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雷獣遊楽4

8

 ザっと雨が降り始めたのは、風呂を上がって少し経ってからだった。部屋でドライヤーをしていた時間を考慮すると、およそ短くても三十分。何かを始める時、私は絶対に時間を間違わないと心に誓っているが、何かを終える時間はいつもバラバラである。だから、風呂を7:30と34秒に入ったことは確かだけれど、風呂を何時何分に出たのかは全く見当もつかない。


「あの娘は大丈夫だろうか」

 そうぽつりと声を漏らした後、鼻をペトリコールが揺らす。どこか懐かしさを思わせるこの匂いが私には随分不相応に感じる。自分のかつてを思い耽るにも年齢制限と言うものがあるだろう。歳をとった、もう後戻りできないほどにずっぷりと私は今に足を浸からせている。


 窓から入る雨の匂いとうなじを虐める寒風を回避するように私はガラス戸を閉める。して、ふらと私は部屋を出て旅館のエントランスに向かう。旅館のエントランスには広々とした空間が用意されており、そこにはソファが二台向き合うように左右に置かれている。普段の私ならただあるなと認識するだけでそれ以上のことは特に思わず、スッとその横を通り過ぎることが出来たのだろうが、そこには先客がいた。客と言うか女将がいた。


「あら、東洲斎さん。こんばんは……」

美麗な声と動き、私はそう思いつつも誰彼と変わりなく彼女に挨拶を返した。


「東洲斎さんは行ってなかったのですね?」女将の一言。


「そうですね、行っていませんね。あの娘が言って行かなかったのでね。言って行っても要らないと言われるのがオチかもしれない」


「あら、そうですか?」


「はい、そうじゃないかな」

 私はひっそりと自分の中で彼女の行動の真意を理解している気でいる。理解している気がして止まず、それでいてそれを人に伝える気にはならなかった。


「一人は寂しいですか?」ふと私は女将に質問する。この質問に女将は真剣な表情を取り入れるようにして顔を作った。真剣に悩み、酷を滲み出させるような悲しみの笑みをこちらに向ける。


「一人は寂しいものですよ……」


 私は彼女の返答に対し、言葉を返すことをためらった。間を持たせ、時間で言葉を薄める。外に降る雨が空気の波から耳朶を打つ。


「置いて行く者と置いて行かれる者、これはどちらの方が辛いのだろうかね。どちらの方が酷いのかね」


「太宰治の引用ですか、待つのと待たせるの。実際のところで言えばどちらも辛いというのがそうなのでしょうし、どちらの方がと比べるというのは野暮なのだろうと思います。ですが、どちらも平等に辛いのだろうとは思いません。場合によりけりという事じゃないでしょうか」


「場合によりけり……」


「しかし、どちらの方が酷いと申しましたか。これはもちろん、置いて行く方の方が酷いのでしょうね。不思議なことですけれど。両方が辛い気持ちを抱えることが出来てもなお、酷いことをしているのは間違いなく置いて行く方なのです」


「酷いか」


「酷いですよ。けれど、やはりそれも場合によりけりなのです。置いて行く方も理由によっては悪くもないのでしょう」

女将はもう私のことを見ていないようであった。己の人生にいた誰かを思いはせるようにして、私を見ながらも遠くの世界に言っているように見える。だから、私もまた女将のように女将の言葉を世界に無秩序に降る月の光のように受け止めつつ自分の心に入りこむ。



 …ある雑居ビルの屋上。とても静かな夜の風が私の長髪をくゆりと揺らす。あの時は自分で巻いた安い煙草をふかしていたように思う。煙が風に流されて、鉢植えに生えた観葉植物が時間を共にしてくれていた。私はここで日を跨ぐのが日課になっていた。ここを照らす月光と夜空の群青が私自身を綿密にしていったように思う。


「月が好きなんすか?」

耳に触る言葉選びとダミッたようなハスキー声。あの娘、カエラは声変わりという物が男性と同じように目に見えて、いや耳に顕著に聞こえた子供だった。この記憶はまだあの娘が私の元に転がり込んできてから数週間っていうところだったか。初めてあの娘が夜にベットから抜け出して、私の屋上に踏み込んできたのだ。


