ハイボールの兄弟盃 国王ヴィクトル・ネーダー・カテドラル⑤
ぞろぞろと皆を引き連れてしばし旧王城の庭を歩いていたハイゼンが、ナダイツジソバの裏口付近でピタリと立ち止まる。
変わった形のドアに、曇りガラスの窓。壁面の上部には何やらよく分からない、銀色の箱のようなものがはめ込まれており、その銀色の箱がひっきりなしにゴウンゴウンと音を立て、そこから妙に食欲をそそる良い香りがする。これは魚介類の香りだろうか。恐らくは厨房の熱気を外に放出し、それと同時に換気もしているのだろう。報告によるとあれは魔導具ではなく、電気の力で動くからくりだとのことだが、魔力もなしにからくりが動くとは不思議なものだ。
「これは何とも珍妙な……」
これまでアーレスを訪れたストレンジャーたちが残した情報により、地球という異世界の知識もある程度は頭に入っていたヴィクトルだが、この建物はその情報とは随分と違うようだ。
前回保護したストレンジャー、ナジム少年はケニアなる国のブンゴマという地方で育ったそうなのだが、そのブンゴマはケニア国内でも大層田舎だそうで、家にしても一般市民は掘っ立て小屋のようなものに住んでいたのだという。ナジム少年によると流石に首都ナイロビは栄えていたらしいのだが、しかし彼は故郷ブンゴマから出たことがなく、ナイロビの風景も絵葉書でしか見たことがなかったそうだ。
このナダイツジソバという店はニホンという国の一般的な大衆食堂だそうだから、もしかするとニホンはケニアより栄えている国なのかもしれない。建物はこのようにしっかりとした造りで、窓には精巧な造りのガラスまで嵌っているのだから。
聞きかじった知識ではない、異世界の建物、その実物。建物自体はさして大きくもないが、実に壮観だ。異世界の建物そのものが建っている場所など、アーレスにおいてはこのアルベイルだけなのではなかろうか。
ナツカワ某には是非とも地球のことを色々と訊いてみたいところだが、基本的には彼に過干渉することは御法度とされている。今日は彼とも少し話したいと伝えてはあるので、雑談の中で何か聞かせてくれることを期待するしかない。
ヴィクトルがそんなことを考えていると、ナダイツジソバの裏口、そのドアをコンコンとノックしながら、ハイゼンが口を開いた。
「ナツカワ殿、お待たせした! 入ってもよろしいか?」
すると、ドアを隔てているからだろう、男性のくぐもった声で、
「はーい、只今!」
と返事があった。
何とも活力を感じさせる若々しい声だ。これが件のストレンジャー、フミヤ・ナツカワの声だろうか。
ガチャリ、と音を立ててドアが開く。
そこから現れたのは、はたして、黒髪黒目に少し日焼けした肌、という珍しい容貌を持つ、奇妙な様式の制服を着た青年であった。
なるほど、確かに聞いていた通りの容姿。間違いない、この青年こそがフミヤ・ナツカワ。このカテドラル王国に降臨した新たなストレンジャーだ。
報告では善良で常識的な男とのことだったが、人間の心根というものはやはり顔付きに表れる。
彼がそうかと、その人間性を見定めるように面構えを観察するヴィクトルの横で、ハイゼンがフミヤ・ナツカワと話し始めた。
「おお、ナツカワ殿。今日は無理を聞いてもらってすまんな。随分と迷惑をかけることになってしまった」
「日頃うちの店を御贔屓にしてくれているお客様たちには申しわけないことをしてしまいましたが、他ならぬ大公閣下のお願いですからね。日頃お世話になっていますから、これくらいのことはお力になりますとも」
「そう言ってもらえるとこちらも助かる。この礼はいずれ必ず」
「いいですよ、そんなの」
「いや、それでは私の気が収まらん」
「いいんですって」
「いやいや……」
と、こんなやり取りを延々繰り返している2人の間に、ヴィクトルは堪らず割って入る。
「おい、ハイゼン?」
このままでは完全に陽が沈むまで続けそうだったのでそう声をかけたのだが、それで気付いたというように、ハイゼンは「あ」と間の抜けた声を発した。
