3.
山肌を覆う木々が色づき始め、川から吹き付ける風に一筋、冷たさが混じると、なんとなく秋の訪れを感じるようになる。山や森の多い日無村では香りのする花も多く、それもまた新しい季節の始まりを知らせる役割を果たしていた。
小姫は、風に運ばれてくる爽やかな香りに鼻をひくつかせ、清々しい空気とともに胸の奥に吸い込んだ。
春は蝋梅や沈丁花。夏は梔子や藤の花、そして秋は――、何だったろうか。
甘い香り、華やかな香り、どこか懐かしい香り。姿は見えずとも、その出所を想像するだけで、小姫の心は浮き立った。
「……ふ。夕食の匂いでもするのですか?」
隣を歩いていた乙彦が、小姫の顔を見て面白そうに口の端を上げた。その揶揄するような口調に、小姫はむっとして言い返す。
「違うわよ! 花の香りがするなと思っただけ!」
一瞬だけだが、確かに知った香りがした。何の香りかは思い出せないが。
「花の香り……?」
乙彦は扇で口元を隠し、遠くを見るようなまなざしをした。小姫をからかってばかりの大きな目が細められ、憂えたような表情が様になっている。
そうすると、やはり彼は整った顔立ちをしているのだと、小姫は改めて感心した。着物に草履といった昔風の服装も彼によく似合っている。が、さすがにこの時期ともなると、そんな薄着ではどうしても寒々しく見えてしまう。
日無村は雪が多く、秋の風は肌を刺すように冷たい。それなのに乙彦は、夏と変わらぬ軽装をしているのだ。彼に言わせれば、河童は水属性なので寒いのはむしろ得意とのこと。暑さが収まるこれからの季節の方が、過ごしやすいらしい。
「? どうしたのです?」
「な、なんでもない」
知らないうちに見とれてしまっていた小姫は、慌てて目をそらした。
先日、人間ではない彼を好きだと自覚してから、小姫は挙動不審になっていた。彼との婚約の話が出てからずっと、妖怪なんかと言い続けていた手前もあるし、相手である乙彦自身は「恋」を理解できないときている。何より、告白じみたことをして以降も、乙彦の態度に変化がないのが落ち着かない。
彼が小姫のことを大切にしてくれているのは、今も昔も変わらない。しかし、小姫はそれ以上を望んでしまう。乙彦にも、小姫と同じ想いを抱いてほしいのだ。あからさまに小姫を避けたり、嫌ったりしないでくれるのはありがたいが、ずっと同じ関係が続くことは嬉しくない。どうすれば彼の意識を変えられるのかわからず、気を揉む日々を送っていた。
「なんでもないならいいのですが……、ちゃんと前を見るのです」
「え? ――わっ!?」
乙彦に言われて顔を上げると、バス停の標識が目の前に迫っていた。乙彦が腕を掴んで引き寄せてくれていなければ、激突しているところだった。
「ご、ごめん。……ありがとう」
謝りつつ礼を言うと、乙彦はそっけなく「いえ」と答え、すぐに手を放した。それから、少し距離をとって、小姫の家へと歩いて行く。
小姫は乙彦の指の感触が残る腕を、不満げに見つめた。
最近の乙彦はどうも、小姫との接触を避けているようなのだ。今まで必要以上にベタベタしてきたくせに、手をつなごうとすらしない。告白したせいかとも思ったが、あれから二か月ほど経ってからいきなり、というのも変である。何か心境の変化でもあったのだろうかと、原因がわからない小姫はもやもやしっぱなしだ。
以前、小姫の身体に妖力を注ぐという目的があって、強制的に手をつないでいた時期もあった。あの頃に比べたら、今はずっと乙彦とも仲良くなれたはずだという自信がある。
人に見られるのを嫌がる小姫のために、こうして並んで歩くのは、繁華街を通り抜けてから家に着くまでの短い距離。それ以外の場所では、乙彦は基本的に離れた場所から小姫を見守っている。だからこうしていられるのは貴重な時間なのだが、恋人っぽいことは何もできていない。
(まあ、まずは両想いになるってのが前提なんだけど……)
しかし、どうすれば彼が自分のことを好きになってくれるのか。第一、恋愛感情を知らない妖怪に恋心を抱いてもらうことができるのか。そんなことをつらつらと考えている間に、小姫たちは家に着いてしまった。
