20.
(うう、は、走りにくい……!)
縁結びの神と別れた小姫は、ようやく祭り会場へつながる橋を渡り終えた。
乙彦がそこにいると思っているわけではない。こう暗くては彼を探そうにも何も見えないから、まずは少しでも明るい方へ行こうと考えたのだ。
しかし、どうにもこうにも走りにくくて仕方がなかった。きれいな格好にしてもらえたのはありがたいのだが、タイミングが非常に悪い。下駄が脱げないよう、着物がはだけないよう気を付けながら、小石の上と草地を走り抜ける。
屋台が見えてきた。楽しそうな人々の横をすれ違いながら、乙彦を探す。
乙彦のことだから、人がたくさん集まっている場所にはいないだろう。だがきっと、小姫を見通すことのできる場所にいるはずだ。
木の上や影、建物の裏側などを中心に見て回った。しかし、どこも空振りに終わる。思い返してみれば、普段から乙彦を見つけようとして小姫が見つけられた例はない。
見当違いなのかも、と人の流れから外れて立ち止まると、スマホに着信があった。巾着の中から取り出したそれには、いつの間にか届いていたメッセージがいくつも表示されている。
今受け取ったのは、五月からのもののようだ。
(――五月君……!)
その名前を見て、ズン、と気分が重くなった。
クラスメイト達にはすでに、祭りに参加できないことを伝えてある。会場付近で鉢合わせする可能性もあるので、母親に祭りの手伝いとして駆り出され、それが長引きそうだから、という理由にしておいた。
それを了承したという返事がほとんどだったが、五月のものは少し長かった。一緒に祭りに来られないのは残念だということ、そして、もし時間ができたら……、小さな方の橋に来てくれないかというメッセージが入っていた。
――そう、縁ならもうある。小姫が憧れていた人との。理想の彼氏になってくれそうな男子との、縁が。
だが、先ほどからずっと小姫の頭の中を占めているのは、彼ではない。……人間でもない。しかも、いつか小姫のことを好きになってくれるかどうかもわからない相手。
そんな相手を思い続けても、きっと、苦しくなる時が来る。だから、五月を選んだはずだった。それなのに、今、必死に探しているのは乙彦で、どういう言葉で断ればいいのかと考えている相手が、五月なのだ。
(……でも……打てない。どうしたらいいの、私は――)
五月の元に行くにしろ、行かないにしろ、返事をしなければならない。だが、どちらの文章も最初の一文字すら打てなかった。
そのまま、どのくらい経ったのだろう。ふと、背後に気配を感じた。
「ひゃ――っ!?」
首筋をなでられた感触がして、悲鳴を上げながら振り返る。すると、乙彦がすぐ後ろに立っていた。
「お、乙彦……?」
一瞬だけぎくりとしたが、ようやく見つかったという安心感が勝り、ほっと息をついた。急いでスマホを巾着にしまい、向かい合う。
話したいことがあった。謝らなければいけないことがあった。お礼を言わなければと思っていた。しかし、勢い込んで開きかけた口は、動かせずに止まってしまう。乙彦の目が、明らかに怒りに満ちていたからだ。
「……あ、あの……?」
そういえば、けんか別れして以来、対面するのはこれが初めてだ。花火の時に助けてくれたから、勝手に許してくれたと思い込んでいたが、傷つけられた方はそんな簡単に水に流せるものではない。
なんて口火を切ったらいいか。ただ会いたいだけで走ってきた小姫はうろたえた。乙彦ならすぐに許してくれるなんて思っていたのは思い上がりだった。どうしようかと焦っていると、乙彦が小姫の首筋に両手を這わせた。
二度目だから飛び上がることはなかったし、ひんやりとした指が上気した肌に心地よい――というわけにはいかなかった。そのまま首を絞められてしまいそうな危うげな気配がある。本気でそうされると信じているわけではないが、落ち着かず、小姫は言葉がまとまらないうちに口を開いた。
「あ、う、あの……その、乙彦! 昨日のことなんだけど……、あの、ごめんね、……私、乙彦が嫌とかじゃなくて、でも、色々考えると、このままじゃダメって思って――」
「……随分と、着飾っているのです」
「――えっ!?」
やっとしゃべったと思ったら、小姫の話とは何のつながりもなかった。小姫は軽く思考停止する。
その間に、長い指が頭の方へ移動していった。そこで小姫はハッと気づいた。
(あ、そ、そうか。今、かがり様の術でこんな格好で……。え!? 何か変!? やっぱり派手すぎ!? 乙彦が言ってるのってそういうこと!? そういえば、乙彦の前で髪上げるのは初めてかも……!)
