13.
「な……、なんでここに……」
言葉がつかえる。急いで弁解しなければならないのに、言葉が出てこない。
いや、なぜ弁解しなければならないのか。何を弁解しなければならないのか。
そもそも、なぜここにいるのだろう。完全に屋内でない場所なら、家人の許可はいらないのか。
小姫はパニックに陥っていた。それは、乙彦が今まで見たことのない……、いや、小姫には向けたことのない目をしていたからだ。
冷ややかな――、妖怪を迫害している人間を見ているときのような、拒絶と怒りに満ちた目を。
(なにか……怒ってる? なんで……。どこから、聞いて――?)
その答えは、小姫が聞くまでもなく、乙彦が先に口にした。
「……なぜ、そこまで祭りにこだわるのかと、不思議に思っていたのです。祭りなんて、ヒメも何度も行ったことがあるはずなのです。花火だってそうでしょう。たった一度中止にするだけなのにあんなに反対するなんて、おかしいと思っていたのです。――全部、あの砂利のためだったのです」
「――っ? ち、違う!」
乙彦の言うのが五月のことだと気づいた小姫は、慌てて否定した。
「五月君のことは関係ない。それは、ちゃんと説明したじゃない! 乙彦、信じてくれなかったの!?」
「所詮、ヒメも他の人間と同じなのです。妖怪のことなど、本当はどうだっていいのです。熱くてうるさいだけの、たかが人間の娯楽のために、私たちの命なんて簡単に犠牲にできるのです」
「違う……! 違うよ! そんなことない!」
「あの小さな橋にも、ヒメはあれと行くつもりだったのです」
「――な……っ、そんなわけ――」
「言い訳なんて聞きたくないのです」
「……っ」
のどが詰まって、言葉が上手く口から出てこない。代わりに嗚咽が漏れそうになって、小姫は無言で首を横に振った。
(違うって、言ってるのに……!)
乙彦の目も口調も冷たくて、いつもの彼とは別人のようだ。小姫を厳しく責め立て、心をえぐる。憎しみに似た何かをぶつけられて、小姫は傷ついた。
なぜ、信じてくれないのか。なぜ、話を聞こうとしてくれないのか。
小姫を大事だと言っていたのは嘘なのか。なぜそんなに……、他人を見るような目を向けるのか。
いらだちと悔しさで目の前がにじんだ。
「――そっちだって……、私のことが大事なんて、所詮、口だけじゃない!」
カッとなって言い捨てた言葉に、乙彦が目を見開く。その顔を見て、心臓がずきりと痛んだ。――だが、止まらない。
「大事だったら、ちゃんと聞いてよ! いつも……一方的なのよ! 一方的に、自分の言い分ばっかり押し付けて! 私の気持ちなんて、考えてくれない……! 私を守るのだってそう。私、守ってなんて、一言も頼んでないよ……!」
止めようと思えば思うほど、止まらない。引っ込みがつかなくなって、さらに乙彦を責めてしまう。
……しかし、本当はわかっている。知っている。乙彦が口だけだったことなんてない。
枕返しのことだって、最初は小姫が一人でできるのか、見守ってくれていたのだ。そして、結局、助けてくれた。工場に行くときも、苦手な場所なのに付き合ってくれた。
自分勝手に見えても、助けが必要な時は手を差し伸べてくれる。小姫のためならば我慢してくれる。花火のことも、小姫の意志を尊重して、今まで手を出さないでくれている。
乙彦がどんなに小姫を大事にしてくれているか、本当は全部わかっている。
――だが、だからこそ――。
(――あ……)
唐突に気が付いた。今が、いい機会ではないだろうか。
このままだらだらと乙彦に頼り続けていていいわけがない。婚約者という言葉を利用して、彼に側にいてもらうのは楽で心地よいけれど、最近はなぜか、苦しさを感じる時の方が多い。
きっと、離れるなら今なのだ。乙彦に嫌われて、完全に決別する、最大の好機。
小姫は焦る気持ちを押し殺した。ありったけの精神力を動員して深呼吸する。そして――告げる。
「この際だからはっきり言うけど、五月君は乙彦と違って優しいし、紳士的だし、理想の王子様なの。……だから、邪魔しないで。私は、乙彦じゃない、五月君がいいの!」
「――っ」
乙彦の眉が不愉快そうにゆがんだ。扇子を開くのも忘れて、低く、小さく唸る。
「――ヒメは、私と婚約しているのです」
「……だから! それは認めてないって言ってるでしょ!」
「あんな砂利なんかでは、ヒメのことは守れないのです……!」
「――っ!」
小姫は、唇を噛んだ。つばを飲み込む。
ここまで言っても、乙彦は引き下がってくれないのだ。どうしても、小姫を守ろうとする。これ以上は……言いたくないのに。
――それでも。
「……それの、何がいけないの?」
「……え……?」
この言葉を言ったら、乙彦は傷つく。乙彦の気持ちを、行動を、真っ向から否定する。そう思ってなお、小姫は声を絞り出した。