ため息をつきながら、小姫は鞄に手を突っ込んだ。玄関のカギを探しながら、「そういえば」と乙彦に伝える。
「明日から、放課後に文化祭の準備をすることになってるの。だから、いつもより帰るの遅くなるよ」
小姫の高校では、文化祭は秋に二日間かけて行う。一日目の土曜日は生徒のみの参加だが、二日目の日曜日は一般客も受け入れる。準備は約一か月間で行われるのだが、追い込み時期の今週は、申請すれば普段より遅くまで残ってもいいことになっていた。
「文化祭……。そんな面倒なものがあるのですか」
「面倒って」
何をするのかわかっているのだろうか。知らないに違いない、と小姫は勝手に決めつけ、簡単に説明する。
「結構、楽しいと思うよ。部活とかクラスとか、あとは有志で集まって出し物とかするの。真面目な発表もあるけど、大抵はミニゲームとか、大正時代の体験とか、そういうイベントっぽいものが多くて。屋台も出るからお祭りみたいになるし」
「……お祭り」
「うん。でも、うちのクラスは展示だから、準備もそんなに大変じゃないんだ。当日することも、受付くらいしかなくて――あ、それも当番制だから、それ以外はずっと暇で……。……えーと、だから……あの……」
――だから、乙彦さえよければ、文化祭を一緒にまわらない?
その言葉を、小姫は迷った末に飲み込んだ。
そうしたいのはやまやまだが、現実的には難しいに違いない。乙彦は人混みが苦手だし、出し物にも食べ物にもさして興味はないだろう。文化祭デートに憧れているからといって、乙彦を無理やり付き合わせるのは気が引ける。
それに、クラスメイトに目撃される可能性もあった。乙彦のことを聞かれたら、なんて答えたらいいのだろう。今のところ、婚約者や彼氏など、名前の付けられる関係ではないというのに。
「……『だから』? 何なのです?」
不自然に口をつぐんだ小姫に、乙彦が怪訝な顔をする。小姫は慌てて「なんでもない」とごまかした。が、その答えは、乙彦にとって満足のいくものではなかったようだ。
「またそれなのですか。……このところ、何でもない、ばかりなのです」
「えっ……?」
そう、だっただろうか。
思い当たる節はない――というわけではない。乙彦に告白して以来、頭の中はそればっかりで、挙動不審になっている自覚はある。そんな時に、どうかしたのかと尋ねられれば、何でもないと言うしかないではないか。
どう答えようかと焦っていると、乙彦が探るように顔を近づけてきた。
「何か、隠していることがあるのです?」
「な……、ないよ! そんなの全然!」
「……それは本当なのですか?」
「も、もちろんよ!」
必死で首をぶんぶん振っても、乙彦の目から疑いの色が消えない。しかしやがて、仕方なさそうに体を引いた。
「……まあ、とりあえずはいいのです。風邪をひかないうちに中に入るのです」
「……や、まだそこまで寒くはないけど……」
だが、ここで話を切り上げた方が良さそうだ。墓穴を掘る前に、乙彦の言葉に甘えることにする。
「えーと、じゃあ……、送ってくれてありがとう」
ぎこちなくそう言うと、乙彦は目元を緩めて微笑んだ。素直な笑顔を正面から浴びて、小姫の心臓が跳ねそうになる。
つい勢いよく扉を閉めたら、飛び上がるような大きな音が出た。扉の内側に背をつけて、小姫は動悸が激しくなった胸を抑えた。
(……ああもう、なんでこうなっちゃうんだろ)
あんな乱暴な閉め方をして、怒っているなどと思われなかっただろうか。
最近はずっと、自分の感情に振り回されて、毎日こんな状態だ。乙彦を振り向かせたいと思っているのに、逆に遠ざけるような態度ばかりとってしまう。空回りという言葉が脳裏をよぎり、ハムスターが回し車を回転させている映像が浮かんだ。
(せめて明日は……もう少し素直に。素直に、可愛く……可愛く? 私にできるかな……)
一瞬で崩れた決意にまた落ち込んで、そっと扉の外の気配を探った。
ドアの向こうで、乙彦はどんな顔をしているだろう。小姫の行動を不審に思っているみたいだし、愛想をつかさないでくれるといいのだが……。
小姫は暗澹たる思いに駆られ、外に聞こえないようひっそりとため息をついた。