赤くなったり青くなったりする小姫を尻目に、乙彦の表情は険しくなっていく。小姫の頭を両手で固定すると、乙彦は尋ねた。
「……あの砂利に会うために、こんなに着飾ったのですか?」
「――えっ? ち、違うよ!?」
てっきり小姫の浴衣姿に対するダメだしかと思いきや、乙彦の関心は別なところにあったらしい。小姫は慌てて否定したが、乙彦の耳には入っていないようだ。舌打ちをして、言い捨てる。
「……あの神の仕業なのですか……。妖力で崩れないようになっているのです……!」
(え、そうなの!?)
そんなに念入りに術をかけられているとは知らなかった。
しかし、なぜそんなことを言うのだろう。まさか崩したいのだろうか。乙彦の手つきに不穏なものを感じた小姫は、彼の手を放そうと自分のそれを伸ばす。
「あの……乙彦、聞いて――」
「あの飾りも、邪魔だったのですか?」
乙彦の視線が前髪に固定されているのを見て、小姫は即座に否定した。
「! 乙彦、違う……!」
何を怒っているのかと思ったら、それだったのか。
笹の葉を象ったヘアピン。乙彦のそれとお揃いの形。初めて乙彦がくれた贈り物。
乙彦と決別しようとしたときも、あれだけは外せなかった。
乙彦が婚約者をほのめかしたせいで素直に受け取れなかったが、本当は嬉しかったから。わざわざ自分のために作ってくれたことが、何よりも心に響いたから。
それに、かがり様に聞いたのだ。これには、水難避けと水の守りの力が込められていると。そのおかげで、花火の真下にいた小姫が、火の粉も浴びずに無事だったのだろうと。
だから、それだけは絶対に違う。小姫は必死に伝えようとした。
「乙彦、聞いて! 確かにあれは外すように言われたけど、私は……!」
が、乙彦はすでに聞く耳を持っていなかった。その目に剣呑な光を宿し、吐き捨てる。
「あなたは、本当に……むかつくのです……!」
「――っ!?」
突然、強い風を感じた。目を開けていられず、引き寄せられるままに側にいた乙彦にしがみつく。浮揚感を覚えたのは一瞬で、気が付いたら木の枝の上に運ばれていた。
枝は太く、二人分の体重をしっかりと受け止めてくれた。しかし、太いとはいっても、枝は枝だ。乙彦に支えられていなければ、バランスを崩して落ちてしまいそうだ。
小姫は膝立ちで、こわごわと視線を地面に向ける。人通りは少ないが、誰もいないわけではない。葉は濃く生い茂っているものの、通行人が顔を上げたら見つかってしまう場所にいる。
こんなところに移動してどうするつもりなのだろう。小姫は乙彦の真意を確かめようとした。しかし、乙彦の顔には表情がなく、何の感情も読み取れない。
小姫をからかうような、馬鹿にするような、いつもの笑顔が消えてしまうと、乙彦は何を考えているかわからない。思わず後ずさりしようとして、足を踏み外す。
あわや落下しかけたところを、乙彦が素早くつかんで引き上げてくれた。助けてくれたとほっとする間もなく、手首をつかまれ、幹に体ごと押し付けられる。
「――っ? い、痛い、乙彦……っ」
「そんなに、あの砂利がいいのですか? 私よりも、信用できるというのですか」
「~~っ、違うってば! 乙彦より信用できるとか、そんなんじゃ……!」
「このまま逃げられないようにして、連れ去ってもいいのです」
「――っ」
(違うって言ってるのに……!)
