13.
あれから、一週間経った。
小姫の左腕と左足は消えることなく、今も以前の形を保っている。
あの花の力なのか、はたまた、乙彦の妖力なのか。力の区別などつかない小姫には、考えたところでわからない。
山から戻った時、弥恵には一切の事情を話してある。危険なことをしたときつくお叱りを受けたが、結局は無事でよかったと許してくれた。なんだかんだ言って、小姫には甘いのだ。
乙彦についても話してくれた。面識があったわけではなかったが、小姫の周りで見かけることが多く、十年前の事故との関係があるのではと思っていたそうだ。だから、危害を加えることはないと高をくくっていたのだと、彼女なりに責任を感じていた。
それについては、弥恵は謝る必要はないと、小姫は思っている。
確かに、乙彦は小姫を崖から落としたかもしれない。が、実際に傷つけることは最後までできなかった。弥恵の見立ては正しかった。彼は二度も、小姫を助けてくれたのだから。
その乙彦のためにも、妖怪のことを教えてほしいと頼むと、弥恵は困った顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。調停者を継ぐわけではない。が、その娘として、一人の人間として、何かできることはあるはずだ。
(……そう。乙彦のためにも……)
彼のことを考えると、ちくりと胸に痛みが走る。
乙彦は、どうなったのだろう。
気が付いた時には、洞窟に彼の姿はなかった。血の跡だけを残して、それ以外の痕跡はすべて消えていた。
もし左腕が治っていなければ、あの花の力は乙彦のために使われたのだと思えたのに。
(……この体も、私自身が自覚をもつようになれば、徐々に再生されていくだろうって、お母さんは言ってたけど……)
乙彦の解釈を聞いて、弥恵が立てた仮説だ。妖怪の血を引いているせいで、体の一部が妖力で構成されていても変ではないと体が判断していたのならば、今回の件がきっかけになるだろう、と。乙彦の力に頼らなくても、自然に人間の体に戻るだろうということだ。
――乙彦がいなくても。
小姫は、左手をぎゅっと握った。
これが、乙彦がつくってくれた腕なのかはわからない。だが、彼と手をつないだ感触は、今もありありと思いだせる。この手に、しっかりと残っている。
だからきっと、彼は自力で洞窟を抜け出したのだ。小姫は、そう信じている。
それでも、小姫の前から姿を消したのは、やっぱり憎んでいるからだろうか。もう、他の土地へ行ってしまったのだろうか。
(これから頑張るからって、言ったのに……)
学校へ向かう足取りが重い。土手沿いを歩いていると、一週間前は乙彦の冷たい手に包まれていたのにと思ってしまう。
当時の記憶はまだ思い出していない。それでも、助けてくれたお礼を、まだ言っていなかった。今まで見守ってくれていたお礼すら、彼には伝えていなかった。
今はまだ止められているが、ほとぼりが冷めたら、乙彦が住んでいたというあの山へ、もう一度登ってみようか。一人ではまた心配させてしまうから、今度は青峰に付き添いを頼むことにして。
(……でも、もし、そこにもいなかったら?)
――緩慢ながらも進んでいた足が、ついに止まった。
やるせない感情で胸が詰まる。この行き場のない気持ちは、どうしたらいいのか。
ぶつけられる相手は乙彦しかいないのに、彼は彼で、一人で勝手に自己完結して、別れも言わずにいなくなってしまった。
乙彦だって、ぶつけてくれたら良かったのだ。恨みも、憎しみも。どんな感情も、すべて。
そうしたら、小姫も言い返すことができただろう。喧嘩して、仲直りして――、一緒にいられる道が見つかったかもしれないのに。
「……乙彦の、バカ」
誰もいないことを確認して、朝の空気を肺の奥まで吸い込んだ。ゆるやかに流れる川に向かって、思い切り叫ぶ。
「バーーーカ!」
小姫の全力の叫びは、対岸の木々の葉に柔らかく受け止められ、たっぷりの川の水にあえなく飲み込まれる。それでも、少しだけすっきりした。
小さく息をつき、目元を拭って、足を通学路に戻す。――その時。
「それは、聞き捨てならないのです」
奇妙な言葉遣いが聞こえると同時に、膝からひょいとすくい上げられた。小姫は悲鳴を上げて、目の前の物体にしがみつく。
「――って、乙彦!?」
「馬鹿はヒメの方だと思うのです」
乙彦は小姫を抱えたまま、学校へと歩き始める。
「せっかく私の力からも、私からも逃れられる、いい機会だったのです。それを棒に振るなんて」
「――っ」
突然の乙彦の出現に、小姫は動転した。それでも、二度と逃がすまいと、首に回す手に力を込める。
「だって……、命を助けてもらったのは私の方だったでしょ。乙彦をあのままになんてしておけないよ」
「……また、殺そうとするかもしれないのです」
「そんなの、いつでもできたじゃない。今までずっと、私の側にいたんだから。――乙彦、今まで、守ってくれてありがとう……」
「――……」
泣き顔を見られたくなくて、小姫はぎゅっと、目元を彼の肩口に押し付けた。
トンビが遠くでのんきな鳴き声を上げている。のどかに流れる川の水音と、何かが草の間をカサコソと動く気配がする。
都会に憧れてはいるが、小姫はこの村が嫌いではない。これから、弥恵と、青峰と力を合わせれば、乙彦たち妖怪にとっても住みやすい環境をつくれるだろうか。
乙彦はしばらく黙って小姫を運んでから、わざとらしくため息をついた。そして、やむを得ないといった口調で、おもむろに告げる。
「仕方ないのです。ヒメが嫌じゃなかったら、私は結婚しても構わないのです」
「うん……。……ん!?」
小姫は、聞き間違いかと思って固まった。
今、彼は何と言った。聞き間違いでなければ……。
――もしかして、プロポーズされた!?
「え? ちょ、ちょっと乙彦……?」
「本当はあの時、ヒメの一部を食らったことで、つながりはすでにできているのですが――」
「……え!?」
「こんな間抜けな小砂利、私が一生面倒みるしかないような気がするのです」
「――わーっ、待って! ちょっと待って!」
小姫は目を回しそうになりながら、頭の中を必死で整理する。
あの事故の時から、すでにつながりはできていた。なら、結婚も婚約も必要ないということで……。それ以前に、そもそも腕も足も乙彦の妖力でつくられていたわけだから、彼がその気になればいくらでも元に戻せたわけで……。
いや、それよりも。
(う、嘘でしょ? 今、なんか、プロポーズ的な言葉が? 星空の見えるレストランでもないのに? ……ありえないわ。気のせいに決まってる。第一、全然、情熱的じゃないし!)
小姫が涙目で体を震わせていると、乙彦がにたりと笑って付け足した。
「小砂利の理想は叶ったのです?」
「あ、あんた、わかっててわざと……っ!?」
そういえば、こいつはこういうやつだった。
乙彦に全身を任せているという状況に遅ればせながら危機感を抱き、小姫は降りようとして手足をじたばたさせた。しかし、妖怪の力なのか、痩身なはずの乙彦の腕はびくともしない。
乙彦がくすくすと笑う拍子に、笹の葉の耳飾りが楽しげに揺れて、しゃらんと音を立てる。
(ち、違う……。あたしの理想の王子様が……! こんな、こんな――)
――こんなに口が悪くて、意地も悪い、横暴な河童になるなんて……!
「そんなの、絶対、認めないんだから――っ!」
乙彦の言葉に胸が激しく高鳴ったのは何かの間違いだと、小姫は必死に自分に言い聞かせるのだった。