大盾亭料理人兼名代辻そば従業員アンナとまかないの揚げ立てとんかつ定食
アンナとアレクサンドルがナダイツジソバの従業員となってから1週間。
この1週間はまさしく戦争であったと、厨房で皿洗いをしながらアンナはそう思い返していた。
大盾亭での仕事もあるので、アンナがナダイツジソバで働くのは1日おきなのだが、それでも恐ろしく忙しかったのだ。
朝9時の開店から夜9時の閉店まで怒涛の勢いで雪崩れ込んで来るお客の波。
まともな休憩時間はないに等しく、唯一休めるのはまかないの時のみ。そのまかないとて、ゆっくりしている時間はない。
大盾亭もアルベイルでは繁盛している方だが、このナダイツジソバの忙しさはその比ではないと、この1週間でそう思い知らされた。
何せ回転率が違う。大盾亭も繁盛はしているが、お客はゆっくりと食事を楽しむ。だが、このナダイツジソバではお客1人の食事時間が30分にも満たず、調理時間も僅か数分、調理場は常に鉄火場の様相を呈しており、満足に一息つく暇もない。前述の通り、まかないの時しか休めないのだ。
しかも、そのまかないも皆で一緒に食べるのではなく、1人ずつ交代で食べなければ店が回らなくなるような有様。
だが、ルテリアら古参の従業員たちによると、これでも前に比べれば随分と仕事が楽になったのだという。アンナとアレクサンドルが加わってくれたことで随分と助かっていると。聞くところによると、年末年始以外は休日もなかったのだそうだ。
その話を聞いた時、話しているルテリアは笑っていたが、アンナは唖然としたものである。
一体、前までのナダイツジソバはどれだけ忙しかったというのだろうか。国王や大臣だとてここまで忙しくはあるまい。
だが、そんな忙しさであるにも関わらず、店長をはじめとした古参従業員たちはくたびれた顔は一切見せず笑顔で働いている。しかも作り笑顔ではなく、本当に楽しそうに。
ルテリアもチャップもシャオリンも、このナダイツジソバで働くことが幸せだと、そう言うのだ。熟考することもなく、さも当たり前とでもいうように断言する。店長に至っては、このナダイツジソバを営むことこそが己の生き甲斐なのだと言っていた。しかも即答である。
ナダイツジソバという店に対する彼らの真摯な姿勢を見て、アンナは考えさせられた。
はたして、自分は彼らほど真摯に大盾亭に向き合えているだろうか、大盾亭で働くことこそが己の生き甲斐だと言い切れるだろうか、と。
無論、アンナにとっての大盾亭は人生の大半を占めるものであり、己のルーツとも言えるものだ。骨を埋める場所も大盾亭と決めている。
だが、それでも一途に大盾亭で働くことが己の全てだと言えるだろうか。
アンナとて人間、働いているだけでは息が詰まるし、人並みに欲求もある。恋愛にも興味はあるし、いずれは結婚して子育てもしたい。おしゃれな服やアクセサリーが欲しいという物欲もあるし、親孝行の為に新築の家を建てたいというのもまた欲だろう。
こうして改めて考えてみると、己が如何に欲まみれな人間かということが分かる。
人間が生きる上での欲望は否定しないが、あまり欲望が過ぎるのも考えものだ。欲を掻き過ぎれば、それは最早煩悩である。欲を掻き過ぎるやつは早死にすると、元ダンジョン探索者の父も言っていた。
他にはさして欲をかかず、一途にナダイツジソバのことを想うその姿勢は、アンナも1人の料理人として見習うべきものだろう。
料理の技術や知識だけでなく、その生き方にまで勉強すべきところがあるのだから、この店で働かせてもらうという決意は英断だったと言えよう。
アンナが大盾亭で働きつつナダイツジソバでも働くと言った時、父も兄も随分と驚いたものだが、しかし不思議と彼らから否定的な言葉が出ることはなく、むしろ、しっかり勉強してこいや、と激励されたくらいだ。
