15.
「はー……。青、空、だぁ……」
小姫は窓を開けて外を見上げると、がっくりと肩を落とした。
昨日の曇り空が嘘のような快晴。今はまだ白に近い薄青色だが、きっとすぐに紺碧色に塗り替えられていくだろう。日の光は早朝にしては強烈で、寝不足と夢見の悪さで虚ろになった目に痛い。
こんな日は、曇りがいい。いや、むしろ雨なら、色々と諦めがついただろうか。
懲りずに何度も浮かび上がってくる弱い心を、頬をつねって叱咤する。
昨日も、目的の花火玉は見つけられなかった。しかし、職人の一人から新しい情報を得ることができた。
「そういえば、気のせいかと思ってたんだけど――」
二十代の若い職人だった。彼が玉皮を合わせて一つにしたとき、一瞬だけ、手元が光ったような気がしたという。
目の錯覚か、はたまた、光の反射か。深く考えずに玉貼りの行程に移った。しかし、今思い返してみると、ぼやっとした光がずっと手元を照らしていたようだったと、頭を振りつつ記憶を掘り起こしてくれた。
それが妖怪を閉じ込めたときのことなのか、そうでないのかはわからない。だが、今まで何一つそれらしい情報が手に入らなかったことに比べれば、一歩進んだことに間違いはない。わずかではあるが、枕返しの話の信憑性が高まったと言える。
(淡く光る妖怪ってことかな? それとも、光る何かを持っているとか?)
弥恵にはさっそく昨夜のうちに伝えた。その場では思い当たる妖怪はいなかったようだが、もう少し考えてみてくれるという。
だが、一歩進んだといっても、遅々たる歩みである。せっかくのお祭り日和ではあるが、この調子で祭りに参加できるとは思えない。
スマホには、クラスメイトから一斉送信で、「みんななるべく浴衣でね!」というメッセージが届いていた。浴衣は持っているが、小姫は自分で着付けをしたことがない。皆がこのメッセージを忠実に実行したら、そうでない小姫はさらに浮くだろう。それを思うと気が滅入った。
ここまできたら、参加することは断念した方がいいかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。
不思議なことに、それをさほど残念だと思っていない自分がいた。いや、残念どころか、参加できない理由をさっきからずっと探し続けている。
「…………」
辞退するのならば、さっさと断りの連絡を入れた方がいい。ぽつりぽつりと一文字ずつ入力していくのだが、昨日のやりとりを思い出すと、指が思うように動かなくなる。
――今日、行かなかったら、なぜ乙彦と決別したのだろう。なぜ、乙彦を傷つけてまで、五月との未来を望んだのだろう。
身を切るほどの決意が無駄になってしまう気がして、身動きできなくなってしまうのだ。
「ほんとに、嬉しかったんだけどなあ……」
日無村は小さな村だ。高校も一つしかなく、言葉を交わしたことがない人でも、見ず知らずの他人というわけではない。村長の娘ともなれば、なおのこと。小姫のことを知らない者はおらず、小学生の頃の交通事故はもちろん、その際の記憶喪失の件も広く知られている。陰では面白おかしく脚色されてもいるようで、腫れもののように扱われることが多かった。
おかげでいじめられることはなかったが、親しい友人もできなかった。子どもの頃からずっと、疎外感を抱いてきたのだ。
そんな中、五月が転入してきた。小姫の過去を知らない彼は、他のクラスメイトたちと分け隔てなく接してくれた。今回の祭りにも、一緒に行こうと誘ってくれた。みんなとスマホでメッセージのやりとりができるようになったのも、五月のおかげといって過言ではない。
だから、五月は小姫にとって、感謝すべき特別な存在だったし、それがなくても、思い描いていた理想の彼氏を体現したような男子だった。そんな人から好意をほのめかされたりしたら、舞い上がってしまうのも当然だろう。
――本当に、憧れていたのだ。皆と同じように、恋をして、恋をされて、結婚をして、家庭を作って……。遠巻きにされたり、奇異な目で見られたりしない、恋愛や、結婚に。そんな風に自分を大事にしてくれる人が現れることに。
しかし、今、小姫の頭の中を占めているのは、乙彦だった。
昨日はあれから、姿を見せることはなかった。
