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名代辻そば従業員アレクサンドル・バーベリとまかないの茶そば

 アレクサンドルは長らくラ・ルグレイユという、旧王都で最高の料理店と謳われる一流レストランに勤めていたのだが、先日きっぱりとそのラ・ルグレイユを辞め、ナダイツジソバという大衆食堂に転職した。

 本当は独立して自身の店を構えようと思っていたのだが、ナダイツジソバの料理に魅せられ、独立前の最後の修行として働かせてもらうことにしたのだ。

 それに伴い、ラ・ルグレイユの独身寮を出て、今は新居を探しつつ安宿で寝泊まりしているのだが、この宿で食事をしたことは今日に到るまで一度もない。何故なら、ナダイツジソバでは朝昼晩3食まかないが出るからだ。それも無料で、給料から天引きされることもなく。

 このまかないが、今のアレクサンドルにとっては何よりありがたかった。

 何せアレクサンドルが泊っている宿は食事が不味いことで有名で、しかも宿泊客が使えるような調理場もないので自分で食事を用意することも出来ないと来ている。

 だから勤め先でまかないが、それも美味い料理が出てとても助かっているのだ。

 しかも、そのまかないがただ美味いだけでなく、他の何処でも食べられない独創性に溢れた料理だというのだから、自身の料理にオリジナリティを求めるアレクサンドルにとっては尚ありがたい。

 まかないの度に驚きがあり、発見がある生活。

 しかも勤務の中で新たな知識と技術も得られるので、今の環境は控え目に言っても最高である。前にも増して忙しくなったことや給金が少し下がったことなどは苦にもならない。この生活の中で、アレクサンドルは給金以上の学びを得ているのだから。


 今日も今日とてアレクサンドルは早朝の街をナダイツジソバへ急ぐ。

 季節はまだ冬で、道にも建物の屋根にも分厚い雪が積もっているが、あと1ヶ月もすれば雪解けの季節が訪れる。

 別に冬が嫌いという訳ではないが、アレクサンドルは春という季節がとても好きだ。雪が溶け、緑が生命力を取り戻す春は、何か新しいことが始まるような気持ちにさせてくれる。実際のところ、アレクサンドルの新しい始まりは晩冬となった訳だが、暦の上ではもう初春なのだから大目に見たいところだ。


 白い息を吐きながら1時間近くも歩くと、今や自身の職場となったナダイツジソバが見えてきた。店の前に人間の姿が2人ほどあるようだが、あれはお客ではなく、先輩従業員であるルテリアとチャップであろう。ルテリアは店長から店のスペアキーを預かっているので、それを使って店の中に入ろうとしているのだろう。あそこにアンナの姿がないのは、今日は彼女が休みの日だからだ。