これが仮にナダイツジソバではなく他の店であれば、彼らはこうもあっさりとアンナの決断を許してくれなかったのではなかろうか。
料理にも人生にも、ナダイツジソバには、そして店長たちには学ぶべきところがまだまだ沢山ある。ナダイツジソバで働けて本当に良かった。
それに何より、まかないが美味いということが本当に良い。料理の勉強にもなり、美味い飯をたらふく食えばそれだけで幸せになるし、まだまだ働くぞという活力も満ちる。それだけでなく、店のメニューにはない店長の料理が食べられるということが大きいのだ。従業員しか食べられないものが食べられる、ということが。
店のメニューと同じ料理がまかないで出ることもあるのだが、今日の料理は店では出していないものだと店長が言っていた。それも、これまで1度も出していないものだと。
「今日の昼のまかないは揚げ立てのとんかつ定食だから、楽しみにしておいて」
朝に聞いた店長の言葉が、今も頭の中で繰り返し再生される。
トンカツとは、あのカツドンのカツに当たる部分だというのは仕事の中で覚えたが、アンナはまだ、カツドンになる前の揚げ立てトンカツを食べたことがない。トンカツは基本的にはカツドンかカレーカツドンにしか使われないもので、尚且つ作り置きのものを使うからだ。
店長曰く、作り置きのトンカツはそれ単品だと賞味が低下するらしく、提供する際にダシで煮込むからこその作り置きなのだという。
揚げ立てトンカツとは一体どんな味なのだろう。早く食べてみたいものだ。
そんなことを考えながら洗った食器を拭いて棚に戻していると、不意に、
「とんかつ定食出来たからアンナさん、まかない行って!」
と、調理作業をしていた店長から声がかかった。
「はいよ!!」
勤務初日に教えてもらった、従業員がまかないを食べる席へと行く。何処の飲食店でもほぼ同じようなものだが、この店でもまかないは厨房の奥か従業員控室で食べるらしい。
アンナは無論、店長の仕事が見えて、かつ急に人手が必要になった時でも迅速に対応出来る厨房で食べる。
洗いものを全て片付け、厨房の奥に設けられたまかない用の席に向かうと、そこにはすでにまかないが用意されていた。
「これが、トンカツ定食ってやつか……」
眼前の料理をまじまじと観察してみる。
器にたっぷり盛られた純白のコメに、麺が入っておらず、代わりにワカメとネギがどっさり入ったソバツユ。
そしてメインは、平皿に盛られた、黄金色の見事な衣を纏った分厚い豚肉。これこそがカツドンになる前のトンカツだ。
店長の言葉通り、揚げ立てのトンカツがまだシュワシュワと音を立てている。
そして音と共に立ち昇る、何とも香ばしい匂い。これは同じ揚げものであるコロッケとも共通する匂いで、乾燥したパンを粉にしたパン粉を揚げた時のものだ。そこに上質な肉の匂いも混ざり合い、得も言われぬ美味なる香りへと昇華している。
「わあぁ……」
思わず感嘆の声を洩らすアンナ。
貴重な食用油を、それも上質な植物油をたっぷりと使う揚げ料理は、老舗と言われる大盾亭でも出していない。故に、アンナはまだ揚げものの調理をしたことがなく、ソバなどの調理と合わせて目下のところ勉強中である。
同じ日に雇ってもらった同期の従業員であるアレクサンドルから聞いたところによると、ラ・ルグレイユですら揚げ料理を出すことは滅多になく、食べたければ最低でも1年前からの予約が必要になるのだそうだ。
貴重な植物油を毎日大量に使うナダイツジソバ。一体何処からそんなものを仕入れているのか、そしてその資金源は何処なのか、そういった疑問が尽きることはないが、そこらへんの事情を突っ込んで質問することはタブーなのだと、ルテリアから口を酸っぱく注意されている。