小姫はわななきそうになるのを、唇をかんでこらえた。
いい加減、小姫も頭に来ていた。この間から、一方的に決めつけてばかりいて、小姫の話なんて聞いてくれない。いつもの乙彦なら、もっと小姫の気持ちを尊重してくれたはずだ。少なくとも、こんな言葉で、小姫を傷つけようとなんてしなかった。
胸が苦しくて、呼吸が上手くできなくなる。涙がにじんだ目で、乙彦を睨んだ。
「……やれるもんなら、やってみなさいよ。どうせ、私の力じゃ、乙彦に適わないんだから」
「――……」
小姫の手首を握る力が緩んだ。虚を突かれたように揺らいだ瞳を見て、小姫の胸が鋭く痛む。
「……できないとわかっているくせに、そんなことを言うのですか……?」
乙彦が視線を落とし、口元を歪めた。自嘲するような笑い方が、さらに小姫の胸を締め付ける。こらえきれず、涙がこぼれた。震える唇で、乙彦をなじる。
「……だって、乙彦が先に言ったんじゃない……っ」
小姫を傷つけようとするから。乙彦に対する信頼を、わざと裏切るような真似をするから。
だが、乙彦の言う通りだ。彼にはできないとわかっていた。なんだかんだ言っても、乙彦は小姫に暴力をふるうようなことはできない。しない。
今日だって、川原でずっと小姫を見守っていたに違いない。ムジナを寄こしてくれたのも彼だろう。彼の力なら、昨日の時点で、花火を中止に追い込むこともできた。それなのに、小姫を信じてくれた。最後の最後まで、小姫の合図を待っていてくれた。
小姫を大切にしてくれて、いつも想ってくれる。そんな彼に、小姫も、同じものを返したいと思っていた。
……だが、できない。もう、それは無理なのだ。だって、気づいてしまったから。
(私は、乙彦が、好きなんだ――……)
だから、もう、乙彦と同じものは返せない。彼の純粋な想いとは違って、小姫は無意識に見返りを期待してしまう。同じように自分を好きになってほしいと願ってしまう。
感謝の念や恩愛を、恋愛感情に置き換えてしまうのは、自分が人間だからなのだろうか……。
「なぜ、泣くのです……?」
困ったように、乙彦が指で小姫の目元を拭った。
乙彦の目から険しさが消えている。そのことに信じられないほど安心して、その優しい手つきが嬉しくて、さらに涙があふれてしまう。
「お、乙彦が、意地悪するからじゃん……」
本当は少し違うが、恥ずかしくて嘘をついた。乙彦がムッとしたように言い返そうとする。
「だからそれは――、って、ああ、泣くのはずるいのです」
ずるいと言われても、泣きたくて泣いているわけではない。浴衣の袖に吸わせようとしたところを、乙彦から止められて引き寄せられた。
乙彦の着物に、涙がにじんでしまう。着物が汚れてしまうと小姫が気にしても、乙彦は背中にまわす腕の力を強くするだけで、離してくれる気配はない。
(こ、こんなの……、こんなに優しくされたら困る……!)
バクバクと心臓が強く打ち始める。せっかく離れる決心をしたのに、こんなことをされたら、別れがたくなってしまう。
乙彦の小姫に対する思いと、小姫が乙彦に対して想う気持ち。そこに純然たるすれ違いがあるから、側にいたいのに、いればいるほど苦しくて、切ない。
だから、一緒にはいられないと思った。けじめをつけるために、嘘までついた。
それなのに、これ以上好きになったら、この気持ちに蓋をすることなんてできなくなる――。
「……お、乙彦。やっぱり……」
今ならまだ引き返せるかもしれない。無駄な抵抗に思えてきたが、あれだけ悩んだことなのだ。あふれそうな思いを押し殺し、乙彦の腕の中から逃れようとした。
すると、それをどう捉えたのか、乙彦がまたしかめ面をした。
「――やっぱり、あの砂利のもとへ行くのですか」
(……えっ?)
乙彦のことでいっぱいいっぱいだった小姫の頭の中で、「あの砂利」が誰のことなのかすぐには結びつかなかった。その空白の時間が、乙彦にさらなる誤解を与えてしまう。
「……わかったのです。そこまで行きたいなら――、こうするのです」
「……っ!」
一瞬だった。いきなり目の前に乙彦の顔が迫ったかと思うと、唇にひんやりとした感触が押し付けられた。
(……えっ……?)
息ができない。何が起こっているのか――、頭が、回らない。
無意識に抵抗しようとしたのか、両腕はまた拘束され、幹に押し付けられている。乙彦の肌に直に触れている手首と、唇が、冷たい。
(え? え? え……っ!?)
乙彦の髪が、額や頬をくすぐってくる。少し視線をずらすと、笹の耳飾りが初めて見るくらい近くにあって、ようやく自分の状態を理解した。
「~~~~っ!?」
自覚したとたん、体内の血がものすごい勢いで体中をめぐりだした。
慌てて距離を取ろうとしたが、乙彦の力は強かった。逃れようとすればするほど、彼との密着度が上がっていく。
――お祭りデートで、花火が上がっていて、きれいな浴衣を着ていて……。
条件だけあげれば上々のシチュエーションだが、現実は理想と程遠い。それに、どうにも違和感があった。
(なんか、これ……、キスというより、何か吹き込まれているような……っ?)