「ああ、そうでしたな……。ナツカワ殿、こちらの御仁なのだが…………」
だが、ハイゼンが皆まで言い切る前に、ヴィクトルは頭部を覆う頭巾を外して、ずい、と前に出る。
「フミヤ・ナツカワ殿。初めてお目にかかる。私は……」
と、今度はヴィクトルが言い切る前に彼の方が先に口を開いた。
「国王様……ですよね?」
「やはり分かるか?」
「大公閣下とは双子だと伺っていましたけど、お顔が閣下と瓜二つですから」
「ま、当然よな。ははは」
これだけ顔も背格好も似ているのだから、分からない方が逆におかしいのだが、そういうことも含めて苦笑して見せるヴィクトル。
そういうヴィクトルにどんな反応を返せば良いものか分からないのだろう、彼も困った顔をして苦笑している。
ヴィクトルはしばし笑うと、表情を改め、フミヤ・ナツカワの前で軽く一礼した。
「改めて……ヴィクトル・ネーダー・カテドラルだ。よくぞこのカテドラル王国に居を構えてくれた、ストレンジャー殿。国王として深謝申し上げる」
国家の長たる国王の謝辞。何とも恐れ多いそれに皆が一瞬息を呑む。感謝であれ謝罪であれ、国王が貴族に頭を下げるということは基本的にない。先にも述べたが、国王は国家の長だからだ。国王が頭を下げるということは、即ちカテドラル王国が頭を下げるということに他ならない。
だが、その国家の長たるヴィクトルがたった1人の男に対し頭を下げた。
ストレンジャーとはそれだけ尊重されて然るべき貴人なのだと、国王自らが、今回改めて皆に知らしめた形となる。
ヴィクトルの謝辞を受け、フミヤ・ナツカワも深々と頭を下げた。
「当店、ナダイツジソバの店主、夏か……いえ、フミヤ・ナツカワです。こちらこそカテドラル王国、並びに大公閣下には常日頃お世話になっておりまして、大変感謝しております」
「うむ。丁寧な挨拶、痛み入る。貴公の言うた通り、日常のことはハイゼンが気にかけてくれていることと思うが、その上で不便などはないかな? 何かあれば国王として私も力になりたいと思うのだが……」
ヴィクトルがそう訊くと、彼は「いえ」と微笑を浮かべながら首を横に振る。
「ご心配なく。この世界に転生する時に、神様から便利なギフトをいただきましたから。日常生活で困ることはほとんどないんです」
そう、ストレンジャーは自身が望んだギフトを神から与えてもらえるのだ。
このアーレスに生まれる全ての人間がギフトを授かるものの、その能力は完全にランダム。誰がどんな能力を授かるかは分からず、辛うじてエルフとドワーフが魔法や職人系の能力を授かり易いとされているのみ。だが、それとて完全に当て嵌まるものではなく、中には魔法や職人系と全く関係のないギフトを授かるエルフやドワーフもいる。
しかしながら、ストレンジャーはギフトの存在しない世界から転生してきた者たち。転生に際して必ず神と対面し、望んだ能力を有した特別なギフトを授かる。その特別なギフトの殆どがアーレスの人間が授かるようなものではなく、とても強力であったりアーレスの人間では想像もつかぬほど独創的だったりするのだ。
今回のストレンジャー、フミヤ・ナツカワのギフトは独創的なそれの最たるもの。聞いた話ではほぼ買い物もせず店を営んでいるとのことなので、生活に困らないというのも遠慮ではなく本心から言っていることなのだろう。
「そうか、神様がな。やはり美男子であったか?」
ヴィクトルが訊くと、フミヤ・ナツカワは何故か、
「え?」
と不思議そうな顔をした。
もしかすると、質問の意図が分からなかったのかもしれない。
「いや、どのストレンジャーも皆、口を揃えて天界で対面した神様は美男子だと言うらしくてな。前回のストレンジャーもそう言っておった故、少々気になったのだ」
神が人間の世界に降臨することはないものの、実在することはストレンジャーが証明している。そして、世界各国、過去から現在にかけて、神がどのような存在だったかと質問されると、どのストレンジャーも必ずこう言うのだという。
「見惚れるような美青年だった」
