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ハイボールの兄弟盃 国王ヴィクトル・ネーダー・カテドラル④

 視界の全てが白一色に染まったかと思った次の瞬間、ヴィクトルの眼前に見覚えのある光景が飛び込んで来た。


「ここは……旧王城の庭か…………」


 何とも懐かしい光景である。この庭に足を踏み入れるのは、実に30年振りくらいか。

 今はもう遠い昔のことだが、子供の頃はこの庭で随分と遊んだものだ。上に兄弟はおらず、かといって父も戦場に出て城に帰って来なかった時期なので、遊び相手はハイゼンのみ。だが、2人してこの広い庭を駆ければそれだけで楽しかったし、剣術や弓術の稽古もこの庭でしたものだ。もう少し時が経ち、弟妹が出来てからは兄弟全員でかけっこに興じたりもした。国は戦時中だったが、良き思い出である。

 ヴィクトルとハイゼン、2人の汗がたっぷりと染み込んだ庭。夕暮れに沈み、紅い陽の光に照らされ、濃い影を湛える芝が何とも美しく情感的だ。

 子供の頃はこの時間になると執事が夕食の準備が出来たと呼びに来たものである。あの当時は戦争に伴い小麦の生産、供給が落ち込み、王宮と言えど主食はジャガイモばかり食べていたが、腹が空いていれば何でも美味かった。それに隣にはハイゼンがいたから、一緒に食べる食事はそれだけで楽しかった。


 ヴィクトルもハイゼンも、もう爺になってしまったが、それでも、あの楽しかった時間を、兄弟としての絆を取り戻したい。

 そんな想いを胸に、ヴィクトルは今日、ここに来たのだ。

 まるで今にも子供の姿をした自分とハイゼンが目の前を駆けて行きそうなこの光景。

 強烈な郷愁に駆られ、思わず目頭が熱くなるヴィクトル。流石に涙までは流していないが、ここで背中でも摩られたら本当に泣いてしまうのではなかろうか。


「………………」


 思いがけず胸が熱くなり、言葉を失うヴィクトル。

 だが、不幸中の幸いとでも言おうか、夕陽がヴィクトルの顔に濃い影を落とし、表情が隠れたのでこの場の誰にも気付かれてはいない。


「余人の目につかぬところ、ということで、転移地点は私もよく知る城の庭にしたのですが、これでよろしかったですかな、陛下?」


 ヴィクトルの様子に気付いていないパーシー翁がそう声をかけてくる。

 ちなみにこれは余談なのだが、パーシー翁の瞬間移動魔法は自身が訪れたことのある場所にしか行くことが出来ない。これで行ったことのない場所にも行けるのであれば、ウェンハイム皇国との戦争はあんなに長引くことなく早期に終結していたことだろう。パーシー翁が皇都まで瞬間移動して皇王を暗殺、それで終わっていた筈だ。まあ、それは今言ったところで詮無きこと。無益でしかないし、そんなことを口にしてもパーシー翁が困るだけ。


 まあ、それはさておき、である。

 下唇を噛み締め、込み上げる感情を押し殺していたヴィクトルは、どうにか表情を正してからパーシー翁に向き直った。


「…………うむ。ここならば城壁が盾になって市民の目に触れることもあるまい。無用の騒ぎも起きんだろう。それにここならばハイゼンもすぐ気が付くだろうて」


 そうヴィクトルが言い終わるのとほぼ同時に、


「陛下ぁーッ!!」


 と、遠くからヴィクトルを呼ぶ叫び声が響いた。

 この声を聞き間違える筈がない。これは、このアルベイルの領主にしてヴィクトルの双子の弟、ハイゼンの声だ。


「おお、噂をすれば何とやら、だ」


 見れば、ハイゼンがアルベイルの騎士たちを伴ってこちらに駆けて来るところだ。

 これは先日手紙を出してから気付いたことなのだが、ヴィクトルはあの文面に、何時に何処から訪れる、ということを記していなかった。

 きっと、ハイゼンはヴィクトルが何処から訪れるか、城内で今か今かと待ち構えていたのだろう。そして、庭に現れたヴィクトル一行を発見した誰かが伝令に走り、ハイゼンが慌ててここに駆けて来たといったところではないか。