「お2人とも、おはようございます」


 そう言って、慇懃に頭を下げるアレクサンドル。アレクサンドルの方が年上かもしれないが、彼らはこのナダイツジソバの先輩である。敬語を使うのは当然のことだ。

 アレクサンドルが2人に声をかけるのと同時に、ガチャリと音がして鍵が開く。


「あら、おはようございます、アレクサンドルさん」


「おはようございます。今朝も冷えますね。丁度鍵開いたみたいなんで、早く中に入りましょう」


「ええ、そうしましょう」


 3人連れ立って店に入ると、魔導具によって暖かく保たれた空気と、先んじて店内の清掃作業をしていたシャオリンが出迎えてくれた。

 彼女は店長と一緒に2階で寝泊まりしているので、通いで来ている従業員よりも早い時間から働いているのだ。


「3人とも、おはようございます」


「おはよう、シャオリンちゃん」


「おはよう、今日も早いね」


「おはようございます、シャオリンさん」


 4人で挨拶を交わし、今度は厨房へ行く。朝のまかないを準備してくれている店長にも挨拶をし、厨房を通って奥の部屋で制服に着替える為である。


「「「店長、おはようございます!」」」


 3人揃って挨拶をすると、大鍋で出汁取りをしていた店長がニコリと微笑む。


「みんな、おはよう。今朝のまかないは茶そばだよ。茶そば、まだ出したことなかったよね?」


 店長の口から出た、チャソバ、という聞き慣れない言葉。

 アレクサンドル、チャップ、シャオリンが一体何だろうと首を傾げる中、ルテリアだけが目を輝かせて満面に笑みを浮かべた。


「え、茶そば!? 本当ですか!?」


「うん。部屋から粉末茶を持って来てさ、そばを打つ時に、まかないの分だけ茶そばにしてみたんだ」


「わあ、素敵!」


 言いながら、胸元でパチパチと小さく手を叩くルテリア。

 彼女はどうやら、そのチャソバなるものを知っているようだが、そこまで喜ぶということは、きっと美味いものなのだろう。


「店長、チャソバとは何ですか?」


 どうにも気になってアレクサンドルが質問すると、店長はルテリア以外がチャソバを知らないことを察し、ああ、と頷いた。


「茶そばっていうのは、お茶の粉末を練り込んで製麺したそばのことです」


「お茶!? こ……紅茶を練り込んだのですか?」


 またしても店長に常識を破壊されたと、アレクサンドルは驚愕する。

 アレクサンドルの常識では、お茶はあくまで飲み物でしかなく、茶葉を食材にするという発想はそもそもない。

 そして麺に何か別の粉末を練り込むという発想もこれまではなかった。

 全く、何という自由な発想だろうか。全く常識に縛られていない。この自由な発想、そして麺に何か別の粉末を練り込むという手法は何としても学ばねばならないだろう。


 アレクサンドルがそんなことを思いつつ感心していると、店長は何故だか苦笑いしながら口を開いた。


「あ、いえ、紅茶ではなくて、何と言ったらいいのかな……。元は紅茶と同じ茶葉なんですけど、緑色のお茶なんですよ。その緑色のお茶の粉末を使っているんです」


「緑色のお茶……?」


 お茶といえば紅茶というのが常識だが、店長は更にアレクサンドルの常識を破壊してきた。

 緑色のお茶など見たことも聞いたこともない。はたして、その緑色のお茶とやらはどんな見た目で、どんな味なのだろうか。


「緑茶っていうんですけどね、紅茶と違って砂糖やミルクなんかは入れず、ストレートで飲むものなんです。独特の苦味があって、後味が爽やかなんです」


「そのようなお茶があったのですね。私は何と不勉強なのだ……」


 料理人という、ただひたすらに味を追求する道を歩みながら、アレクサンドルはこれまでお茶というものにあまり目を向けてこなかった。お茶はあくまで飲み物でしかなく、食材として食べられるとは考えてすらいなかったのだ。

 アードヘット帝国やカテドラル王国では、お茶の葉を食べる文化はなく、緑色のお茶というものも存在しない。だが、それ以外の国、例えばデンガード連合あたりならそういうものも存在しているのではなかろうか。

 そういう、自分たちのものと異なる文化圏の食文化にまで目を向けなかったのはアレクサンドルの落ち度である。大いに反省すべきことだ。


「ま、まあ、そう気落ちしないで、アレクサンドルさん。カテドラル王国には緑茶が流通していませんから、知らなくて当然なんですよ?」


 ガックリと肩を落とすアレクサンドルの背中をポンポンと叩きながら、慰めの言葉を口にする店長。

 彼は優しいのでこう言ってくれるのだが、しかしその言葉に甘える訳にはいかない。


「いえ、これは私の探求心が欠如している証拠。反省せねばなりません」


「知らないものはこれから勉強していけばいいんですから、そんなに落ち込む必要なんてありませんよ、アレクサンドルさん」


 店長にそう言われ、アレクサンドルはハッと過去のことを思い出す。

 あれはまだアレクサンドルが15歳の少年だった頃。ラ・ルグレイユに雇われたばかりだったアレクサンドルは調理のことなど何も知らず、野菜の皮むきのような簡単な作業ですら満足にこなすことが出来ず上の人たちに怒られる日々を送っていた。