ふ、と、唇を重ねたまま乙彦が笑った気がした。とっさに、乙彦の胸を突き飛ばす。
今度はあっさりと体が離れ、小姫は口元を両手で覆った。
「な、な、何すんのよ! 人のファーストキスを……っ!」
顔全体がめちゃくちゃ熱い。発火しそうだと思いながら、小姫がわめく。
「ファーストキス? そんなんじゃないのです」
乙彦が、してやったりという表情で嫌な感じに笑っている。一気に警戒感が高まった。
「な、何が違うっていうのよ! 現に――」
「すぐにわかるのです」
「……えっ!?」
突然、耳がむずむずしてきて、何とも言えない気持ち悪さが襲ってきた。頭の内側に強い圧迫感が生まれ、膨れ上がったかと思うと、生まれた時と同じくらい唐突にその不快感が消え去った。と同時に、突如耳元でがなり立てるような騒音が聞こえるようになり、小姫は頭を抱えながら、幹に背中を押し付ける。
その異様な変化は耳だけでなく、腰の辺りでも始まった。周りからぎゅうと押さえつけられているかのような圧迫感をそんなところで感じるのは初めてだ。小姫は自分の体に起きた異変を確かめようと、まずは顔の横に手を伸ばしてみる。すると、ふさふさした何かが手に触れた。
(え? と、これは……まさか……)
「――獣耳!?」
「……ふうん。猫又なのですか」
乙彦がつまらなそうにつぶやいた。
「ヒメに妖怪の血が混じっていることは知っていたのですが……、猫又だとは思わなかったのです。ちょっと残念なのです」
「ど、どういうことよ、これ!?」
「まあ、ちょっとした実験なのです。大量の妖力を注ぎ込んだら、遠い祖先の特徴が出るかもしれないと思ってやってみたのです。体の一部が接触しているだけでも妖力を注ぐことはできるのですが、口移しの方が手っ取り早いので」
「てっとり……! いや、それより……、なんなの!?」
小姫は動転して口をパクパクさせた。完全にパニックだ。
自分の手で自分の耳を触っている感触は確かにある。乙彦の言う通り、さっきまですべすべしていた小姫の耳が、そっくり猫の耳に代わってしまったのだろう。
つまり、乙彦の声がいつもと違うように聞こえるのも、遠くのざわめきがすぐ間近にいるように聞こえるのも、聴覚が鋭敏になったせいなのか。
「え、じゃあ、これも!?」
腰回りで感じている不快感。時折足をくすぐる柔らかい感触。慎重に腰から下を触っていくと、浴衣の中に意志とは無関係に動く尻尾の感触があって、今度こそ小姫は気を失いそうになった。
(猫耳としっぽ!? あ、ありえない!)
「お、乙彦! やだ、ちょっと、治してよ、これ!」
「嫌なのです」
つん、とすげなく断った乙彦は、小姫に向かってちろりと舌を出す。
「ヒメが悪いのです。その姿で会いに行けるものなら、会いに行けばいいのです」
「――はあ? ちょっと待……っ、乙彦っ!」
乙彦は呼びかけに反応することなく、枝から飛び降りてあっという間に姿を消した。着物の袖をつかもうと伸ばした手は空を切り、小姫はその勢いのまま、枝から滑り落ちてしまう。
(――落ちる……!)
衝撃を覚悟して目をつぶったが、地面に激突することはなかった。勝手に体が反応して空中で体勢を変えると、ほとんど音も立てずに四つ足で着地したのだ。
「えっ?」
呼吸するかのような無意識の動き。あまりのことに、頭がついていかない。そういえば、耳も尻尾も、さっきから自分の意志とは無関係に動いていて、何ともいえない気持ち悪さを感じている。
(これ、もしかして、猫、だから?)
しかし、夜をも見通せる猫の視力をもってしても、乙彦の姿を追うことはできなかった。
「ど、どうしよう……」
小姫はきょろきょろと辺りを見回す。しっぽは浴衣に隠れていているからいいとしても、耳は外から丸わかりである。お洒落な髪型が完全に裏目に出た形だ。
「……ね。あれって、コスプレかな?」
「祭りだからって浮かれすぎだろ……」
「っ!」
小姫は素早く両手で耳を隠した。すれ違ったカップルにくすくす笑われ、カッと顔に血が上る。
(と、とにかく、乙彦を探して元に戻してもらわなきゃ……!)
しかし、どうしてこんなことに……。
一難去ってまた一難。小姫は涙目になりながら、お面を二つ買って両耳を隠すと、人込みの中を今度はこそこそと走り出した。