12.
学校でも、小姫はそわそわと落ち着かなかった。
乙彦のことではない、花火の件だ。明日は土曜なのに、授業なんか受けている場合なのかと自問自答を繰り返しているうちに、午前の課程は終了した。昼休みになると、いてもたってもいられず、手掛かりを探して校内を当てもなく歩き回った。
無駄なことをしているとわかっているが、気が急いて仕方がなかった。少し頭を冷やそうと、一階の渡り廊下で足を止める。
ここは半屋外になっていて、壁がないので直接外へ出ることもできる。小姫は、自分の気持ちと同じようにどんよりとした空を見上げた。
晴れでもなく、雨でもなく、どっちつかずのうやむやな天気。それはそのまま明日をも表しているようで――、小姫の心に、さらなる迷いを生じさせる。
(いっそ、土砂降りの雨でも降ってくれたら――)
そうしたら、花火は中止だ。お祭りも中止かもしれない。小姫も悩む必要がなくなり、諦めもつくだろう。みんなとお祭りに行くという予定もなくなってしまうが……、それはいつものことだし、慣れている。
そんな考えがよぎる小姫をたしなめるかのように、通り過ぎる生徒たちのおしゃべりが耳に飛び込んでくる。
「ねえ、明日、何着て行く?」「今年はどの屋台を周ろうか」「花火を見るのにいい穴場って知ってる?」「初めて彼が誘ってくれてね……」。
教室内での話題も、お祭りに関してのものがほとんどだった。熱に浮かされたような雰囲気が漂い、楽しみにしている気持ちがこちらにも伝わってくる。
(……やっぱり、そうだよね。みんな、楽しみにしているのに……。私、滅茶苦茶なこと思ってるなあ……)
焦るあまり、全てを投げ出したくなってしまった。小姫は反省して、窓から空を眺める。
まだ、雨は降っていない。明日にもなっていない。
分厚く暗い雲に覆われた空も、まだ可能性がゼロではないことを表しているのかもしれない。
小姫は気合を入れるよう、パン、とスカートの上から太ももを叩いた。
「……よし! もう少し聞き込みを――」
「――日浦さん?」
ちょうど顔を上げた時だった。背後から声をかけられて、小姫はまさかと思いながら振り返る。
「五月君……!? こんなところで、何してるの?」
小姫は目を丸くした。
空調は効かず、渡った先に特別教室しかない廊下だ。必要がなければ、誰も近づかないような場所である。先ほど通って行った、午後の授業を控えた生徒たちならともかく、小姫たちの次の授業は国語だった。いつも友達に囲まれている五月は、宿題を写させてくれだの、放課後どこに寄りたいだのと、机でだべっている印象があった。
小姫の質問に、五月はきまり悪げな表情になると、髪を落ち着きなく触りながら、重そうに口を開いた。
「あー……、えっと、たまたまっていうか……。なんか朝から忙しそうで、見てたらこっちの方へ行くから、何かなって思って……」
「え……?」
(……もしかして、心配して探しに来てくれた?)
