盤上の距離と二人の間合い
旧校舎の空き教室。一月の冷たい陽射しに照らされながら、僕とカスミ先輩は将棋盤に目を落とす。時刻は昼休み、僕たちは毎週、己らで考えた詰将棋を出し合っていた。
今日の出題者は僕。今日まで勝敗は五分五分よりは負け越しといったところ。今回は傑作を持ってきたつもりではあるがはたして。
落としていた視線を上げると、親指を顎に悩むカスミ先輩があった。稚拙な問題ではないかと緊張こそすれど、出題者の立場は気楽なものである。こうして解答者が悩む様を鑑賞する余裕まである。長い睫毛に彩られた先輩の両目が厳しいのも、眉間に刻まれた皺を数えることも。それら全ては特権だ。
十数分は経ったであろうか。カスミ先輩は大きく伸びをして一言。
「降参」
「今日のはどうでしたか?」
「いい問題なんだろうけど、ムカつく。簡単そうに見えて全然うまくいかない」
先輩はイライラしながら、茶色がかった前髪を指に巻き付けている。その様子に僕は笑みを零す。勝ち誇った末の笑み、というよりは詰将棋が解けなくて拗ねている先輩が可愛らしく見えたからである。
「なに? 言っとくけどまだまだ私の方が勝ち越してるはずだからね? 調子に乗んなし」
「ははっ。負け犬に凄まれても全然怖くないですね」
「うっせ。棋譜送っとけよ。家で解いてくるから」
スマホで先輩に棋譜を送る。僕と先輩のやり取りは棋譜と解答の応酬で埋め尽くされている。特に日常生活を報告したり、会話を楽しんだりしているわけではない。
なぜならば僕とカスミ先輩は、友人ではないしましてや恋人でもない。部活動などで接点があるわけでもないのだ。
僕と先輩の共通点はただ一つ。将棋。たまたま同じ学校にいて、たまたま将棋が趣味と知り合い、たまたまお互い趣味仲間をもっておらず、たまたま詰将棋を出題し合う関係になっただけ。
つまり僕は内心でカスミ先輩を女性として好意を抱いているということだ。
「ん」
「なんですかこれ。ゴミ?」
突然、先輩はぶっきらぼうにくしゃくしゃの紙くずを差し出してくる。レシートのようだが、条件反射で受け取ってしまう僕も後輩根性が染みついているのだろうか。
「私を何だと思ってんだてめえ。良問の褒美だよ黙ってろ」
「ゴミをご褒美として喜ぶ人間ではないのですが」
「朝飲み物買ったときのレシートにコーヒー無料クーポン付いてんだよ。私は飲まねえからやる。いらねえなら返せ」
「へえ。ちなみに何の飲み物買ったんですか?」
「白湯」
「似合わなっ」
「もう返せてめえ!」
先輩が声を荒げ始めると同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。僕は怒号を背中に空き教室を立ち去る。もちろん、クーポンはありがたく頂戴している。
放課後、僕はカスミ先輩から受け継いだコーヒー無料券を使うべくしてコンビニに来店していた。
乱雑にポケットへ仕舞っていたせいもあり、レシートは先輩から受け取った当初よりくしゃくしゃで、本当にゴミと言って差支えがなくなりつつあった。このままではバーコードを読み取るにも支障をきたしそうで、僕はレシートを指で引っ張り皺を伸ばす。
「ん?」
その際、僕は妙なことに気が付く。
白湯も買っているけれど、ホットコーヒーも買っている。先輩はコーヒーを飲まないと言っていたはずなのに。
一瞬、訝しんだが、友人の分を一緒に買うなど理由は幾らでも考えられる。それにレシートを読むことは人の買い物を覗き見るようで失礼だ。
だから、その先を読んではきっといけなかったはずなのに。
「そっか」
目に入った商品名には三桁の数字。『スキン』という単語が肌を意味するわけではないことくらい、経験のない僕にもわかっていた。
自分の心臓がこんなに速く打つのも初めてだった。早々にコーヒーとレシートを交換して退店するが、外は急に風が強くなっており、顔に針を刺されるよう。たまらず引換えたホットコーヒーを口にすると、苦酸っぱい味とともに思考が透き通るように感じた。どろどろと黒く煮えた液体を飲み込むたび、その熱は内から全身に広がる。
そうだ。僕と先輩は友人ではないし、ましては恋人でもない。
それにも関わらず、最も熱と血液が送り込まれる場所が一点に定まる理由が今の僕には理解が難しかった。