 もう少し詳細を詰めてから手紙を出せばよかった、少し悪いことをしたと、ヴィクトルは思わず苦笑する。


「陛下ッ! せめて城門から来てくだされ!!」


 ヴィクトル一行の前で立ち止まると、ハイゼンは、はあはあと肩を上下させ、息を乱しながら口を開いた。察するに、彼も久々に老体に鞭打って走ったのではなかろうか。


「はっはっは、すまん、すまん。だが、この方が却って手間が省けただろう?」


 ヴィクトルが鷹揚にそう答えると、ハイゼンは誰憚ることもなく、きつく眉を寄せて渋面を作った。


「それにですな! あの文にはいらっしゃる時間も、何処から訪れるのかすらも記されておりませんでしたぞ!? こちらは一体何時来られるのか気が気ではございませんでした! 勘弁してくだされ!!」


 乱れた呼吸を整えもせず、息も絶え絶えにそう抗議するハイゼン。どうやら、今回の訪問に際してはかなり不満が溜まっていたようだ。

 やはり今回の訪問は急過ぎたらしい。お忍びだと伝えてあるからさして迷惑もかかるまいと、ヴィクトルは当初そう見積もっていたが、ハイゼンの様子から察するに、それなりの苦労をかけたものと見える。

 行動は機を見るに敏、などとは言うものの、それも時と場合による、今回は良くなかったなと反省するヴィクトルであった。お忍びであれ正式訪問であれ、国王という存在が来訪するのならば、やはりそれなりの準備期間を相手方に設けなければ。


 バツ悪そうに苦笑しながら、ヴィクトルはハイゼンに対して小さく頭を下げる。


「まあ、政務が終わり次第、ということだったからな。明確に何時とは答えられなんだ。すまん」


 だが、ヴィクトルが頭を下げても、ヒートアップしているハイゼンの愚痴は止まらなかった。


「しかもです! ナツカワ殿の店は客の貴賤を問わぬ店! 普段は貴族であろうと平民に混じり並ぶのです! それを数時間でも貸し切らねばならぬ苦労たるや……ッ!!」


 言い終わるや、両の拳をきつく握り締め、ギュッと奥歯を噛み締めるハイゼン。

 ヴィクトルとしては別に平民に混じって列に並んでもいいし、同じ卓に着くこともやぶさかではない。だが、それでもヴィクトルは国王。ハイゼンとしても、まさか国王をその他貴族と同列に扱う訳にもいかず、ナツカワ某の店を貸し切りとしたのだろう。

 ナツカワ某の店、ナダイツジソバがこの旧王都でも1、2を争うほど繁盛しており、アルベイル市民たちに愛されていることはヴィクトルも聞き及んでいる。それを領主の権限で貸し切っているのだから、日頃店を贔屓にしている者たちの恨みは相当なものだろう。

 急に来訪したことも併せて、ハイゼンには悪いことをしてしまったし、思いがけずアルベイル市民にも迷惑をかけてしまった。無論、ナツカワ某にとってもいい迷惑だろう。

 今回の来訪、ハイゼンには謝りに来たというのに、余計に迷惑をかけてしまったようだ。これは大いに反省せねばなるまい。


「いや、世話をかけた。しかし、いつまでもストレンジャー殿に会わぬわけにもいかんからな。公式訪問では大袈裟になる故、今回が丁度、機であった」


 ナツカワ某という男のことを聞くに、彼はどうやら平穏を望んでおり、余計に騒がれるようなことは避けたい様子。ハイゼンにもナツカワ某にも迷惑をかけてしまう形になったが、彼に会うという目的においては、やはり今回のお忍び訪問は良い機会だったのだ。

 若干興奮した様子ではあるが、ハイゼンもそれが分かっているからか、はあ、と大きく息を吸って呼吸を整えると、それ以上の文句を飲み込んだかのように両肩を下げた。


「もっと前、せめて1週間前には教えていただきたかった。そうすればこんなに慌ただしいことには…………」


 その心労を窺わせるかの如く深いため息を吐きながら、ハイゼンがそう零す。

 去年、王都で会った時も随分と顔色を悪くしていたハイゼンだったが、今の顔色も決して良いとは言えないだろう。きっと、何から何まで大急ぎで整えたに違いない。今更ではあるのだが、今回はやはりハイゼンに悪いことをした。


