3.
小姫には、恋愛や結婚に対して、確固たる理想がある。
彼氏にするなら、結婚するなら、優しくてかっこいい王子様みたいな人と決めている。決して、乙彦のような、意地悪で口の悪い妖怪ではない。彼にもわかりにくい優しさはあるのだが、理想からは程遠い存在だ。
だから、小姫の当面の目標は、この婚約を早めに解消することである。そうでないと、いざ理想の相手が現れたとき、身動きが取れなくなってしまうからだ。
「はあ……、いい方法ないかなあ」
小姫は学校の廊下を歩きながら、ため息をついた。
暇さえあればずっと、円満に解消する術を求めて頭をめぐらしているのだが、その成果はあまり芳しくない。乙彦が嫌いなわけではないし、婚約を解消するにしてもなるべく嫌な思いはさせたくない。そんな都合のいい方法を探しているからだろうか。
「おっ……と」
眠気のせいで集中力も欠けているのか、持っていた荷物を落としそうになった。滑り落ちかけた教材を抱え直し、慎重に足を運ぶ。しかし、やはり眠さのあまり、足がもつれた。曲がり角でふらついてしまい、向こうから来た人とぶつかってしまう。
「ひゃっ……、ごめんなさい!」
「うわっ……と。――あれ、日浦さん?」
教材をとっさに支えてくれたのは、同じクラスの五月だった。二か月ほど前、日無村に引っ越してきた県外からの転校生だ。この村出身の者にはない洗練された都会のにおいを感じると、女子生徒たちの間ではもっぱらの評判だ。
もちろん、小姫も例外ではない。整った顔立ちに均整の取れた体つき、そして柔らかい物腰は、理想の王子様そのものだ。どうせなら彼が婚約者だったらいいのに、と、何度心の中で思ったことか。
荷物を受け止めてくれたことに礼を言うと、五月は驚いたように「これ全部持っていくの?」と聞いてきた。
「え? うん。私、クラス委員だから。先生に頼まれて」
「ああ……。すごいよね」
「……?」
五月の感想が、「クラス委員をやっているなんて」という意味ならば、全然すごくなんかない。母親が村長なら娘もそういう仕事に向いているだろう、という理由で押しつけられただけだからだ。現に、いつも失敗ばかりで、自己嫌悪に陥ることもしばしばである。
「そういえば、校内の案内もしてくれたよね」
含み笑いをしながら五月が言うので、小姫は頬を赤く染めた。
五月の転校初日、小姫は担任から校内の案内を任されたのである。しかし、あまり外の人間を知らない小姫は舞い上がり、一階から三階までの女子トイレや女子更衣室の場所を、しつこく念入りに説明してしまった。一通り説明が終わった後のぽかんとした五月の顔を、今でもよく覚えている。
「あ、あれは……っ、校長先生が女性になって、それから改装したところで、うちの一番の特徴だからつい力が入って……!」
「一番の、特徴――ぶっ、……い、いや、面白い学校案内ツアーだったよ、うん。おかげで、絶対にあそこには近づかないようにしようって肝に銘じたし」
「ご、ごめん……」
穴があったら入りたい。
しかし、自分の間抜けな失敗一つで彼の笑いを取れたと思えば、安いものかもしれない。少なくとも、相手が乙彦でなかったことだけは、不幸中の幸いだ。
(……あんなの乙彦にしちゃったら、絶対鼻で笑われて、ずっとからかわれ続けただろうなあ……)
乙彦は五月と違って紳士ではない。やっぱり早く婚約を解消しなければ、と心の中で改めて誓う。
「ね、こっちでいいんだよね?」
「――え?」
気が付くと、五月が教材の半分ほどを持って、小姫の進行方向に向かって歩き出していた。
「えっ? ちょっと、五月君――」
「一人じゃ大変でしょ、手伝うよ」
そう言って爽やかに笑う五月に、小姫は思わず感動してしまった。
(かっこいい……。やっぱり、彼氏にするならこういう人だよね……)
頼りになる後姿に見惚れそうになって、小姫は慌てて追いかける。準備室のカギは小姫が持っているのだ。ドアを開けて机の上に荷物を置けば、お使いは終わりだ。
さっさと部屋を出ようとした時、五月が小姫の名前を呼んだ。返事をして振り返ると、彼がそわそわした様子で頬をかいている。
「……五月君?」
どうしたのだろう。いつも屈託のない五月が、あーとかうーとか小さくうめいているのが聞こえる。
「……あのさ。今度の土曜なんだけど、日浦さんって――」
五月がようやく口を開いた。言いにくそうに続けた五月の言葉に、小姫は目を丸くした。