と。
その示すところはつまり、この世界を創造、管理する神は一柱のみで、しかも男神だということ。
ヴィクトルのこの質問は、言わばその情報の確認のようなものだ。
フミヤ・ナツカワは「なるほど」と呟き、次いで「確かに」と頷いた。
「イケメン……ああ、いや、美丈夫といった感じでしたね、あの神様。何と言うのか、こう、ローマ歌劇にでも出て来るような……」
「ローマ歌劇?」
ヴィクトルは思わず首を捻る。
歌劇というものはこのアーレスにもあるが、ローマというのは何だろうか。彼の世界の歌劇におけるひとつの形式だろうか。それとも、そういう名称の演目だろうか。
ヴィクトルが不思議そうにしていると、彼は苦笑しながら頭を下げた。
「あ、すみません。分かりませんよね? ローマというのは私がいた世界の地名でして、そのローマの地や人を舞台にしたのがローマ歌劇なんです。私がいた時代よりももっと過去を描いていることが大半で、衣服もローブというか、貫頭衣といった感じで……」
要するに、神は彼の時代の衣服よりも古めかしい形式のものを着ているということなのだろう。この情報は過去のストレンジャーたちが残した情報とも一致する。やはり、このアーレスにおいて神は一柱のみなのだ。
「ふむ、左様か。もっと詳しく訊いてみたいところだが、如何せん、空きっ腹を抱えておってな。まずは酒と肴を腹に入れたいのだ」
苦笑しながら自らの腹をポンポン叩き、そう言うヴィクトル。
少年だったナジム・キサンガとは違い、フミヤ・ナツカワはしっかりした大人。確かな知見からくるその話は実に興味深いものだが、今日の最大の目的はそこではない。名残惜しくはあるが、そろそろ店に入れてもらわなければ。
「あ……これは気が付きませんで、申しわけありません。さ、どうぞ、お入りください。ご案内させていただきます」
申し訳なさそうに頭を下げてから、裏口のドアを開けて皆を招くフミヤ・ナツカワ。
開け放たれたドアから実に濃厚な魚介の香りと、温かな熱が漏れ出てきて、ヴィクトルの頬を撫でた。今も壁でゴウンゴウンと音を立てる銀の箱から漂う、あの香りをもっと濃縮したような感じだ。
生臭さなど一切感じさせない、むしろ食欲を掻き立てるようなこの香り。これが皆の心を掴んで離さない、例のソバという異世界料理の香りなのかと、ヴィクトルは内心で唸る。このような香りを感じさせる料理は王宮ですら出て来ない、と。
「それでは各々方、よろしく頼む」
振り返り、ヴィクトルはヴェンガーロッドの騎士たちにそう声をかける。すると、闇の男を除いた2名がそれぞれ動き出した。1人は重力を感じさせないほどの軽い身のこなしで悠々と城壁を飛び越え、店舗正面の警護へ。もう1人は裏口の横へ。ヴィクトルに同行して店内の警護をするのは闇の男だ。一応はパーシー翁も店内に同行するが、彼は気を遣って、ヴィクトルとハイゼンの話を邪魔したくないので離れた場所に陣取って1人で飲み食いすると言っていた。
無論、ハイゼンの配下たちも警護はしてくれているのだが、そこに一応の用心としてヴィクトル側の者たちも加わる形だ。もし、仮に何か不測の事態が起これば、パーシー翁がすわ瞬間移動魔法を発動させてヴィクトルたちを避難させる手筈になっている。
「ハイゼンよ。店内の警護は彼1人としたい。良いか?」
顎をしゃくって闇の男を差しながらヴィクトルがそう訊くと、ハイゼンはあからさまに渋面を作って難色を示した。
「え? いや、しかし……」
と、ハイゼンの言葉の途中で片手を上げてそれを制すと、ヴィクトルは彼の耳元に顔を近付け、他の誰にも聞かれぬよう、ボソリと呟く。
「案ずるな、彼が闇の男だ」
「何と……ッ!」
さしものハイゼンも驚いたようで、ほんの一瞬、闇の男にちらりと視線を送ってから、強張ったような顔を見せた。
だが、すぐさま表情を正してコホンと咳払いすると、ヴィクトルに対して頷いて見せ、次いで背後に控えていた部下たちに声をかける。
「店内の警護は陛下の護衛方が担当してくれるそうだ。すまんがリーコン、貴公は皆を率いて店外の警備を頼む」