「いや、ははは。タイミングが良くなかった。悪かった、許せハイゼン」


 今度は小さくではなく、深く頭を下げるヴィクトル。

 普通、王侯貴族は下の者たちに対してあまり頭を下げないものだが、ヴィクトルにそこらへんの妙なプライドはない。


「諸君らもすまん。私の我儘に付き合わせてしまった。この通りだ、許せ」


 そう言って、ヴィクトルは今回の訪問に同行してくれた4人にも頭を下げる。


「「「「「………………」」」」」


 国王にここまでされては、ハイゼンもそれ以上文句は言えない。それは同行してくれた4人も同様だ。

 国王の謝罪というのは伝家の宝刀にも等しきもの。少々ずるいかもしれないが、ヴィクトルはその宝刀を抜き放ち、存分に威光を知らしめた形になる。


「はっはっはっはっは! いやはや、国王陛下には敵いませんな、大公閣下?」


 呵々大笑。天然なのか、それとも計算なのか、場を和ませるようにからからと笑いながら、パーシー翁がハイゼンにそう問う。


「ああ、これはロンダ殿。無沙汰をしております……」


 そこで初めてパーシー翁に気付いたというふうに、ハイゼンが彼に対して頭を下げる。きっと、ヴィクトルにばかり意識がいっていて、本当にパーシー翁がいることに気付いていなかったのだろう。

 立場としてはハイゼンの方が圧倒的に上だが、パーシー翁は貴族として偉大な先達。故に礼として頭を下げたのだろうが、パーシー翁はかえって恐縮というふうに苦笑した。


「閣下。こんな、もうお役目からも退いた爺なんぞに頭など下げてくれますな」


「いえ、ロンダ殿には父、兄共にお世話になりましたから、そういうわけには……」


 たった今、ハイゼンが口にした兄、というその言葉に、ヴィクトルは思わずハッとする。

 30年前に降臣してからというもの、ハイゼンは一度たりとてヴィクトルに対し臣下の礼を崩したことがなく、常にヴィクトルのことを陛下と、そう呼んできた。2人きりになった時でさえ、だ。それは臣下として国家に尽くすというハイゼンの覚悟の表れなのだろうが、何だか兄弟の間に距離が出来たようでヴィクトルには正直不満があった。せめて2人きりになった時くらい、兄と呼べばいいのに、と。

 彼が自分のことを兄と呼んでくれたのは、実に30年振りのことである。

 せめて今日くらいは兄と呼んでもらいたいと、ヴィクトルは密かにそう思っていたのだが、思いがけない形で兄と呼ばれたことで、内心ちょっと感動していた。ハイゼンはまだ、ヴィクトルのことを家族だと、ちゃんと兄だと思ってくれているのだ、と。


「律儀な御方だ。その律儀さ故に、このアルベイルも貴方様一代で復興したのでしょうな」


「皆の尽力があったればこそです。私1人の力など、たかが知れておりますからな」


「まこと謙虚ですなあ……」


 ハイゼンとパーシー翁はまだ話し込んでいる様子だが、ハイゼンと話したいのはヴィクトルも同じ。

 少々気が咎めたが、ヴィクトルは2人の会話に割って入ることにした。


「ハイゼンよ、このままここで話し込むのも一興だが、そろそろ行かんか? もう日が暮れてしまう」


 ヴィクトルがそう言うと、ハイゼンもハッとした表情で顔を上げる。

 西の空で紅く燃える太陽もそろそろ彼方へ沈みそうだ。夕餉とするには丁度良い時間だが、完全に陽が沈めば夕餉には少し遅い。


「これは、気付きませんで……」


 謝罪してから、ハイゼンが城壁の一角を指差す。すると、そこにはヴィクトルの記憶にはない、見慣れないものがあった。

 城壁を貫通するように佇む一軒の建物、その裏側だろうか。随分と不思議な、見慣れない建築様式。国内はおろか、国外でもあのような様式は見たことがない。屋敷として見るとかなり小さいが、裕福な平民が暮らす一軒家よりは大きいようだ。しかも二階建てである。


「あちらが、フミヤ・ナツカワ殿の店、ナダイツジソバとなっております」


 ハイゼンに言われて、ヴィクトルも「ふむ」と頷く。


「あれがな……。確かに、何だか変わった様相だのう。何処でも見たことがない」


 地球という異世界のことは生前のナジム少年からもいくらか聞いたが、建物の様式やその実物を目にするのは初めてのこと。これは王都に戻り次第、ヴィクトルの記憶が鮮明なうちに記録として残さねばならないだろう。

