老舗食堂『大盾亭』料理人アンナと常識を覆すかつ丼セット⑤
普通に出されて飲んだ水の何と美味いことか。
アンナがその透き通った味に驚いていると、いつの間にか給仕の少女が盆に料理を満載して戻って来た。
「お待たせいたしました。こちら、カツドンセットになります。まずはカケソバと……」
言いながら、真っ黒などんぶりをアンナの眼前に置く給仕の少女。
アンナはその姿を唖然と見上げていた。
「お、おお……えらい早かったね…………?」
彼女が水を持って来てくれてから、まだ5分と経っていない。あまり手のかからないサラダでもあるまいし、そんな短い間に2品もの料理を作って持って来られるものだろうか。
少なくとも、大盾亭ではこんな短時間で料理を作ることは出来ない。熟練の料理人である父であろうとも、だ。
まさかとは思うが、もしや作り置きの品だろうか。いや、ちゃんと料理から湯気が立ち昇っているのでそれはない。
ということは本当に5分足らずで作ったということになる。手際が良い、などというレベルではない。一体どんな早業だ。
「はい。当店はお料理のご提供が早いことも売りですから」
アンナの内心を分かっているのかいないのか、給仕の少女がこともなげにそう返す。
「そうかい……」
そう呟きながらアンナは頷くが、内心では不安が渦巻いている。こんなにパパッと作ったものがそんなに美味いのか、忙し過ぎて手を抜いて作っているのではないか、下手をすれば不味いのではないだろうか、と。
「それと、カツドンになります。ごゆっくりどうぞ」
もうひとつ、内側が朱塗りになったどんぶりも置き、給仕の少女は慇懃に頭を下げてから別の席へ注文を聞きに行ってしまった。
色々と不安は残るが、ここまで来て料理を食べずに店を出る選択肢はない。
アンナは覚悟を決めてカツドンセットに向き合った。
まずはカケソバ。
茶色く、それでいて澄んでいる奇妙なスープに沈む、灰色の麺。上に載っているトッピングは、恐らくは海草と、何らかの野菜を輪切りにしたもの。どうやら火も通さず生のようだ。薬味だろうか。もうもうと立ち昇る湯気を掻き分けるように鼻を近付けて匂いを嗅ぐと、ペコロスのような刺激を含んだ独特な香りがした。
ペコロスに似た輪切り野菜の香りと共に、スープの香りも鼻孔に吸い込まれる。
店内に漂うものより濃厚な香りだ。魚の香りと海草の香り、それに何らかの発酵調味料の香り。いずれもこれまで嗅いだことのない、あまり馴染みのない筈の香りなのだが、しかし妙に落ち着く感じがするのだ。
ともすれば魚の主張ばかりが強くなりそうなところなのに、絶妙なバランスで香りが調和している。
不思議なことに、魚の香りは強く感じるのに、魚の身らしきものは欠片も入っていない。まさかスープに味と香りを移す為だけに魚をつかったということか。だとすれば、この一見シンプルな料理の何と贅沢なことか。
試しとばかりに、両手でどんぶりを持ち上げ、スープをひと口、ずずッ、と啜ってみるアンナ。
「ッ!!」
温かな液体が口内に流れ込んだ、その瞬間、アンナはカッと目を見開いた。
美味い。
見た目の地味さに反した、何と華やかで典雅な味なのか。
主張の強い魚の香りとまろやかな海草の香りが同時に鼻へと昇り、発酵調味料の優しい味わいが舌に染み渡る。見事な調和だ。
雑味など一切なく、魚の旨味と海草の旨味が溶け合い、発酵調味料がそれらに味の方向性を与えている。
それに何と言うのか、塩味が丸く、角がない。決して薄味という訳ではないのに、塩味にとがった部分がなく、舌に刺さるような感じもしない。
「何て、上品な味……ッ」
どんぶりから口を放し、熱い息を吐きながら傲然と呟くアンナ。