「は……」
ハイゼンに声をかけられた騎士の1人が胸元に右拳を当てて慇懃に頭を下げた。本来であればこの青年が陣頭に立って店内の警護を担当してくれる予定だったのだろう。彼には申し訳ないが、ハイゼンの言う通り、今日は店外の警備に回ってもらうしかない。
「では行こうか、各々方」
先ほどから裏口のドアを開けてフミヤ・ナツカワが待ってくれている。彼をこれ以上待たせる訳にもいかないので、ヴィクトルは先頭に立ち、皆を引き連れて店内に足を踏み入れた。
「それでは、お邪魔する」
「ええ、どうぞ」
店内に入ると、まずはホールではなく厨房に通される。まあ、裏口から入ったので当たり前だが、厨房の奥がホールだ。
出入口の付近で立ち止まると後が詰まるので足は止めず、それでも厨房に視線を走らせるヴィクトル。
鉄でも銀でもない、しかして正体は分からぬ、鈍い銀色の光沢を帯びた金属がふんだんに使われた厨房。薪も炭もないのに火を吹くからくりが鍋のスープをくつくつと温めている。あちらの油が満たされた流し台のようなものは何だろうか。というか流し台まで金属製だ。壁際に置かれた、人よりも大きな四角い箱は何だろうか。取手が付いているから開くのだろう、ただの収納なのだろうか。
この厨房、異世界のものだけあって全てが目新しく感じる。こんなものカテドラル王国には、いや、アーレスには他の何処にも存在しないだろう。
ヴィクトルは調理については全くの素人だが、この場所は実に興味深い。本当ならもっとじっくり見物して、フミヤ・ナツカワにも、ああでもない、こうでもないと質問したいところなのだが、残念ながら今日の本筋はそこではない。
湧き上がる好奇心をぐっと堪えて、ヴィクトルはフミヤ・ナツカワの案内に従い、厨房を抜けてホールに出た。
すると、あらかじめそこで待っていたのだろう、店の給仕たちが全員集合して並んでおり、ヴィクトルがホールに足を踏み入れるや、皆が揃って深々とお辞儀をした。
「「「「「いらっしゃいませ! 当店、ナダイツジソバにようこそおいでくださいました!!」」」」」
それほど広くもない店内で、給仕全員が揃って挨拶をしてくれるとそれだけで壮観である。小さな店なりに最大限歓待してくれていると感じる演出だ。
少し声が固い印象を受けるのだが、どうやら彼らは緊張しているらしい。実際、国王を歓待するとあらばそれなりに緊張はするものなのだろうが、今日のヴィクトルはただの客という体だ。そこまで緊張してもらうこともない。
「おお、これはこれは。いや、ははは、何とも元気な挨拶だ。諸君、どうもありがとう。今日は世話になる」
ヴィクトルが笑顔でそう返すと、幾分緊張が解けたのだろう、給仕たちは皆、安堵したような表情を浮かべ、頭を下げた。
その様子にうむ、うむ、と頷き、ヴィクトルは給仕の中で1番幼い容姿をした、魔族の少女の前に立ち、口を開く。
「三爪王国王女、リン・シャオリン殿。お初にお目にかかる。カテドラル王国国王、ヴィクトル・ネーダー・カテドラルだ。私もこれで少しは忙しい身でな、ご挨拶が今日にまで伸びてしまったこと、平にご容赦を」
今日のヴィクトルは基本的にただの客だが、これだけは国王としてしっかり言っておかなければならない。
今現在、ナダイツジソバで働く給仕の1人、リン・シャオリン。彼女はまごうことなき他国の王族。正直、カテドラル王国は三爪王国とはさして付き合いもないのだが、それでも王族同士、ちゃんと挨拶は交わさねばならないだろう。
リン・シャオリンは穏やかな性格だという報告は受けているが、他国の王族や皇族の中には過激であったり短気な性格の者たちも一定数いる。そういう者たちに対して礼を欠くと、それだけで激高して国際問題に発展する場合がある。最悪は戦争だ。
まさか給仕として働いているリン・シャオリンがヴィクトルのことを無礼だと激怒し、それを問題にして故国を動かすようなことはしないとは思うが、しかし万が一のことを考えれば最低限国王として通すべき筋は通さなければならない。