 月が好きかの問い。私は自分の中でそれを上手く答えにすることにその時四苦八苦した気がする。子供相手なのだから、そんな質問には適当に答えておけば良かったのだろうが、私にはそれが難しかった。だから、なんて返したかな。


「月が好きなんすか?」


「君は月が好きなのかい?」そんな風に返したかな。質問に質問を返した気がする。大人としてはどうにも不出来なような私らしい子供っぽい会話だったな。それに対して、あの娘はなんて返したか。


「君は月が好きなのかい?」


「好きっすよ。私は月の光が好きっす」臆面もなくあの娘はそう言った。それにつられて、私は言葉をつづけたはずだ。確か、なんて言ったかな。


「私は……」


 森は突如として姿を変える。深く険しくその様相を人の喜怒哀楽のようにバリバリと変えていく、カレンはそんなことを思った。都会のネオンライトが自分の体には染みている、自然の匂いはどうしようもなく安定感を付与していない。


「それに雨っすなー」

空中に一言。

 重い重い鈍重な水の弾丸が空から降ってくる。夜は厚い雲に覆われ、月の光を降らせようとはしていなかった。


「はぁ、雷獣が出てくれれば話は早かったんすけど」

 目の前には雨に視界を歪ませつつも、ある一つの建物が見えた。私は目の前に開けた景色の真ん前に存在するコンクリートで出来た、ブロック型の建物を発見する。その建物からは山の山頂の方に長いパイプが引かれている。ダムでは無い水力発電。パイプから湖の水を流して、タービンを回しているのだろう。女将はクマが出るかも知れないと言っていたが、どうやら無事に目的地には到着できたらしい。


建御たけみ電力、長野県に本社を持つあの会社か」

薄らと記憶の中にある程度だが、日本神話の武甕槌たけみかづちから名前を引用してるから、ミカヅチくんって言うマスコットが居たような。見やれば、コンクリートの壁には消えかかった文字で建御電力と印字されているのが分かる。


 辺りには植物が生い茂る。建物内を堅牢に隠すようにフェンスが立ち並ぶ、黒い、怖いを思わせる不気味な建物だった。一歩、二歩と徐々に足を前に進める。その建物に何か引力を幻覚する。三歩、四歩とまた足を前に進める。フェンスまではまだまだ距離がある。目的地はあのブロック型の黒々しい建物である。進んで、あれを見なければ。私は草を掻き分けて進んでいく。雨足はまた少し強まる。


 フェンスの前まで到達する。フェンスには有刺鉄線、この建物が侵入者に対して警戒しているのがひりひりと伝わる。フェンスには『コノナカ発電所、侵入危険』と書かれた木製の看板が至る所に下げられている。さてはて、本当に危険だからそうなのか、探られたくない腹があるのか。


 コートを脱ぐと私はそれをバサッと有刺鉄線に投げるとさっさとフェンスをよじ登り、中に侵入した。フリーのバザーで買った安いコートだったけど、気に入ってたんだよね、デザインもかわかっこいい系で。あーあ。

 ピョイっと飛び降りて着地。中も随分と背の高い草が生い茂っている。


「さて調べに行きましょうか」

私はズボンのポケットから手袋を取り出すとグッと手に装着した。

 早速、私は裏口の方へ回ると、キーピックを取り出す。表門、表扉は随分と施錠の凝ったものでカードキーとカギが無いと開けることが出来ないといった感じだったが、裏口は簡便なサムターン式の鉄扉があった。それを開ける。これぞ、探偵助手のやり方よ。


 本当は孤児時代に車上荒らしをした時の経験だったけれど。探偵助手の技術ってことにしてもらおう、家人には内緒で。


 中に厳重な警備なんてものは無いみたいだった。まぁこれだけの建物と言えど、街はずれも街はずれ。侵入しようなんていう若者も放蕩者もいないだろう。中には非常口の緑色の光がポッと数メートルほど毎に天井に取り付けられているのみでそれ以上の物は今のところ見当たらない。廊下には清潔感と異様な静けさがどうしようもなく捨てられている。つと、廊下のある金属製の収納ケースに一枚の紙が置いているのを見つけた。ゆっくりそれに近づく。見る。


『僕はここへきて後悔している。この建物は呪われている呻きが僕には聞こえる。……雷獣の噂は本当かも知れない』



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