 また余計な仕事が増えるが、ハイゼンと語らう時間の代償と思えば安いものだ。


「あちらが店の裏になっておりますが、今回は特別に裏口から店内に入っていただきます」


 じっと城壁の建物を凝視しているヴィクトルに、ハイゼンがそう声をかけてきた。


「何だ? 表から入らんのか?」


「いつもならそうなのですが、お忘れですか? 今回はお忍びだと言うたのは他ならぬ陛下ですぞ?」


「あ、そうだったな……」


 これはうっかりしていたと、ヴィクトルは苦笑する。

 そう、今回は騒ぎにならないようにと、確かにお忍びにしたのだった。しかも、おあつらえ向きに変装までしてきたのに、ハイゼンに会えたことで今の今まですっかりそのことを失念していたようだ。


「表には警護の騎士を立たせておりますから、陛下たちは何卒裏口からお入りください。陛下が入店次第、裏口も騎士たちに警護させます」


「そうか。諸君、よろしく頼む」


 ハイゼンの後ろに控えているアルベイルの騎士たちにそう声をかけると、彼らはどういう言葉も返さず、わざわざその場に片膝を突いて頭を下げる。どうやら彼らも万事心得ているようで、国王に声をかけられたからと浮ついている様子もない。流石はハイゼンの旗下、よく訓練されているようだ。

 今日は貸し切りだとハイゼンが言っていたので、表の警護は彼の部下たちに任せていいだろう。

 しかしながら、店内までも大勢の騎士に護衛されたのでは落ち着かない。


「ああ、そうだ、ハイゼン。店内の護衛は私の連れに任せてはもらえぬか?」


 ヴィクトルがそう言うと、ハイゼンは明らかに困ったという様子で眉間にしわを寄せた。


「え? いや、しかし……」


「案ずるな、私が連れて来たのはヴェンガーロッドの騎士たちぞ?」


 そう、今回連れて来たのは国内の騎士たちの中でも最高峰の武力を誇るヴェンガーロッド特務騎士隊の隊員たち。要人の警護というのなら彼らには適任である。


「それに私もおりますからな。いざとなれば、私も剣を手に取り陛下をお守りいたしましょう。まだまだ耄碌はしておりませんからな」


 ヴィクトルの言葉に続くように、パーシー翁が言う。

 老いてなお血気盛んなのは結構なことだが、ヴィクトルは思わず苦笑してしまった。


「そこは瞬間移動で逃げさせてもらいたいのだがな、翁?」


「あ、そうでした……」


 気恥ずかしそうに後頭部をポリポリと掻くパーシー翁。

 逃げるより先に戦おうとは、何とも翁らしい。楽隠居とはいかず老いてますます意欲旺盛、これはキースら彼の息子たちも手を焼く筈だ。


「ははは、いつまでも気持ちが若いのう、翁は」


「剣と魔法くらいしか能がありませんからな」


「それだけあれば十分だ。私など突出したところもない凡愚なのだからな」


「謙遜ですかな、陛下?」


「いいや、自虐だ。忘れよ」


「御意に」


 自分も老後はかくありたいものだとヴィクトルが笑い、それに合わせてパーシー翁も笑う。

 2人してひとしきり笑い合ってから、ヴィクトルは表情を正してハイゼンに向き直った。


「さて、行こうか、ハイゼン、それに諸君。腹の虫が鳴いておるわ」


 言いながら、ヴィクトルはポンポンと自らの腹を叩く。ヴィクトルは今回の為に年甲斐もなく朝食、昼食をセーブしてきた。朝、昼、どちらとも小さなパン1つにゆで卵1個の粗食で済ませ、給仕長には随分と心配されたものだが、おかげで胃には十二分の余裕がある。

 ここまで腹が空いているのならば、いつもより沢山飲み食い出来るのではなかろうか。貴族、平民問わず口にした皆が絶賛する異世界の美食、実に楽しみである。


 ヴィクトルのウキウキとした気持ちが分かるのだろう、ハイゼンも苦笑しながら頷く。


「かしこまりました。こちらです」


 一行を先導するように歩き出したハイゼンの背に続き、ヴィクトルも歩き出した。

※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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