目の前が、ぱっと明るくなったような気がした。ひたすら孤軍奮闘していたから、気遣ってくれる人がいるだけで、単純に嬉しい。しかもそれが、五月ならなおさらだ。
しかし、まさか気にかけてくれているとは思わなかった。
変な言動をしていなかっただろうか。朝からの行動を、脳内で超高速で巻き戻しながら、何気ない振りを装って五月に向き直る。
「もしかして、クラス委員の仕事? 何か、手伝えること、あったりする?」
「えっ? ……あ、ありがと! でも、大丈夫。えっと、やらなきゃいけないことは終わったし、私も、もう少しで戻るつもりだったから……」
「あ、そ、そっか……」
「…………」
だが、五月は立ち去ろうとしなかった。もしや、一緒に戻ろうということなのだろうか。しかしそんなことをしたら、クラスメイトに勘繰られてしまいそうな気がするのだが……。
なんともいえない空気が流れた。さすがにいたたまれなくなったころ、五月が「あ、あのさ!」と自棄になったような大きな声を出した。
「ごめん! 実はちょっと話したくてさ。明日の約束、覚えてる?」
五月の頬がうっすら赤く、顔はやたらとこわばっている。小姫もつられてかしこまった表情になり、大声で返事をした。
「お、覚えてるよ! もちろん!」
明日はクラスのみんなで集まってお祭りに行こう。そう誘ってくれたのは五月である。
もちろん行きたいと思っているが、まだ枕返しの件が解決していないから、実際に参加できるかはわからない。もし、ここまで長引いていなければ、もっと楽しいカウントダウンになったはずなのに残念だ。
「そっか。ならいいんだけど……。あれさ、結局、みんなで行くって話になっちゃったから、しょうがない……っていうか、それはそれでいいんだけど! でも、もし、日浦さんが嫌じゃなかったら、途中、少しだけ俺に時間くれないかな?」
「え……?」
小姫は驚いて目を見開いた。それはどういう意味だろう。もともとは、小姫だけを誘うつもりだったということだろうか。
だが、それは、つまり――。
「――あ、それで、時間とか場所とか連絡するから、連絡先教えてほしいんだけど!」
小姫がぽかんとして黙ってしまったせいか、五月が焦ったようにスマホを取り出した。頭が真っ白になった小姫も、言われるがままにスマホを出して操作する。
「――じゃ、じゃあ、また明日……!」
連絡先の交換が終わると、彼は慌ただしく去って行った。
明日というか、すぐに午後の授業で再開するのだが、そんな些細なことはどうでもいい。小姫はぼうっとした表情で、彼が廊下を曲がるまで後姿を見送っていた。
(――もしかして、五月君って私のこと……?)
最初に祭りに誘われたとき、確かに小姫も、デートの誘いかと思って期待した。その後すぐに、クラスみんなで行くのだと判明してがっかりした。
それでも、クラスメイトと学校外で集まるのは初めてだから、嬉しいことには違いなかったのだが。
(……私の勘違いかと思ったけど、やっぱりそういうことだったの?)
だとしたら……。だとしたら、どうすればいいのだろう。
五月は爽やかだし、イケメンだし、性格もいい。まさに小姫が理想として描いていた彼氏そのものだ。こんな田舎で王子様に出会うのは無理なのでは、と、うすうす諦めかけていたのだが、思いがけない幸運が訪れた。
地に足がつかないとは、こういう状態をいうのだろうか。まるで現実ではないみたいに、体全体がふわふわしている。
……もしも本当に五月と付き合うことになったら。
様々なシチュエーションが映像として頭の中を流れていく。
手をつないで登下校したり、放課後にお店に寄ったり。遊園地や水族館でデートをしたりするのもいい。誕生日やクリスマスにはもちろん、プレゼントを贈り合って……。
ずっと夢見ていた彼氏と過ごす毎日。それは本当に夢のように、虹色の光に満ちてキラキラしている。
――そう、本当に、儚い夢のように。
(……どうして……?)
掴もうとすれば掴める距離にある。それなのに、なぜか、手を伸ばす気になれなかった。
(……怖いの、かな。夢が叶っちゃうのが……。それとも、憧れが強すぎて、現実だと思えないとか? ――それに、まだ五月君が本当にそうか、はっきりしたわけじゃないし……)
だが、明日にはそれもわかるだろう。五月の口から直接聞けば、実感もわくかもしれない。
多少落ち着きを取り戻した小姫は、まだわずかに鼓動の早い心臓をなだめながら、教室へ向かおうとした。しかし、その時聞こえてきた声に、冷水を浴びせられるかのような思いを抱く。
「――そういうことだったのですか」
「――っ!」
心臓が止まるかと思った。すぐ後ろから、聞こえるはずのない声がしたのだ。
確かめたくない。振り返りたくないのに、勝手に体が動いて、その姿を視界に入れてしまう。
「乙彦……?」
そこには、今まで決して校舎内には入ってこなかった乙彦が、表情を消して佇んでいた。