14.
――滝つぼに水が激しく落ちる音がする。
おかげで、風に揺れる梢の音は、耳に届く前に打ち消されてしまう。日向ではじりじりと気温が上がってきているが、木陰はまだ涼しく、風も心地よい。が、乙彦の気分は最悪だった。
ここは、以前から乙彦が住処にしている山である。一度は引き払うと決めて片付けたのだが、その後、思い直して再び使うことになった。
あくまで一時的なもの。そう思って仮住まいの気分でいたのだが、しかし、あれからすでに数か月が経過している。
小姫と会ってから――予想は裏切られっぱなしだった。
弥恵は当初から一緒に住むつもりでいたのだが、小姫がそれを、頑なに拒み続けているのだ。
いや、それ以前の問題だ。乙彦が婚約者であることすら認めようとしないのだから。ことあるごとに婚約を否定し、理想的な結婚を掲げて、人間の男にそれを当てはめようとする。
乙彦の何がそんなに気に入らないのか。出会った頃のように、「妖怪だから」だと言われるかと思ったのだが、そうではなかった。
「――恋愛感情があるか? ……そんなもの、どうでもいいのです」
乙彦は苛立ちをぶつけるように、左手に持った魚を噛み切った。
恋愛感情など、生物が伴侶を得る際の縁となるだけのものだろう。小姫を守るのに、そんなものは必要ない。彼女を守るに足る能力、そして、何が何でも守りたいという意志さえあれば、充分ではないか。
ただ、人の世界では、側にいるには理由が必要らしい。そのために、弥恵が婚約者という立場を与えてくれた。おかげで、彼女を守るための大義名分ができた。
――そう。ただの名目だ。目的さえ果たせれば、あとはどうでもいいのだ。彼女が他に恋人を作ろうが、誰とどこに行こうが、好きにすれば良い。
しかし、その相手が乙彦であれば、なお都合が良かった。小姫の方から近づいてきてくれれば、より守りやすくなるからだ。そのために必要だというなら、彼女の理想を、できる限り叶えてやってもいいとすら思っていた。
しかし、ここまで面倒くさいことを言い出すとは。
「…………」
乙彦は、骨だけになったイワナを川の中に投げ捨てた。少し離れた川原の上には、先ほど腹立ちまぎれに獲りまくった川魚が山になっている。
魚も、おそらく恋をするのだろう。しかし、妖怪に恋愛感情はない。他の動物たちのように、繁殖をしないからだ。
もちろん例外はある。ある程度以上の力がある妖怪は、自分の姿を変えることができる。相手の生き物と同じ姿になれば、子を為すこともできる。だから、小姫との結婚に、妖怪であることはさして障害にならないと思っていたし、そこさえ納得させられればいいと思っていた。
しかし……。
乙彦は、静かにため息をついた。川の流れを眺めているうちに、少しだけ頭が冷えた。
乙彦が小姫を守りたいのは、何度も言っているように、彼女に恩があるからだ。小姫は理解していないかもしれないが、乙彦が救われたのは、命だけではない。
あの交通事故で、狙われていたのは乙彦だった。乙彦を騙した少年たちは、わざと道路に置き去りにした。幼さゆえに、事の大きさを理解していなかったのかもしれない。だが、あわよくば車に轢かれればいいという、悪意に満ちた所業だった。
今でも確信している。あのとき小姫にかばわれなければ、乙彦は完全に、人間を憎んでいただろう、と。
そうなれば、何をしていたかわからない。乙彦はそれなりに力のある妖怪だ。死に瀕している状態で理性を保っていられたとは、到底思えなかった。
命を狙われたのだから、命をもって償わせたかもしれない。今までの恨みが爆発し、手当たり次第に人間を襲っていたかもしれない。もしそうなっていたら、と考えるとぞっとする。
人間を憎み切れなくなったと彼女をなじったが、あの瞬間だけは――、憎しみに振り切れてしまうわけにはいかなかったのだ。
――だから、彼女には、一生かかっても返せないほどの恩がある。
記憶がないからか、小姫は、自分の行動の意味をあまりわかっていないように見える。見ず知らずの妖怪を助けて自分が犠牲になる――、そんな人間もいるのだと、小姫は身を挺して教えてくれた。何の衒いもなく、ただ自然にそう行動できる彼女の存在は奇跡に等しく、乙彦にはいつもまぶしく見える。