彼女もそのことが分かっているのだろう、ヴィクトルに対して深々とお辞儀を返し、口を開いた。
「過分なご配慮、ありがとうございます。しかし今の私は王女ではなくただの飲食店従業員ですから、そのように接していただければ……」
「ふむ、左様か。では、遠慮なくそうさせてもらおう。今日はよろしく頼む」
「はい。お任せを」
言うが早いか、リン・シャオリンは早速動き出し、それに続くように他の給仕たちも各々動き出す。
3名が厨房へ行き、リン・シャオリンと女性がもう1人、報告によれば確かルテリア・セレノがホールに残り、ヴィクトルたちに対応する。
「シャオリンちゃん、お水お願い」
「はい」
ルテリア・セレノの指示でリン・シャオリンも厨房へ行く。
「それではお客様方、お好きなお席へどうぞ」
「うむ……」
と、ヴィクトルはここで初めてホール内の様子をまじまじと見る。
特徴的なU字のテーブルが店の中央に、そしてスクエア型の小さなテーブルは端の方にいくつか。天井からこれまで聞いたこともない曲調の歌が流れているのだが、これが何とも耳馴染みがする。この店に対し、妙にしっくりくる感じがして落ち着く感じがするのだ。
店の壁は正面が豪華にもガラス張りになっているのだが、そのガラスが何故か黒く塗り込められており、外の景観が一切見えなくなっている。
「んん……?」
報告では、あんなものはなかった筈。あの黒いガラスは一体何なのか。
ヴィクトルが不思議そうにそれを見ていると、それに気付いたハイゼンが背後から声をかけてきた。
「私の配下に闇の魔法を使う者がおります。その者に頼んで店内の様子を見えないようにさせてもらったのです」
そう説明を受け、ヴィクトルも「そうだったか」と納得する。
店内に入れないまでも、たまたま通りかかった店の中に国王がいたとなれば騒ぎになることは明白。ハイゼンとしてそこにも気を遣い、わざわざ店内の様子を見えなくしてくれたのだろう。
「これならば、こんな頭巾はいらなかったな」
とんだ取り越し苦労だったと、ヴィクトルは苦笑しながら頭巾を外した。
「今日はごゆるりとナダイツジソバを楽しんでいただきたかったのでこうしたのですが、もしやいらぬ世話だったでしょうか?」
ヴィクトルの苦笑が気になったのだろう、ハイゼンがそう訊いてきたので、そうではないと首を横に振るヴィクトル。
「いやいや、こんな不格好な頭巾、被らずに済むのならそれに越したことはない。気遣い感謝する」
この頭巾は王都の城下町に視察に行く時にいつも被っているものなのだが、目元だけを露出させて口元まで隠してしまうのでどうにも息苦しく、また、クッション性を持たせる為に綿が詰まっていてこれが結構重たいのだ。ずっと被っていると首が疲れてしまう。
だから、先にヴィクトルが言った通り、外していいのであればそれに越したことはないのだ。
「であればよろしゅうございました」
そう言うハイゼンに対し、うむ、と頷いてから、ヴィクトルは改めて店内の席に目をやる。好きな席に座っていいとのことだが、はたして何処に座るべきか。
「ふうむ…………。やはり、この湾曲したテーブルの席にするかな」
言いながら、U字テーブルの中央あたりの席に腰掛けるヴィクトル。
すると、それに続いてハイゼンが右隣に座り、パーシー翁がU字テーブルから離れたスクエア型のテーブル席に着いた。
闇の男は座ることすらせず、店の隅で壁に背を預け、ゆらりと佇立している。
「おや、ロンダ殿、如何された? そんな離れたところに座らず、こちらに来ればどうだ?」
明らかに会話に加わる気がないというふうなパーシー翁に、ハイゼンがそう声をかけるが、当の翁は「いいえ」と首を横に振った。
「私は遠慮させていただきます。今日は兄弟水入らずということで、お2人で美食を楽しまれませ。私は私でちびちびとやらせていただきます故」
「ふむ、左様か。貴公は……」
言いながら、ハイゼンが今度は闇の男に顔を向ける。
