10.
次の日も、学校帰りに花火工場に寄ることにした。
一通り見回ったが、やはり何の収穫もない。花火師たちの迷惑そうな視線を浴びせられ続けた小姫は、疲れ切って工場を後にした。
「あー、もう、どうしよう……。お祭りはあさってなのに」
弥恵はまだ帰ってこない。何かヒントだけでももらえないかと、藁をもつかむ思いで電話をしてみた。しかし、弥恵からもいい案は出なかった。
それどころか、
「実はねえ。かがり様につかまっちゃったのよ」
と、重大そうな事件を、全く深刻ではない口調で告げてきた。
かがり様というのが、今回迎えに行った神様の名前らしい。割と新しい神様で、自分の社がないのをいいことに、全国を飛びまわって願いをかなえているという。
しかし、やはり神だけあって、タダで、というわけにはいかない。その神様は、それなりの待遇と接待を要求してくるらしいのだ。
もちろん日無村としても、お酒やご馳走を用意してその神を迎えるつもりだった。なのに来訪されなかったのは、その神様に動く気がないことが原因らしい。
「かがり様がおっしゃるには、準備ができていないらしいの。だから、まだ移動するつもりはないんですって。その間、暇だから相手しろって言われてしまって」
「準備? 準備って?」
「それがよくわからないのよねえ。でも、道がどうのこうのおっしゃってるから、うちの村に続くあの山道を整えなきゃいけないんじゃないかしら」
その道は、往路である程度整備したつもりだったが、当の神様はご不満のようである。そのため、青峰はもう一度山へ戻って、枯れ枝を取り除いたり、丈の長い草を刈ったりしているという。
ただし、出られるのはそこまで。それ以上日無村に近づこうとすると、気が付いた時には隣村の中心部に戻されているというのである。
つまり、弥恵と青峰は、隣村に閉じ込められてしまったのだ。
電話やインターネットなどは規制されておらず、村長としての仕事はなんとかなると彼女は言うのだが……。
「……最悪な神様じゃん……」
(こっちでは花火玉に閉じ込められ、向こうでは村の中に閉じ込められ……。なんてややこしいの!)
ちなみに、花火玉に閉じ込められたかもしれない妖怪の正体に心当たりがないか聞いてみたが、情報が少なすぎて、彼女にも見当がつかないようだった。その妖怪の方に何か特徴があればと思ったのだが、空振りに終わる。
小姫は気を取り直して、工場の周辺も調べてみることにした。
宵闇が迫る中、小石で埋め尽くされた川原を慎重に歩く。何か手掛かりはないか、他に目撃した妖怪はいないか、目を皿にして見て回った。
……どのくらい時間が経っただろうか。暑さと疲労で体が重い。やがて、月光に輝く水面が目に映り、小姫は足を止めた。
「……まだ、帰らないのですか?」
途方に暮れかけた小姫の横に、乙彦が音もなく降り立った。そうだ、一人ではなかったのだと思わず目が潤みそうになり、慌てて横を向いて唇を尖らした。
「だって、何も見つかってないんだもん。……ねえ、この辺りに住んでる妖怪っていないの? 乙彦は、誰か知らない?」
「さあ。妖怪自体、数が少ないので。……それに今は、人間と好んで話をしたがる妖怪はほとんどいないのです。それは、ヒメが母上様の娘であっても変わりはないのです」
「……あ、そう……」
もはや、ため息すら出ない。
実は今日、花火玉に声をかけるとき、「調停者の娘だから安心して」とこっそり呼びかけていたのだ。小姫としては、ただの人間よりは信頼が得られやすいかと思ったのだが、どうやら徒労だったらしい。疲れが倍になって肩にのしかかる。
しゃがみ込んでしまった小姫を見下ろし、乙彦が扇子を口元に当てて囁いた。
「やっぱり、全部、水没させるのが安全なのです」
「だから、それはダメだってば」
弱々しくも頑なな返答に、乙彦は少し、目を細めた。
「……そんなに、その祭りが大事なのですか?」
「……それは――」
小姫は口ごもった。
お祭りは、もちろん大事だ。村の人たちも楽しみにしているし、祭りの目玉である花火大会は、やっぱり無事に決行されてほしい。
しかし、だからといって、妖怪の命を犠牲にしてもいいと考えているわけではない。
小姫は乙彦に見えないように唇をかんだ。
人間に妖怪が見えれば、ここまで難しい話ではなかったはずだ。そもそも花火玉に閉じ込められることもないし、そんな可能性を考える必要もない。
万が一、何かの偶然で閉じ込められてしまったとしても、妖怪の存在が広く知られている時代だったら、説明もしやすかっただろう。たとえ見えない人であっても、そんなこともあるのかと信じてくれた可能性がある。
しかし、今は――。
昔と違い、今は妖怪の存在自体が知られていない。見える人もほとんどいない。むしろ見えるのがおかしいくらいだ。もし見えたとしても、見間違いか、はたまた何かの突然変異かと疑うだけで、妖怪の存在と結び付けたりしないという。
見える人でも、妖怪だとは思わないのだ。まして、見えない人にとっては、見えない妖怪はいないのと同じに違いない。
閉じ込められたかもしれないのが、もし人間だったら。きっと、迷わず花火を中止する。
(でも……。見えないものを……、いないものを助けてほしいなんて言っても、通じないよね……)
人のために妖怪が犠牲になる。そんな現状を打破したくて、小姫は妖怪のことを知ろうとした。しかし、今のところ、何も成し遂げられていなかった。この数か月、ただいたずらに時間を消費してきただけで、一歩も前に進んでいない。
(……乙彦をこんなに付き合わせて、乙彦の意見に反対ばっかりして。……それなのに何もできてない。……私、今まで、何やってたんだろ……)
乙彦が怒るのも無理はない。自分のふがいなさに泣きたくなる。
そんなふうに落ち込んでいたせいで、乙彦の問いに答えることを忘れていた。重ねて質問され、そのことに気づく。
「ヒメが祭りにこだわるのは、約束をしたからなのです?」
「……え?」
(約束……?)
