11.
次の日の朝になっても、弥恵はまだ帰って来なかった。
「ごめんねえ。いったん戻らせてもらえないか頼んでみたんだけど、そうしたら機嫌を損ねちゃって。今はかがり様に、青峰君が徹夜で隠し芸を強要されているわ」
「……か、隠し芸……?」
神の声が電波に乗るのかはわからないが、スマホからは件のかがり様の声は聞こえない。しかし、時折、青峰の悲鳴や瀬戸物の割れる音が響いてくる。何をさせられているのか不明だが、困惑と恐怖しか感じない。
両方とも事態は膠着しているようだ。せめて何か進展はないかと尋ねてみるも、弥恵からの返事も芳しくはない。
「こっちも新しい情報はないわ。その妖怪について少しでも何かわかれば、調べようもあるんだけど。花火玉に入るくらい小さい、だけじゃなんともねえ」
「うん……。わかってはいるんだけど……」
小姫は頭を抱えた。目撃者は見つからないし、花火の玉は何度話しかけても無反応。昨夜、乙彦を通して枕返しにもう一度尋ねてみたのだが、同じことを繰り返されただけだった。
「うーん。例えば名前がわかれば、突破口が開けるかもしれないんだけどねえ。妖怪っていうのは、名前を呼ばれたら何かしら反応をするものだから」
「……そっか、名前……」
やはり、閉じ込められた妖怪の正体を知る必要がある。しかし、どうすればいいのだろう。
自分で思いついた方法は、すべて試してみた。それでも、名前どころか、何の情報も掴めていない。これ以上、時間をかけたところで、解決は絶望的だと思えた。
情けない。
枕返しから相談されて以降、二日間も経ったのにこのありさまだ。自分でできるだけのことはやってみるなんて言っておいて、これではあまりにもふがいなさすぎる。
「――ねえ。お母さんなら、こんなときどうするの? 妖怪の正体はわからないままなのに、明日の夜には花火が上がっちゃうし……。妖怪を助けるには花火を中止するしかなくて、でも、本当に妖怪が閉じ込められるかどうかの確信もなくて……、私、これ以上、どうすればいいかわからないよ……」
しゃべっているうちに、どんどん気分が沈んでいった。
人と妖怪の間の確執をなくすため、やれることをやろうと思った。しかし、この数か月、ろくに何もできていない。小姫に甘い乙彦は、妖怪に歩み寄ろうという姿勢だけで嬉しいと言ってくれるが、それで満足していいわけがない。
乙彦に助けてもらってさえ、自分には何もできなかった。枕返しの信頼にも、応えることができなかった。結局、弥恵に丸投げし、尻拭いをしてもらうことしかできないのだろうか。
それは、悔しい。途中で投げ出すなんてことはしたくない。だが、一番避けなければならないのは、このまま手をこまねいて、どちらも失敗に終わることだ。
だから、自分の無力さを嘆くことになっても、助ける手段を持っている人に助力を乞うことにする。無責任だと言われても仕方ない。小姫は唇を引き結んで、弥恵の言葉を待った。
「……うーん……」
弥恵のことだから、あっさり解決策を示してくれると思った。が、予想に反して彼女は言いよどみ、唸ったあとは、黙ってしまう。珍しく困ったような声音に、小姫はスマホを片手に首を傾げる。
「……お母さん?」
「ねえ、小姫はそれでいいの?」
「え……?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わず、小姫はきょとんとする。
「だって……、このままじゃ、何もできないまま明日を迎えちゃう。私のせいで、妖怪が死んじゃうかもしれないんだよ? そんなの私――」
「でも、まだ、今日も、明日もあるじゃない?」
「え――」
あまりにもあっけらかんとした口調に、小姫は絶句してしまう。
「うーん、まあ、ね? お母さんだって、本当に小姫がお手上げだったら、どうするかは考えてあるわよ? でもほら、お母さんのは、汚い大人のやり方だから。例えば……そうね、私なら、花火は中止して他の方法を考えるわ」
「え? ……中止!?」
思いがけない返答に、小姫は一瞬ぽかんとした。そこで、弥恵がそんな手段を取ることを想像もしていなかったのだと気づかされる。
「そう。私が悪者にならない、やむを得ない理由を作り出してね。乙彦君がいれば、突発的な大雨、とかできるかしら? そして、違うイベントを用意して、花火会社への補償を考える」
「で……っ、でも、本当に妖怪が閉じ込められているかも、わからないのに……!」