「守れないからって、何なの? それが理由で嫌いになったり、好きになったりすると思ってるの? それで結婚するかどうか決めるって思ってるの? ……だとしたら、違うよ。五月君が私のこと守れなかったりしても、私は、五月君がいい。乙彦がたとえ私を守ってくれたとしても、だからって乙彦を選んだりしないよ……!」
「……っ」
案の定、乙彦が言葉に詰まった。
呼吸が苦しい。心臓が、切られたように痛い。――だが、きっと乙彦の方が痛いのだ。
彼の表情を見ていられなくて、小姫はうつむいた。
「……乙彦。もういいよ。私、乙彦には充分助けてもらった。だからもう、終わりでいいの。これから私が危険な目に遭ったって、それは乙彦のせいじゃない。守る必要なんかないよ。……あの時の――事故の時のことは覚えてないけど、私はこれ以上、乙彦の重荷になりたくない」
「……重荷、ではないのです。私が、あなたにもらったのは――」
「だから、もういいんだってば……っ!」
乙彦の言葉を遮り、髪を振り乱して叫ぶ。
「これ以上乙彦に助けてもらったら、もう私には返しきれない。むしろ、私が重荷なの!……お願いだから、もう私に近づかないで……!」
「――っ」
乙彦が今度こそ絶句した。小姫は顔を上げかけて――再び下を向く。
この時のことを想定して、何度もシミュレーションを繰り返した。今まで助けてくれたことに感謝して、心からのお礼を言って、お互いの将来のために前向きな別れをするはずだった。それなのに、こんな最悪な結果になってしまうとは。
乙彦はきっと、生半可なことでは小姫から離れたりしない。だとしても、ここまで傷つける必要があったのか。自分が傷つくべきなのに、なぜ乙彦が傷つかなければならないのか。
目頭が熱くなるなんて狡すぎる。彼を傷つけているのはこちらの方なのに、まるで自分が被害者みたいな有り様ではないか。
せめて、もっと冷静に告げるべきだった。感情を露にして叫ぶなんて、未練があることを自ら暴露しているようなものなのに。
「……そんなに、私が側にいると嫌なのですか」
しばらく黙った後、乙彦が、途方に暮れたような声で言った。心臓がぎゅっと縮んで、とっさに否定しそうになったのを、唇を引き結んで耐え忍ぶ。
(そんなわけ、ない。乙彦が側にいてくれて、すごく安心した。これがずっと続いたらって、思ってた。……だけど、駄目なんだよ。だって……、だって、乙彦は――)
大きく息を吸う。息を止める。今度こそ、動揺を隠して最後まで言い切る。そう決めて、口を開く。
「――そうよ。乙彦の側にはいられない」
「……ヒメ」
「乙彦と結婚なんて、絶対にできない」
「――……」
乙彦の目を見て、断言した。本気で、真剣に、そう思って彼に伝えた。
……乙彦が、息をのむ気配がした。
(……ちゃんと、言えた……)
小姫の目が潤む。
今度こそ、冷静に。一言一言、きっぱりと言った。言い切った。
しかし、これ以上は無理だった。もう、何も言うことはできない。今、口を開いたら――泣いてしまいそうで。
そのまま踵を返して、教室へ戻ろうとした。
だが。
「……ヒメ! なぜ、私ではいけないのですか……?」
乙彦の言葉に、足を止めてしまった。逡巡した後、よせばいいのに、振り向いてしまう。
もし、怒った顔をしていたら……。もし、傷ついた表情をしていたら……。
どう答えるか想定していたのに、建物の影で、乙彦の顔はよく見えなかった。
――だから、言おうとは思っていなかった本音が、ぽろりと口からこぼれ出た。
「だって、乙彦……、私に恋愛感情なんてないじゃない……」
「――え……?」
「私のこと、好きになってはくれないでしょ……?」
言った直後に後悔した。ここまで耐えたのに、言葉とともに涙がこぼれてしまったから。
泣き顔なんて、絶対に見られたくなかった。見られてはいけなかった。乙彦から顔を隠し、背を向けて、二度と立ち止まらない決意をして走り出す。
二度と。二度と。二度と……!
階段を上り、生徒たちの間をすり抜け、自分の教室の前まで来てやっと足を止めた。
心臓が信じられないほど早く、激しく鳴っている。呼吸が上手くできずに何度もせき込む。全身が熱くて、それ以外の感覚をどこかへ置き忘れてしまったようだった。
「えっと……、大丈夫、日浦さん?」
呆気に取られていたクラスメイトに声をかけられ、小姫は心配しないでと笑いかけた。
教室に足を踏み入れながら、廊下の奥へ視線を向けたが、乙彦が追ってきた様子はない。
力が抜けて、小姫は小さく笑う。
――乙彦は、私に恋なんかしていない。
「……嘘でもいいから、否定してくれたらよかったのに……」
うつむいた頬に、また一滴、涙が流れた。