何のことかわからず、小姫は首を傾げる。
「今日の放課後、渡り廊下で、待ち合わせの時間と場所を話しているのが聞こえたのです。彼らと祭りに行くために、そこまで頑張るのですか?」
小姫に思い出させるように、乙彦がはっきりした口調で言い直す。乙彦の言いたいことに気づき、小姫はぎくりとした。
「そっ――、そういうことじゃ、ないよ。……もちろん、行きたい気持ちはあるけど……」
否定したが、内心の動揺が後ろめたさを物語っている。小姫は観念して、取り繕うのはやめることにした。
「えっと……、でも、そう。乙彦が聞いた通りだよ。実は昨日、クラスメイトに誘われたの。夏祭り、皆で一緒に行かないかって。……でね、私、そういうのって、初めてだったんだ。いつも、村長の娘だからとか、クラス委員だからとかで、そういうイベント、避けられちゃって。だからすごく、嬉しくて……。だっていつも、一人だったから……」
「…………」
このことは、誰にも、弥恵にも言ったことはない。
夏祭りのときも、小姫は一人だった。弥恵は準備で忙しく、数年前から来ている青峰も、その手伝いにかかりきり。小姫はこっそり一人で覗きに行くか、家の二階か高台で花火を眺めることしかできなかった。
乙彦は何か言おうと口を開きかけ――、そのまま閉じてしまった。その仕草に、小姫は焦って付け足した。
「あ、でもね! できれば行きたいってだけ! どうしても行きたいから中止したくないとか、そういうことじゃないの。私のことなら、参加できなくても慣れてるから平気なの。だから……、ほんとに、みんなをがっかりさせたくないだけ」
「…………」
乙彦は信じてくれただろうか。あと、変な同情とかされていないだろうか。もし今のでかわいそうな娘とか思われたら……悲しすぎる。
「えっと、それで……花火のことよね!? これからどうするか、もう少し考えてみる! だからえっと……、乙彦も! 何か他にすることあるなら、私に構わなくていいから!」
声を張り上げ、強引に話を変える。あからさまな話題転換に不審な目を向けられるかと思いきや、乙彦はなぜか不敵に笑った。
「他のこと? そんなの、あるわけがないのです。あなたを見守るのが私の日課なのですから」
至極当然のことのように言うので、小姫はちょっと怖くなった。
「な……、なんでそこまでするの? ……あ! 婚約者っていう言い訳はなしで!」
「なしで……?」
乙彦は思いがけないことでも言われたかのように目を見開き、それからじっと考え込んだ。あまりに沈黙が長いので、小姫は次第に不安になり、それからドキドキし始めた。
(もしかして……いや、まさかね、そんなわけ……。で、でも……)
小姫に凝視されていることに気づかず、乙彦はやがて、「あなたには、返しきれない恩があるので」とつぶやいた。言葉にできない疲れが小姫の全身を襲う。
「……あっ、そう……。恩。恩ね……。やっぱりそうよね。……でももう、恩はさ、返してもらったと思うのよ……」
予想どおりの答えだったはずだ。何を期待したのだろう。
ため息をつきながら言うと、乙彦は首を横に振った。
「全然、返せていないのです。あの日から、私はずっと、見ていただけなのです。恩返しできるとしたら、これからなのです」
小姫を見つめる彼の瞳の真摯さに、小姫は戸惑った。
「ずっと……見てたの? ……十年も?」
「十年なんて――……」
言いさして、乙彦は、ふっと苦笑した。
「……いえ、ヒメを思い切ろうとしていたあの頃は、とても苦しい日々だったのです。ですが、今となっては、あっという間だった気がするのです……」
「――……」
――十年前。
小姫は交通事故で、左腕と左足を失い、命を落としかけた。当時の記憶がないので実感はないが、乙彦をかばって犠牲になったのだと聞かされた。彼はそのことをずっと恩に感じていて、こうして今でも小姫を見守り続けている。
だが、小姫の失った体を補ってくれたのは乙彦だ。そうでなければ、命をつなぎとめることはできなかった。だったら、お互い貸し借りはないはずだろう。少なくとも、乙彦にはもう充分助けてもらった。これ以上受け取ってしまったら、釣り合いが取れなくなる。
顔を歪めた小姫を見て、乙彦は痛ましそうに目を細めた。