あんなにひどいことを言ったのだ。小姫に愛想をつかして、この村を出て行ったとしてもおかしくはない。親しかったという岩の神を頼って、引っ越したのかもしれない。もしそうであれば、わざわざあんな言い方をしたかいがあるというもの――……。
だが、そう思うたび、心臓に刺すような痛みが走る。のどが詰まって瞼が熱くなる。
彼を傷つけた自分が、苦しいなんて言ってはいけない。だが、昨日も、――今も、山際や木の影、川のほとりや屋根の上に視線をさまよわせてしまう。
(――側にいてほしくない、なんて。乙彦が嫌になったなんて……。なんであんな、ひどいことを……っ)
気が付けば、乙彦のことを考えてしまう。そのたびに手が止まって、メッセージを打ち終えるのに、長い時間がかかってしまった。
ようやくメッセージを送信した時、スマホが振動した。ぎくりとしつつ手に取ると、弥恵からの着信だった。
「小姫? 起きてる? そっちの様子はどうかしら?」
受話口からはいつものごとくおっとりした声が流れ出てきて、つられて小姫まで気が抜けた。挨拶もそこそこに、「そっちこそ大丈夫なの?」と質問で返してやる。
「それがねえ。かがり様ったら、自棄になっちゃったのか、昨夜からずっとお神酒を飲み続けてるのよ。もう、うちの村に行くのはやめたから、代わりにお札でも持って行けって。でも、青峰君がずっと絡まれているのよねえ。そのうち飽きるかなーと思ったんだけど、なかなか飽きてくれなくて」
電話の向こうで、青峰らしき男性のうめき声が聞こえる。どんな状況なのか想像はできないが、さすがに同情を禁じ得ない。
「……それで、そっちの妖怪のことだけど。ごめんねえ、今のところ、思い当たる妖怪はいないわ。私も妖怪すべてを知ってるわけじゃないし、うちの村を通り過ぎようとしただけなら、知らなくても不思議じゃないし」
「……そう……」
予想通りとはいえ、落胆は隠せなかった。せっかく得られた情報なのに、妖怪の名前の手掛かりにも、花火玉を見つける足掛かりにもならない。
黙ってしまった小姫に、弥恵が気づかわし気に声をかける。
「小姫。無理しちゃだめよ。ここでやめたいなら、やめていいわ。あなたに責任はないんだから」
「…………」
「花火のことは置いといて、今日はお祭りでしょ? 気分転換に乙彦君と行ってきたら? ちょうど乙彦君も着物だし、お祭りの中なら浮かないかも……あ、あなたにも浴衣の着付け、してあげられれば良かったわねえ。こんなことになるとは思ってなくて。一応、準備はしてたんだけど……」
――乙彦と、お祭りに。
小姫は、弥恵に気づかれないよう、小さく笑った。
それが嫌だったから、小姫は五月の誘いに乗ったのだ。
クラスメイトとのお祭りに純粋に憧れていたのが半分。そして、乙彦とお祭りに行かなくていい口実を作るためが半分。
だって、自分を好きでもない相手とデートみたいなことをしたって、苦しくなるだけではないか。
小姫の気持ちも知らずに、乙彦はきっとそこでも婚約者扱いをしてくる。小姫を愛しく思っているようなふりをして、仲の良い恋人のようにからかって。
五月とのデートを想像したときとは違う。苦しくて……、考えただけでも苦しくて仕方がない。
「……お母さん、乙彦とは、もう――」
乙彦との未来は、もう――。
壊してしまったから。
二度と、交わることはないから。
隠していてもしょうがない。弥恵が戻ってきてから、面と向かって言う勇気もない。
だから、今ここで言ってしまおうと、小姫は思い切って口を開けたが……。
突然、電話の向こうが騒がしくなった。
「――あ。あら、まあ、かがり様! それはどういった了見――、いえいえ、青峰君はうちの跡継ぎなんですの。ちょうだいとおっしゃられても困りますわぁ」
珍しく弥恵の慌てる声を聞いた。と思ったら、争うような音が響き、突然、ぶつりと回線が切れた。
「えっ……? ちょっと、お母さん? お母さん……っ!?」
慌ててかけ直したが、つながらない。最後の会話からすると、神様が青峰をねだっていたようだが、一体何がどうなってそうなるのか。
「……もう、あっちもこっちも問題だらけで、一体何なの……」
小姫は気が抜けたようにスマホを眺めた。
――しかし、それから何度かけ直しても、コール音が鳴り続けるだけだった。