り残される中洲のようになっていた。
都会から転校してきただけあって、どこかあか抜けた印象のある彼は、立ち姿ですら様になる。だが、問題は、彼が対面している相手だった。ここにいてはいけない――いるはずのない、淡い青色と黄緑色の着流し姿。同色の扇子を片手に持ち、五月を傲然と見下ろしている。
男の正体に気が付いた小姫は、今度こそ心臓が止まるかと思った。
(……お、乙彦――!?)