すると、彼は一瞥すらもくれず静かに口を開いた。
「…………俺は任務中だ。飲食はしない」
「そうか……」
闇の男の本職は殺し屋だ。任務中に飲食をしないと言われても、さもあらんといった感じなのだろう。ハイゼンもそれ以上しつこく言ったりはしなかった。
と、ここで水の入ったグラスを載せた盆を持ったリン・シャオリンが厨房から戻ってきて、皆の前にそのグラスを置いていく。
「お待たせしました。こちら、お水です。おかわりもございますので、お気軽にお申し付けください」
「おお、これはすまんな」
眼前に置かれたコップを見つめながら、ヴィクトルは彼女に礼を言った。
これが報告書にも記載があった、例の美味い水だ。
主にギフト研究をしている研究所からヴィクトルのところに上がってくる、通称テッサリアレポート。茨森のテッサリアというエルフの職員が現地から送っているこのレポートには、フミヤ・ナツカワの店で供される飲食物について事細かに記されているのだが、最初に王都へ送られてきたレポートこそが、まさにこの水についてだった。
夏でも氷の浮いた、清流を思わせるほど透き通って雑味のない極上の水。テッサリアレポートによれば、水を濾過する魔導具を使っても、ここまで澄んだものにはならないだろう、とのことだ。
最初にレポートを読んだ時は、ただの水ひとつで何を大袈裟な、と呆れたものだが、いざ実物を目の前にすると、彼女がレポートにそう記したのも分かるというもの。
不純物の混入など一切感じさせない無色透明の水に、寸分違わず同じ大きさで整えられた氷。グラスにしても超一流の職人が手ずからこさえたものであるかのように透明で均整が取れており、気泡も歪みも一切見当たらない。
「ご注文の方、お決まりになりましたらお呼びください」
「うむ、ありがとう」
厨房に引き返すリン・シャオリンに礼を言い、眼前のグラスを手に取ってみる。
冷たい。今はもう春先だが、真冬の川の如しだ。
あくまでただの水なのだが、これを目の前にしていると思わずゴクリと喉が鳴る。
その水をぐい、と口の中に流し込むと、何とも冷たく甘露な液体が舌の上を流れ、喉の奥に消えていった。
美味い。
何の雑味もなく、ただただ純粋な水だ。余計なものが一切感じられない。普段飲んでいる水とは全くの別物だ。
異世界の水とは、かくも美味いものなのか。
ただの水ひとつとってもこれだけ美味いのなら、料理や酒の方はどれだけ美味いのだろう。楽しみである。
「さて、何を頼もうか。まずは酒だろうな。酒は、確かビールというものがあるのだったか……」
これまたレポートに記されていた、このナダイツジソバで唯一供されている酒、ビール。その正体はウェンハイム皇国が製法を独占するラガー、その異世界製のものらしいのだが、味についてはナダイツジソバのものに軍配が上がるのだという。テッサリア曰く、それは天上の雫が如き味。巷に溢れるエールとは雲泥の差とのことだ。
「まずはビールを頼もうかな」
ヴィクトルが手を上げて給仕を呼ぼうとしたその時、ハイゼンがそれを制するよう、
「恐れながら、陛下」
と声をかけてきた。
ヴィクトルはこれに対して露骨に渋面を作って見せた。ちなみにだが、別に注文を遮られたことが不満なのではない。
「ハイゼン……今くらいは流石に兄と呼べ」
そう、今回は国王と臣下としての話ではなく、兄弟として話をしに来たのだ。無礼講とは少々趣が違うのだろうが、今日くらいは礼節など抜きにして語り合いたい。
「は……。ですが…………」
ここまで来ればハイゼンも流石にヴィクトルの意図を分かっている筈なのだが、それでも渋っている様子。
何事もキッチリせねば落ち着かないハイゼンらしいとは思うのだが、今日に限ってはそこを曲げてもらいたい。
「いいから。俺も今はお前のことを弟として扱う。お前も俺に倣え」