 確かに、それまで調理というものに触れてはこなかったアレクサンドルではあるが、自分が想像以上に出来ない奴だという現実を突きつけられ、心が折れそうになっていたのだ。

 店の裏で誰にも悟られぬよう涙を流すアレクサンドルを見つけた、その当時のシェフがこう言ってくれた。


「知らないものはこれから覚えていけばいい。新米がそんなふうに落ち込む必要なんかないぞ、アレクサンドル。俺の若い頃なんてのは、今のお前よりもずっと出来なかったものだ」


 と。

 その言葉が、アレクサンドル少年にとってどれだけ救いになったか。

 それからである、仕事が辛い、もう辞めたいなどと思わなくなったのは。

 そして、その日から失敗を恐れず何事も勉強だと考えを改めたアレクサンドルはめきめきと頭角を現し、遂にはラ・ルグレイユのスーシェフにまで上り詰めたのだ。


 まさか自分より歳若い店長が、あの老成して含蓄あったシェフと同じような言葉を口にするとは。

 年齢など関係ない。やはりこの人に学ぶと決めたことは正解だったのだ。


「店長……」


 アレクサンドルが感激して言葉を失っていると、店長はニコリと微笑み、頷いて見せた。


「さ、着替えてきてください。店内の清掃が終わったら、まかないにしましょう」


「はい……ッ」


 それから3人はそれぞれ従業員控室で着替え、清掃作業をはじめとした開店準備に取り掛かる。店長もダシ取りやトンカツの揚げ作業などと並行してまかないの準備をする。

 シャオリンが先に作業してくれていたこともあり、店内の清掃や備品の補充などは1時間もせず終わった。

 そして、作業が終わる頃合いを見計らっていたかのように、厨房で作業していた店長がホールに顔を出す。


「みんな、まかない出来たから食べようか」


「「「「はい!」」」」


 待ちに待ったまかないである。

 チャソバとは、はたしてどんなものか。

 アレクサンドルは少年のようにワクワクしながらU字テーブルの1番端に座り、そこを起点に皆で横一列に並んで座る。

 料理を満載した盆を持った店長とルテリアが、皆の前に料理を置いていく。

 アレクサンドルは料理が置かれて早々、これがチャソバというものかと、眼前の料理を覗き込んだ。


 モリソバ用の器にたっぷりと盛られた、何とも鮮やかな緑色のソバの麺。量としてはトクモリソバと同じくらいあるのではないだろうか。

 それに見慣れたネギとワサビの薬味と麺を浸ける為の濃い味付けのソバツユ。これらはモリソバのそれと全く変わらない。

 どうやら、このチャソバというものはモリソバの亜種のようだ。

 カケソバとモリソバは他のソバに比べて麺そのものを味わうという趣向が強い。特にモリソバは冷水で締められているからか歯応えと香りが強く、噛み締めるとソバ特有の良い香りが鼻に昇るのが特徴である。

 そこに店長の言う緑のお茶が加わったことでどう変化しているのか。

 アレクサンドルがそんなことを考えながらチャソバを凝視していると、いつの間にかまかないを配り終わった店長とルテリアも席に着いていた。


「今日は茶そばだけだからさ、量は特もりにしといたんだけど、朝からちょっと多かったかな?」


 席に座るなり、店長が苦笑いしながらそう訊いてくるのだが、皆、そんなことはないと首を横に振る。


「とんでもない! これくらい、みんなペロッといっちゃいますよ!!」


 皆の声を代弁するようにチャップがそう言い、残りの3人で同意するよううんうんと頷く。

 店長のまかないはいずれも絶品。量が多いのはむしろご褒美だ。

 それを見た店長は、安堵したようにほっ、と息を吐いた。


「そう? ならいいけどさ。じゃ、早速食べよっか」


「「「「「いただきます!!!!!」」」」」


 店長の音頭に合わせ、皆で食前の言葉を口にする。

 食材と料理人に感謝を示し、ありがたくいただくという意味のこの言葉。

 教会の僧侶や熱心な信徒も食前に祈りの言葉を口にするが、それはあくまで神への感謝でしかない。食材と料理人への感謝というのは店長の国独特のものらしいのだが、いち料理人としては何とも心地良い言葉だ。