「ええ。でも、可能性はあるわけでしょ? 命がかかっていることに、一か八かの賭けはできないわ。私は調停者だから、妖怪にも、人間にも、肩入れはできない。実際、肩入れしていなくても、そう思われただけで信用されなくなっちゃうのよ。だから、花火を中止するときも、私の仕業だってばれないようにしなきゃならないわ」
「…………」
だが、それでは、乙彦が言ったのと同じ方法になってしまう。
花火師たちが懸命に作った花火玉をこの手で全滅させ、自然災害のせいだとうそぶくのか。花火を楽しみにしていた村人たちに、違うおもちゃを与えて目を逸らさせるのか。
そんな。それではあまりにも――。
「――ねえ、小姫」
沈黙を反発と受け取ったのか、弥恵が声をやわらげて続けた。
「別に脅すつもりも、追いつめるつもりもないわ。だけど、今やめたら、きっとあなたは後悔する。今言った方法に少しでも納得できないところがあるなら、もうちょっと頑張ってみたら?」
「……でも……」
「いざとなったら、お母さんがなんとかする。もしくは、乙彦君がね。……だから、そんなに心配することないのよ」
「……、……うん」
小姫はやっとの思いで頷いた。
まだ葛藤はある。自信はない。だが、諦める前に、まだもう少しだけあがいてみたい。
弥恵とこんなに真剣に話をするのは久しぶりだ。いつもはぐらかされてばかりだが、今なら、きちんと答えてくれるかもしれない。
「……ねえ。お母さんは、どうしてそこまで乙彦のことを信頼してるの?」
そう聞くと、弥恵は驚いたように息を吸い、それから小さく噴き出した。
「だって、乙彦君は同じだもの。ちょっと立場は違うけど、小姫のことが、大事で大切」
茶化した口調になったので、小姫もあえて無感動に聞き返す。
「えーと、意味がよくわからないんだけど?」
「だから、乙彦君は基本的に妖怪側に肩入れするでしょ? だけど、小姫の味方でもあるってことよ」
「――……」
わかるようで、わからないような。
弥恵と同じ、ということは、父親みたいな気分ということだろうか。
(そんなの、嫌なんだけど……)
小姫が言い返そうとしたとき、ドアが静かに開く音がし、わずかに空気が揺れた。横を見る前に、聞き慣れた声が届く。
「母上様はなんて言ってるのです?」
「――っ! び、びっくりした……っ!」
耳元で話しかけられて、心臓が止まるかと思った。タイミングが悪すぎる……、いや、この場合は良すぎるのだろうか。
驚いた拍子に通話を切ってしまったが、再度電話をする気にはなれない。何て言おうとしていたのかも、頭の中から吹っ飛んでしまった。
……それより、まさか、今の話を聞かれていたのでは……。
「な、な、何の話……?」
心の中を覗かれた気分で、恐る恐る聞いてみる。不自然にどもってしまったが、乙彦は気にしていないようだった。
「何のって、花火の妖怪のことに決まっているのです。祭りは明日なのですよ?」
「わ……、わかってるわよっ!」
動揺が収まらず、ついけんか腰になってしまって、小姫は反省した。
乙彦は心配して来てくれたのだ。こんなタイミングで出てきたからといって怒るのは、お門違いというものだ。
深呼吸を三回繰り返し、心の中で気合を入れてから、乙彦に向き直る。
「えっと、お母さんは、もう少し手掛かりがあれば、妖怪の名前がわかるかもって。名前を呼びながら探せば、何かしら反応するんじゃないかって言ってたわ。でも、その肝心の名前を知る手掛かりがないんだけど。で、どうやら向こうの――えっと、かがり様っていう神様につかまっちゃって、まだ帰れないみたいなの」
「ふうん……、ん? かがり……?」
乙彦があさっての方角に視線を投げた。何か思い出そうとしているような横顔である。
「? どうかしたの?」
「かがり……、聞いたことがあるような気がするのです。確か、もともとは火打ち石が変化した妖怪で、たまたま吉兆が続いて人間に神とあがめられたとか。それで神に進化したのが、そんな名前だった気がするのです」
「――はあ!?」
あまりにさらりと爆弾発言をされ、思わず乙彦の胸倉につかみかかった。
「どういうこと!? かがり様のこと知ってるの!? だったら、早く言ってよ! お母さんたち、あれからずっと、向こうで閉じ込められてるのよ!?」
「く……、苦しいのです」
乙彦は、小姫の指を剥がすと、半歩後ろに下がって言い訳をした。