洞窟でもそうだった。あの時、乙彦は本気で小姫を殺すつもりだった。結果的に、殺せなかっただけだ。それなのに彼女は、臆することなく乙彦に近づいてきた。自分を殺そうとした妖怪を救うために、花の力を使おうとした。乙彦が、なぜあんな怪我をして、なぜ洞窟に潜んでいたか。それがどんなに危険なことなのか、気づきもせずに――。
彼女は危うい。自分から危険に飛び込んでいく。だが、もう二度と、あんなひどい目に遭わせたくない。事故や、事件や、どんな悲しい出来事や苦しい出来事からも離れたところにいてほしい。婚約者という立場があれば、そういった全てから守ることができると信じていた。――たとえ、自分の全てを投げうってでも……。
しかし、彼女はそれを迷惑だと言う。恋愛感情がなければ、婚約者でいる資格はないのだと。好きになってくれなければ、結婚はできないと。
「……だったら、元に戻るだけなのです」
婚約者でなくても、彼女を守ることはできる。以前のように、遠くから見守ればいい。彼女に触れることや、言葉を交わすこと、声を聞いたり、見つめられたりすることはなくなるかもしれないが……。
チリリ、と胸の奥に焼けつくような痛みが走った。乙彦の代わりに、青峰や五月が小姫の隣に居座るのを想像したら、その痛みが、重く、暗く、熱いものに変わった。
――なぜ、こんなにもイラつくのだろう。
自分の居場所をとられるかもしれないからか。彼ら人間が、妖怪の乙彦を排除しようとするかもしれないからか。
そうかもしれない。だが、それだけとは思えない……。
「……っ、頭が痛くなってきたのです……」
いくら考えてもわからない。
乙彦は、岩の神が棲んでいた祠に視線を移した。半年ほど前に引っ越してしまったが、それまでは彼の神がこの山を守っていたのだ。乙彦より長い時を生きてきた女神ならば、この問いに答えを出せたのだろうか。
……いや、今は、他にやるべきことがあった。
乙彦は、あえて小姫との問題を頭から追い出した。
今日は祭りの当日。小姫もそろそろ起きる頃だろう。
周囲に妙な気配はないから何事もないとは思うが、やはり、顔を見ないと落ち着かない。苛立ちが収まっていないとはいえ、知らない間に彼女に何かあれば、後悔し続けるのは目に見えている。
小姫はまだ諦めないのだろうか。五月とかいう人間と祭りに行くために、今日も花火玉を探すのだろうか。
小姫には言っていないが、乙彦の方でも、手掛かりがないか知り合いを当たっていた。しかし、予想どおり、目撃者捜しは難航した。枕返しに伝えた者が二匹見つかったが、何の発見もなかった。唯一の手掛かりであるムジナの居場所を知っている者もいなかった。閉じ込められた妖怪については、いわずもがなというところだ。
もう、これ以上奔走しても進展は望めまい。花火の打ち上げは川原で行うだろうし、すべての花火玉がそこへ移されるのは好都合だ。
水の妖怪である乙彦にとって、川の水を操ることはお手の物だ。頃合いを見計り、局地的な氾濫を装って、用意した設備ごと攫ってしまえば……。
――その方が、小姫も楽になるのではないだろうか。
小姫は小姫なりに、妖怪がこの村で少しでも住みやすくなるように努力していた。今回も、そのために頑張っているのだと思い込んでいた。それが、本当は他の男との逢引のためだったと思うとやりきれないが、妖怪が見つけられずに彼女が苦しんでいるのを、見ていたくもないのである。
乙彦はもう一度、大きくため息をつくと、枝から降りようと立ち上がった。
川原では魚の山が、たっぷり太ったヤマメやイワナ、鮎などの鱗でうまそうに光っている。
住処を追われた小妖怪たちにでもくれてやろう、そう思って目を向けると、その山の端の方で、何かがちらちら動くのが見えた。
「……ん? あれは――」
乙彦は木陰で息をひそめ、目を凝らす。するとやがて、油断した影が山から体をのぞかせた。ごちそうにつられてのこのこ姿を現した何者か――その正体に気がついた乙彦は、にたり、と唇を笑みの形に歪めた。