2.
「――乙彦! なんとかしてよ!」
早朝、屋根の上に現れた人影を玄関に呼びつけて、小姫は開口一番、そう吠えた。
「……いきなり、何なのです?」
乙彦は扇子で口元を隠し、大きな目を細めて首を傾げた。左耳に着けた笹の葉の飾りが、軽く揺れてしゃらんと音を立てる。
すらりとした体躯に着物を身にまとった彼は、河童の妖怪だ。今は人間に変化しているので、耳がとがっていて髪が多少つんつんしているのを除けば、二十代くらいの普通の青年に見える。
彼と小姫の間には、浅からぬ縁があった。小学生の頃の小姫が、彼を交通事故から救ったのである。あいにく小姫に当時の記憶は残っておらず、現在に至るまで何も思い出せていないのだが、乙彦にとってそれは大した問題ではないようで、彼女を命の恩人だと公言してはばからない。
それだけなら、小姫がくすぐったく思う程度の話なのだが――、素直に喜んでばかりはいられない事情があった。
「だから、枕返しの話よ! ここんとこ毎日、寝入りばなになると邪魔されて、全っ然眠れないんだから! 乙彦、どうせ暇なんでしょ? 一晩中見張ってて、あいつが出てきたら捕まえてよ!」
小姫はやけくそ気味に怒鳴る。寝不足がたたって、頭も働かず、気力もわかず、心理的に追い込まれているのだ。しかし、だからと言って、こんな身勝手な言い分を唯々諾々と聞いてやる気は、乙彦にもない。
「……小砂利のくせに、私を便利な道具扱いする気なのです?」
(……う)
不快感をあらわに言い返されて、小姫は言葉に詰まった。
いつも周りをうろちょろしているので、ついおざなりに扱ってしまうが、乙彦は別に彼女の奴隷ではない。人間が妖怪を迫害しつつあるこの村内で、人間自体をそこまで好意的に捉えているわけでもない。
というか、逆に小姫を下に見ている感すらある。基本的に小姫を「ヒメ」と呼ぶ乙彦が「小砂利」と呼ぶときは、「人間の小娘が」という意味が込められているときなのだ。
さすがに甘えすぎた、と反省した小姫は、声のトーンを落として、もう一度言った。
「ごめん……、なんか、眠すぎて頭が回らなくて……。だけど、相手も妖怪だし、乙彦なら、ちゃんと話をしてくれると思うんだけど……」
「…………」
乙彦はしばらく観察するかのように小姫をじっと見ていたが、ふ、と目元を緩めて顔を近づけてきた。
「……まあ、ヒメの頼みとあらば、協力するのもやぶさかではないのです」
「! じゃあ――」
「ですが、夜中に婚約者を寝室に招き入れることの方が、ヒメにとって危険かもしれないとは考えないのです……?」
「――っ!?」
意味深に耳元でささやかれ、小姫はとっさに耳をふさいで飛び退った。顔を赤くして口をパクパクさせていると、乙彦が扇子を広げてにたりと笑った。
「枕返しなんて、大した力もなく害もない妖怪なのです。調停者の娘なら、それくらい、自分でどうにかするのです」
「~~~~っ!」
なんだかんだ言って、手伝う気はないらしい。乙彦は現れた時と同様、脈絡もなくふいといなくなってしまう。
残された小姫は、玄関先にへたり込んでこぶしを震わせた。
例の事故で、小姫は左腕と左足を失った。体が修復するまで一時的に妖力で補っているのだが、その妖力を供給しているのが乙彦だ。
小姫がそのことを知ったのは、事故から十年経った今年、乙彦と再開した、つい数か月前のことである。そのとき、彼とのつながりを強くするために結んだのが、婚約者という関係だった。
しかし、乙彦はもともと、そんな関係がなくても力を供給してくれていた。あれから時間が経ち、小姫の体もだいぶ元に戻ってきているというから、彼の負担も少なくなっているはず。だから、無理に婚約関係を続ける必要はないのだが、それ以降もずっと、乙彦は小姫の婚約者を名乗り続けている。そうしてときどき、こうやってからかっていくのである。
しかも、プロポーズもどきもされたのだが……、どこまで本気かわからない。
「……もー! 乙彦の、意地悪!」
とにかく、腹が立つことは確かだった。小姫は乙彦がいるかもしれない屋根の上に向かって、苛立ちをぶつけた。