昔のように、自分のことを、俺、と言うヴィクトル。父や母の前でそのような言葉遣いをすると随分怒られたものだが、しかし、ハイゼンの前でだけはずっと、俺、と言い続けていたものだ。それが、私、という呼称に変わったのは、いつからだろうか。ヴィクトルが大人になり、そして王位を継いだあたりだろうか。思うに、あの頃を境に、ハイゼンもヴィクトルに対し他人行儀な態度を取るようになったのではないだろうか。
「了解致しました…………兄上………………」
ヴィクトルが明確に兄としての顔を見せたことで踏ん切りが付いたのだろう、ハイゼンもようやく兄と、そう呼んでくれた。
それでヴィクトルも満足そうに「うむ」と頷く。
「それでいい。して、ハイゼンよ、先ほどは何を言おうとしていた?」
「酒のことです」
「ん?」
「実はですな、つい先日、ビール以外にもアルコールのメニューが追加されたのです」
ハイゼンからもたらされた思わぬ朗報に、ヴィクトルも思わず「ほう」と唸る。
「その追加されたメニューとやらは何だろうか?」
「はい、ハイボールなるものでございます」
ハイボール。聞いたこともない名の酒だ。一体どんなものなのか想像すらつかない。ワインのように果実を酒にしたものだろうか。それとも、北方の群島国家が造っているようなハチミツの酒だろうか。もしかすると、アーレスではそもそも酒の原料になると認識すらしていないものを加工している可能性もある。
「ハイボール? 随分と不思議な響きの酒だな? 美味いのか?」
ヴィクトルがそう訊くと、ハイゼンは何故だかニヤリと不敵な笑みを浮かべ、勿論だと頷いた。
「滅法美味でございます。ビールはエールと共通する味わいもございますが、このハイボールは何とも独特。きっとこのナダイツジソバでしか飲めぬものでしょう」
同じ環境で育った双子だけあって、ヴィクトルとハイゼンの味覚は似通っている。そのハイゼンをしてそこまで絶賛するのだから、ハイボールという異世界の酒は間違いなく美味いものなのだろう。
ビールも確かに飲みたいのだが、ハイゼンがそこまで言うのだから、1杯目はハイボールで乾杯といくべきだ。
「そうか。ならばまずはそのハイボールとやらを頼もうか。肴の方はお前に任せる」
テッサリアレポートには残らず目を通しているヴィクトル。その全てが美味そうで、今すぐ食いたいと思わせるほど魅力的だった。ここでメニューを見てしまえば、目移りして容易にひとつの料理を選ぶことは出来ないだろう。だからこそ、この店に関して一日の長があるハイゼンに肴を任せる。自身と同じ味覚を持つハイゼンの選択ならば間違いないと、ヴィクトルもそう信頼しているのだ。
以心伝心、兄の考えが分かっているものと見えて、ハイゼンはすぐさま「は」と頷いた。
「ならばコロッケソバにいたしましょう。コロッケは酒の共としては最適ですからな」
コロッケソバ。テッサリアレポートにあった、あのジャガイモを使った揚げ料理だ。確かテッサリアもコロッケは抜群に酒に合うと記していた筈。ヴィクトルとしてもその選択に文句はない。
「結構。それで頼む」
ヴィクトルがそう言うと、ハイゼンも御意とばかりに頷き、注文の為に手を上げて給仕を呼んだ。
「すまぬが、注文いいだろうか?」
「はい、只今!」
メモ書きとペンを手に、ルテリア・セレノがすぐさま駆け付ける。
ハイゼンも慣れたもので、そんな彼女に言い淀むこともなくスラスラと注文を告げた。
「ハイボールを2つと、コロッケソバも2つ頼む。コロッケは別皿でお願いする」
ルテリア・セレノは「かしこまりました」と頭を下げてからメモ書きにペンを走らせ、厨房の方に振り返る。
「店長、ハイボール2、コロッケ2です! コロッケ別皿でお願いします!!」
「あいよ!!」
注文が通り、厨房からフミヤ・ナツカワの威勢の良い声が返ってきた。
国王であるヴィクトルをしてこれまで一度たりとも口にしたことのない美食、ハイボールとコロッケソバによる酒宴。
その酒宴がもう間もなく始まるのだと、ヴィクトルの心は年甲斐もなく高鳴り始めてきた。
※西村西からのお願い※
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