きっと、店長にも色々と事情があるのだろう。アンナとしても気になるところではあるが、調理技術の習得には直接関係ないことなのでしつこく訊くようなことはしていないし、これからもするつもりはない。
「じゃあ、早速……」
横に添えてあった、無色透明の不思議な容器に入った黒いソースをたっぷりとトンカツにかけてから、ワリバシを手に取ってパキリと割る。
このハシというカトラリーも不思議なものだが、デンガード連合のごく一部の国でのみ使用されているものなのだと、先輩従業員であるシャオリンがそう言っていた。細い棒で食事をするなど当初は慣れなかったのだが、今となっては、ナダイツジソバの料理を食べるのならハシではなくては落ち着かなくなってしまったくらいだ。
そんなふうに手に馴染んできたハシを器用に使い、トンカツを1切れ持ち上げ、口に運ぶ。
お上品に1口分だけ嚙み切ったりはしない、豪快に1切れ全部口に入れて咀嚼する。
ザクザクとした心地良い歯応えと油の香ばしさに、上質な肉の弾力と力強い味、そしてソースの芳醇な香りが口内に広がり、それが何とも玄妙な香気となって鼻に上ってゆく。
「うんん……ッ」
美味い。思わず声が洩れてしまうほどに美味い。感動的な味だ。揚げ立てのトンカツとは、こんなにも美味いものだったのか。
だが、トンカツの美味さはここで終わるほど浅いものではない。
噛み締めれば噛み締めるほど溢れ出す肉汁と甘い脂が、早くコメを寄越せ、そうすればもっと美味くなると訴えてくる。
その訴えに従い、すかさずコメを掻き込み、更に咀嚼を重ねるアンナ。
「んううぅッ!」
ああ、美味い、美味過ぎる。
ほのかな甘みのもちもちとしたコメが重厚なトンカツの旨味を受け止め、咀嚼を進めるごとに調和していく。より完成された美味へと変貌していく。
そして、口内のものをソバツユでグッと流し込むと、口の中がさっぱりとしてまた次の1口が食べたいという欲求が湧いてくる。
主食とスープにおかずという盤石のスタイル、定食。これは実に考えられた組み合わせだ。シンプルだがどっしりとして隙がない。
大盾亭でもこういう組み合わせの定食が出せないものだろうか。コメがなくとも、麺やパンでどうにかしてみたいところだ。家に帰ったら色々と試してみよう。
早速トンカツ定食から学びを得たアンナは、思案しながら食べ、食べながら思案し、いつの間にかまかないを完食してしまった。
「ふう、今日も美味かった……」
ソース臭い息を吐きながら、満足気にそう呟くアンナ。
ナダイツジソバでの勤務は、同じ食堂である筈の大盾亭とはまるで異なり、こうしてまかないを食べるだけでも新たな発見があり、勉強になる。まるで見習いに戻ったような気持ちになるが、このナダイツジソバでは実際に新人だし、それもまた今のアンナにとっては新鮮であった。
まかないを食べ終わり、使った食器を洗いながら、アンナは思う。
ここでの学びが実家に還元されれば、大盾亭は今よりもうひとつ上に行けるだろう。
老舗だからと完成された気になってはいけない。大盾亭にも進化の余地が十分残されている。
それを教えてくれたのは、他ならぬこのナダイツジソバ、そして店長のフミヤ・ナツカワだ。
彼から多くを学び、いずれ再び街一番という看板を取り戻す。大盾亭を最高の食堂だと皆に言わせてみせる。
今のアンナは、近年稀に見るほどの熱意に満ち溢れていた。ナダイツジソバという新たな刺激によって触発されたのだ。
アンナの熱意は大盾亭に新たな風を吹かせ、客足は復活するどころか以前にも増して店が繁盛するようになるのだが、それはもう少し先の話。
そして、アンナがアレクサンドルと結婚し、王都に大盾亭の支店を出して、そこの料理長になるのはもっと先の話である。
※西村西からのお願い※
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