「あのようなことが、またあなたに訪れないよう、側にいたいのです」
「そんな……、あんなこと、そうそう何度も起こらないよ」
「そうも言いきれないのです。それに、見ていない方が落ち着かないのです」
「――……」
どう反応していいかわからず、小姫はうつむいた。あの事故のせいで、乙彦はよく思っていないはずの人間を突き放せなくなり、こうして今も束縛されている。
――もう、忘れてもいいのに。
事故はもう、終わったことなのだ。いくら乙彦が返し足りないと思っていたとしても、小姫の中ではもう終わっている。これ以上、彼を縛り続けることは、小姫の望むところではない。
小姫は小さい頃から、一人でいることが多かった。だから、こうして隣にいてくれるだけで、いつも見守ってくれていると思うだけで安心するし、心強い。小姫のことを絶えず気にかけてくれるというのは、とても嬉しいものだ。そのことについ甘えてしまうが……。
――甘えすぎている、のかもしれない。もし、婚約者という立場が彼を縛り続けるなら、そんな枷は外した方が、きっとお互いのためだと小姫は思う。
(……それに、これ以上一緒にいたら――……、……え?)
物思いにふけっていたら、乙彦が小姫の髪に向かって手を伸ばしていた。とっさに頭をかばって飛びのくと、乙彦が驚いたように固まった。
「な、なに!?」
「……何でもないのです」
「……そ、そう……?」
何でもないと言う割には、とても残念そうだ。何をしようとしたのだろう。
(髪にゴミがついてた、とかかな? ……まさか、ただ髪に触れようとしていた、なんてことは……)
顔がじわじわと熱くなってくる。
「え、えっと……!」
いたたまれなさにじっとしていられず、小姫は視線をさまよわせた。すると、川の支流に架かる小さな赤い橋が目に入った。
「あっ、あの橋! えっと、何だっけ……、そう! ほたる橋って呼ばれてるの、知ってる!?」
「――は?」
またも突然に話題転換され、乙彦がついていけずに首を傾げた。
「お、お祭りのときにね、わりと最近の噂なんだけど、あの橋のほとりで告白されると幸せになれるって言われてるの! ね、ロマンチックだと思わない!?」
さすがに話が飛びすぎだ。無理があるとは思いつつも、止まれなくなった小姫は上ずった声でまくしたてる。案の定、呆れたような口調で乙彦が答えた。
「……あれは、ほたる橋なんて名前じゃないはずなのです。それに、この辺りに蛍が出たことは、ここ百年くらいなかったと思うのです。第一、今は蛍の時期ではないのです」
「本当の蛍じゃないのよ! お祭りの時だけ小さな明かりが付けられて、まるで蛍が道を作ってくれてるように見えるらしいの。私もまだ見たことないんだけど。えっと、だから――……」
だから、の先で言葉に詰まった。その理由を察した乙彦が、にやりと口の端を上げた。
「告白の舞台は、星空の見えるレストランではなかったのです?」
「あ、あれは――、プロポーズの話でしょ!? 告白は告白で、別のシチュエーションがあるの! まず、最初は普通に遊びに行って。あ、何人でもいいんだけど。それで、たまたま二人っきりになった時にね――」
普段の勢いを取り戻した小姫の弁舌は、とうとうと続いた。乙彦がそれをおかしそうに見ているのを横目で確認し、小姫は安堵すると同時に胸が鈍く痛むのを感じた。
乙彦は何もかもを小姫に与えてくれた。腕も、足も、失いかけていた命も。
これからもきっとそのつもりだろう。
そのために、婚約などという制約に自ら縛られもする。小姫のことを第一に考え、大切にしてくれる。
だが、それは――、小姫には、重すぎた。重すぎて、耐えられない。それに、本当に欲しいものでは、ない。
王子様みたいな人に恋をして、告白されて、結ばれる。
小姫には、そんな運命的な恋をするという夢があって、乙彦はきっと、その夢はかなえてくれない。
(……うん。まだ、間に合う。まだ、大丈夫……)
小姫はひたすら前を見て、舌が回るままに関係ないことをしゃべり続けた。
勘違いしてはいけない。紛らわしい行動に、心を動かされてはいけない。
乙彦がどんなに小姫を特別に思ってくれていても。
――乙彦が小姫に抱く思いは、恋じゃない。……恋じゃないのだ。