「本当に知らないのです。会ったことはないですし、岩の神から聞いたことがあるだけなのです。……新参者のくせに面倒くさいやつだとか、わがままで礼儀知らずだとか言っていたような……。頼んでもないのに一年に一度やってきて、やれ道幅が狭いだの、木の根っこが張りすぎていて邪魔だのとうるさいので、この山を通るのを禁止してやったと、数年前に言っていたのが最後だと思うのです」
「……え?」
知らないと言いつつ意外とよく知っている。しかし、問題なのはそこではない。弥恵たちがせっせと整備していたのは、乙彦の言う岩の神が管理していた山のはずで――。
「この山って、そこの山のことよね? お母さんたちが通っていった……。え、そこ通ってこないの? じゃあ、今はどこ通ってきてるの!?」
「知らないのです」
「じゃ、じゃあ、かがり様を懐柔する方法とかは……!」
「ですから、知らないのです」
「~~~っ、もうっ!」
中途半端な情報だが、再度、弥恵に電話して内容を伝える。彼女は「あらまあ」と声を上げ、「全身筋肉痛になるほど頑張ってくれたのに……青峰君になんて言おうかしら」などとのんきにつぶやいている。
とりあえず、伝えるべきことは伝えた。先ほどの話の続きをする気はないので、小姫はさっさと切電してスマホをしまう。
しかし、どういうことだろう。数年前から岩の神が整備していた道は通れなくなった。だが、それ以降も、弥恵がどこかを掃除していた様子はないし、毎年同じ道を使っているのだと信じこんでいた。
それなら違う道を来ていたはずだが、それはどこの道なのだろう。それに、誰が整備していたのだろうか。その道の準備ができていないと言っているのは当のかがり様だが、神様ともあろう方が自分で整備していたとは思えない。
「あ~~、もうっ! 問題が増えちゃったじゃない!」
小姫はかんしゃくを起こしかけたが、冷静になってみると、向こうの神様のことは小姫にはどうしようもない。小姫がやらなければいけないことは変わっていないのだ。一年に一度しか来ない神様のことは、弥恵と青峰に任せるしかないだろう。
「……ん……?」
何か引っかかりを覚えたが、隣に突っ立っている乙彦を見た瞬間、霧散した。半眼になって、問いかける。
「ところで、乙彦は何でうちの中に入ってるの?」
「ちゃんと起きているか様子を見に来たのです」
当然のようにそう言うと、手を伸ばし、小姫の目の下あたりを指の甲で撫ぜた。おそらく、クマができているのだろう。恥ずかしくなって、乙彦を両手で押しのける。
「ちゃ、ちゃんと起きてるわよ! だから、勝手に入ってこないで!」
昨夜は、枕返しと会話するため、仕方なく、仕方なーく部屋に入れただけだ。家の中を我が物顔で出入りできるなどと勘違いされたら困るのだ。
だが、乙彦は面白そうに目を細めて、扇子の影で笑った。
「ヒメに呼ばれた気がしたので」
「えっ……」
呼んではいない。だが、電話で弥恵と乙彦の話をした。その時に名前を出した気はするが……。
「よ、呼んだっていうか、お母さんとちょっと、そういう話はしたけど……。もしかして、それで来たの? 名前を呼ばれるって、何か特別なわけ?」
花火玉に閉じ込められた妖怪も、名前を呼ばれたら反応するだろうと言っていた。まさか、強制力が働くとか、そういうことだろうか。
「ご、ごめん……。私、乙彦の名前、今まで呼びすぎてた……?」
これまでずっと湯水のように使っていたのを思い出して、小姫は青ざめた。もっと節約すべきだったのかもしれない。これからは控えるべきかと逡巡していると、乙彦が距離を詰めてきた。
「いいえ。ヒメにならいくらでも。あなたが私の名を呼ぶなら、いつでも、どこにいても、すぐに駆けつけるのです」
目元を緩め、小姫の髪から頬にかけて、長い指をそっと這わせる。金縛りにあったように動けないでいると、親指が唇に触れて、小姫の心臓が大きく打った。
「――それで? 私の話をしていたのですか?」
「――っ」
からかうような目の光に気づき、小姫は慌てて身を引いた。赤くなった頬を隠すように、腕を顔の前に上げる。
「――だからっ、何でこういうことするのっ!?」
「こんなこととは? 婚約者なら、普通ではないのですか?」
「~~~っ」
(――だ、だから、何でそういうことを抜け抜けとっ……)
顔がものすごく熱い。登校できる状態じゃないかもしれない。
急いで洗面所に駆け込むと、予想よりはだいぶましな顔色の自分がいた。ほっとしたが、前髪に違和感を覚えて鏡に顔を近づける。いつもの地味なヘアピンが留められていたはずのところに、いつの間にか見たことのない物体が付けられていた。
(え、何これ。私、こんなの知らな……い……?)