 アレクサンドルも店長と食材に感謝し、早速チャソバに取り掛かる。


 1口目は、やはり薬味抜きでシンプルにソバの麺とソバツユだけで味わうべきだろう。

 もうすっかり扱いにも慣れたワリバシを手に取り、1口分の麺を取る。

 翡翠の如き鮮やかな緑の麺が陽光を受け、きらきらと輝くのが何とも美しい。まさしく食べる宝石。

 そんな宝石のような麺をソバツユに浸し、そのまま一息にズルズルと啜り上げ、咀嚼する。


「おぉ……ッ!」


 下品とは分かっているが、口の中にものを含みながらも感嘆の声が洩れてしまう。

 美味いのは当たり前だが、チャソバとは何と爽やかなものなのだろうか。

 咀嚼するだけで鼻孔まで立ち昇る、この爽やかなお茶の風味。これが緑のお茶の香りか。

 後味がほんのりと苦いのもまた良い。新緑の季節に食べる山菜のようで癖になる味わいだ。これは大人の味と言ってもいいかもしれない。

 見れば、他の皆も驚いたような顔をしていた。きっと、アレクサンドルと同じように、このチャソバの持つ爽やかな風味に心を奪われたのだろう。

 そして最初の一口を食べた後は皆、一様に笑顔となり、嬉々として次の一口を手繰る。

 口内のものを飲み込み、こうしてはいられないとアレクサンドルも次の麺を掴み上げ、ソバツユに投入した。

 次の一口には薬味を使う。ネギをハシで一掴みと、ワサビを少量麺の上に載せる。モリソバの場合、ソバツユに対してワサビを全て溶かしてしまう者が大半だが、アレクサンドルは適宜ワサビを取り、ソバツユには溶かさず麺の上に載せて食べるのが好きだ。その方がソバツユが濁らず、ワサビの風味もより引き立つような気がする。


 ずるるるる、ずる!


 これもやはり下品なのだが、豪快に音を立ててチャソバを啜り上げるアレクサンドル。ソバを食べる時はむしろ音を立てた方が粋なのだと、そう教えてくれたのは、アレクサンドルがまだナダイツジソバに通い始めたばかりの頃に店で知り合った、テッサリアというエルフの女性だ。

 テッサリアの話はさておき、ともかく二口目である。

 ネギのピリリとした辛味とワサビの鮮烈な辛味と爽やかさが加わったことで、チャソバの爽やかさがまた一段と引き立てられているのだ。


「美味いなあ……」


 キラキラと鮮やかに輝くチャソバを見つめながら、アレクサンドルはしみじみと呟く。

 このシンプルな料理の、何と奥深いことか。

 シンプルなものをシンプルなまま、余計なものは加えず美味くする。これは一流料理人だとて至難の業と言えよう。それを苦もなくやってのけるのだから、やはり店長は、フミヤ・ナツカワという人は凄い。

 ラ・ルグレイユという一流のレストランを辞め、このナダイツジソバに身を寄せたのは英断であった。間違いではなかった。

 今日もまた、朝からこうして多くの学びと、そして美味に対する感動を得たのだから。


 ナダイツジソバに学び、他の追随を許さぬこのオリジナリティに触れる。

 そうして自分もいつかはナダイツジソバのようにオリジナリティ溢れる料理店を出すのだ。

 もう若くはない、30も半ばにして、今のアレクサンドルは夢に燃えていた。

 アレクサンドルはやがてナダイツジソバ同期のアンナと結婚し、国一番の都と言われる王都で、自身の創作料理を数々メニューに載せた大盾亭の2号店を開くことになるのだが、それはまだまだ先の話である。


※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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