24.
「――寝てしまったのです……?」
ぽつりぽつりと会話をしてからしばらくすると、深い呼吸音が聞こえてきた。乙彦が腕の力を緩めて覗けば、小姫があどけない顔をして眠っている。
無理もない。ここ数日睡眠不足が続いていた上、今日は朝から駆けまわっていたのだから。
小姫が望んでやったこととはいえ、かなり疲れたはずだ。もう少し手伝えばよかったのかもしれないが、あの時はそんな気分にはなれなかった。自分でも、だいぶ冷静さを欠いていたという自覚はある。
「……あなたがずっとここにいてくれたら、もう少し優しくできるのですが……」
だが、困ったことに、小姫が思い通りになったことは、今のところ一度もない。しかし、だからこそ、彼女が特別で大切なのだとも思う。
――十年間。
乙彦は遠くから、ずっと小姫を見つめていた。人間に殺されかけ、なのに、命を助けてくれたのも人間で、憎みたくても憎めない、矛盾した感情に心を疲弊させていった日々。
結局、憎もうとしてもできなかった。憎まなくていいと知って、ようやく心が安らいだ。彼女の隣に降り立ち、触れられるようになって、離れがたい欲求に苛まれるようにもなって……。
この感情に名前を付ければ、小姫は納得するのだろうか。どこにも行かず、この腕の中にいてくれるのだろうか。
人間というものは、とかく名前を付けたがる。型に当てはめて、既知のものであるのだと、安心しようとする。
今、乙彦にとって確かなのは、側にいて彼女を守りたいということと、大切にしたいということだけだ。本人にさえわからないものを無理やり分類するのは、無粋だとすら思えるのに。
「……ん……」
小姫が身じろぎをして、乙彦の胸に全身の体重を預けてきた。完全にここで眠る体勢である。くすりと笑って、瞼にかかる髪の毛を脇に払う。
小姫は同じ気持ちになるまで待つと言った。そうでなければ悲しいから、と。
人間に心を寄せて、一緒に生きた妖怪が少なくはないことを、乙彦は知っている。だから、人間と妖怪の間に恋は生まれるのだろう。
ただし、人間が抱く思いと、妖怪が抱く思いが、全く同じものとは言い切れない。思いの形だって千差万別のはずだ。同じ「恋」と呼ばれる気持ちも、人間によって微妙に違いはあるだろうし、そもそも、同じ気持ちかどうかなんて計る方法もないのだから――。だから、そんなふうになるのを待たれても困るのだ。
そこまで考えて、ため息をついた。
――いや、わかっている。これは言い訳でしかないことを。
乙彦はどちらかというと、恋というものに懐疑的だった。しかも、あまりにも小姫がこだわるせいで、逆らいたい気持ちがむくむくと湧き上がってくるのだ。
だって、そうだろう。恋なんてろくなものではない。恋のせいで、小姫は婚約者をないがしろにし、他の男にうつつを抜かした。乙彦ばかりが心を乱され、振り回されて、ついにはこんな醜態をさらして――……。
――同じ想いを返してくれないのは、悲しいから――……。
「……ん?」
今、何か引っ掛かりを覚えた。手繰り寄せれば、答えがわかりそうな。
雲みたいにあやふやなものではない、もっと手ごたえの感じられる、確かな何か……。
「――いえ、今はまだいいのです」
ふ、と乙彦は口元に笑みを浮かべた。
今はまだ、いい。小姫は待つと言っているのだから。
乙彦は決して、この胸のうちにある名もなき思いが、小姫の言う恋心に劣っているとは思わない。むしろ、もっと確実で、信頼できて、全てをかけるに足るものだと思っている。信じている。
小姫の方にこそ、時間が必要なのだ。心の中に芽生えたばかりの初々しい恋情。簡単に揺れ動いたり、生まれたり消えたりする感情。それが本当に確かなものか、吟味するための時間が。
そうして、時間をかけて、重ねて、育てて、熟成して……。
――いつか、こちらの想いの深さを知るといい。
「……さて」
このままずっとこうしていてもいいが、浴衣はきつそうだし、ゆっくり布団で寝させてやった方がいいだろう。
乙彦はためらいもなく唇を重ねると、さきほどとは逆に、過剰な分の妖力を吸いこんだ。 あっという間に人間の体に戻った小姫を見下ろし、ふふっと笑う。
「これがキスだというのなら、ヒメのファーストキスはとっくの昔に終わっているのです」
十年前に起きた交通事故。小姫はその時の記憶がないから、知らないのだろう。
あの時、小姫は乙彦をかばって命を落としかけた。死にかけた彼女の命をつなぐために、乙彦は今回と同じ方法で妖力を吹き込んだのである。
乙彦は幼さの残る小姫の寝顔を見つめると、移動中に落とさないよう、しっかりと抱え直した。枝から枝へと飛び移り、祭りの後特有の寂しさが残る広場から姿を消す。
夜の帳が落ち、空は静けさを取り戻した。
闇の深さをやわらげていた白煙はすでに霧散し、何事もなかったかのように、星々がひっそりと煌めき始める。
それでも、この日夜空に花開いた色とりどりの火は、二人の胸に、小さな熱を残していったのかもしれない。