いや、見たことがあるような気がする。笹の葉を象った長さ五センチほどのヘアピンは、後ろに立つ乙彦の耳飾りとそっくりで――。
「――私のものだという証なのです」
「ひゃあっ! ちょ、いつの間に……!」
慌てて取ろうとしたら、その手を止められた。背後から抱きかかえるように掴まれているせいで、頭や背中にも乙彦のひんやりとした体温が伝わってくる。鏡の中の小姫の顔が、またじわじわと紅潮していくのが見えた。
「おそろいなのです。もし外しても、何度でもつけ直してあげるのです」
「~~~っ、わかったわよ! ただのピンとして! ただのヘアピンとしてつけてあげるから!」
とにかく乙彦から離れたい一心で、小姫は笹の葉飾りを受け入れた。すると、彼はつかんでいた腕をあっさり離し、にこにこと満足げにヘアピンと小姫の顔を眺め始めた。
乙彦とおそろいの笹飾り――動転してよく見なかったので、もう一度ちゃんと確認したい。が、気にしていると思われるのも腹が立つ。仕方なく、通学の準備をするふりをしながら、こっそり鏡を横目で見た。
乙彦からつけられたそれは、ぱっと見、本物の笹の葉に見えた。しかし、触っても指が切れそうな鋭さはなく、プラスチックとも違う素材のようだ。それほど目立たない――というかむしろ地味な方なので、学校で着けていても校則違反にはならないだろう。
(ちょっと、かわいいかも……)
なんとなく、乙彦の耳で揺れる笹の葉に目をやってしまう。そして視線は、首の線から下へと流れていき、鎖骨へとたどり着いた。
乙彦が身に着けている淡い青色と黄緑色の着物は襟ぐりは深く、鎖骨の下まで肌が見えている。華奢に見えるが、力は意外と強い。妖怪の力の強さは、身体的外見とは比例しないのかもしれない――……。
「……どうかしたのです?」
視線に気づいた乙彦が流し目を寄こした。小姫は息が止まりそうになり、勢いよく首を横にぶんぶんと振った。
「っ! み、見てないから! 何も見てないから!」
「? 何を言っているのです?」
「――私、学校へ行くわ!」
話の腰をバッキリ折って、小姫は宣言した。
これ以上二人っきりで家の中にいてはいけない。そんな危機感を抱いた小姫は、有無を言わさず乙彦を家の外へ追い出した。
(乙彦はそう、私の保護者か何かのつもりなのよ! 絶対絶対、騙されないんだから。私はちゃんと、私を好きになってくれる人を、好きになるんだから……!)
何度も言い聞かせて、揺れ動く感情をなだめ、戒める。そうでないと、どこまでも乙彦は入り込んでくる。家の中どころか、小姫の心の奥深くまで……。
それはだめだ。絶対にだめだ。本当は、こんなヘアピンも、乙彦からもらうべきではないのだ。見るたびに彼を思い出す物なんて。彼の想いを形にした物なんて。
――だが、外す気になれず、あえてそれを見ないようにして、食器を片付け始める。
(だって……仕方ないよね。乙彦に、もらってあげるって言っちゃったし……。さっきまで着けてたやつは、乙彦がどっかやっちゃったし……)
そう、心の中で言い訳する。
しかし、片付け中に皿を割ってしまうわ、何もないところで躓くわ、エプロンを着けたまま玄関から出てしまうわ、小姫の動揺はしばらく収まらないのだった。