これが、この味覚の華が開くような上品なスープが大衆食堂で、しかも驚くほどの安価で出されているなど、何の冗談だろうか。一流レストラン、それこそ貴族街のラ・ルグレイユですらこんなスープは出せまい。王宮の料理人たちですら怪しいところだ。
スープは一流。ならば麺はどうか。
周りのお客がそうしているように、アンナも見様見真似で卓上の筒から木の棒を手に取り、スリットに沿ってパキリと割る。
確か、ハシとかいうカトラリーだったか。父と兄によると、ナダイツジソバでは基本的にこれで食事をするのだという。
そのハシを不器用な動作でスープに突っ込み、どうにかこうにか麺を持ち上げる。
明らかに小麦の色ではない灰色を湛えたソバの麺。これは小麦ではないというだけでなく、そもそも麦ですらないのではないか。穀物粉といえば小麦という頭があるので、然らば何かと問われれば、すわ答えることは出来ないが、アンナの見立てでは何か新種の穀物を使っているのではないかと思われる。
これ以上動かすと麺が落ちてしまいそうなので手はその場に固定したまま、顔を近付け、チュルチュルと麺を啜り上げるアンナ。
滑らかな口当たりで口内に入ってきた麺を噛み締めると、しっかりとした歯応えと共に、ふわっ、と独特な香りが鼻に抜ける。
これもやはり美味い。
そしてやはり、小麦ではない。
いや、正確に言うと小麦も混ざってはいるのだが、それはせいぜいが2割から多くて3割といったところ。残りの7割強は、この独特な香りをさせている新種の穀物だろう。
何処か牧歌的で、でも野暮ったいところはなく、例えるなら長旅から帰って久々に母親や妻の手料理を食べたような、心に平穏をもたらす、ほっとする味。何度食べても飽きることのない、それどころか何度でも食べたくなる日常に溶け込んだ味。
こんなものを出されたのでは、それは大盾亭の客足が減る筈だと、アンナは歯噛みしながらも納得した。いや、するしかなかった。
父と兄曰く、このカケソバというものはナダイツジソバという店の基本料理、大盾亭で言うなら大盾鍋に相当するものなのだという。
基本でこれなら、もっと手の込んだ料理ならどうなるというのか。
そのことを考えると気が遠くなりそうになる。
だが、今は気をしっかり持たねばならない。今は学びの時なのだ。ここから少しでも多くのことを学ばねば大盾亭に明日はない。早晩淘汰されてしまうだろう。
ここでカケソバは一旦置いておき、今度はカツドンに向き直る。
先ほどのカケソバと共通する、魚と海草の香り。どうやら下味にカケソバと同じものを使っているらしい。ということは、これはスープで煮た料理ということか。
どんぶりの中にこんもりと盛られた、溶き卵で綴じられた何か茶色いもの。この茶色いものには切れ目が入れられているようだが、上からでは断面が見えない。だが、これは恐らく豚肉だろう。顔に当たる湯気に混じる匂いが良質な豚肉のそれだ。
肉を覆うこの茶色いものが何なのかは分からないし、その意図も分からないのだが、これはかさ増しか何かのつもりだろうか。薄い肉を少しでも分厚く見せようとしているのなら、何とも涙ぐましい努力である。
まあ、それもこれも、全ては食べれば分かること。
まずはどんぶりにハシを入れ、肉のひと切れを掴み上げるアンナ。
ようやく現れた肉の断面から溢れる肉汁がテラテラと輝き、上部にはしっかりとした脂身が分厚く付いたロース肉。
しっかり中まで火が通っているのに、ほんのりとピンクに色付いた断面が、この肉が如何に上質なものかということを物語っている。
しかし、これだけ分厚い肉なのに、どうして表面に細工をしてかさ増しなどしているのだろう。不思議なことをするものだ。それとも何か、この肉を覆う茶色いものには、何か別の、ちゃんとした意味があるのだろうか。
見ているだけで、疑問は尽きないが、この分厚い肉の魅力を前にしていると、そんな考察が些細なことのように思えてくる。
何より、アンナの本能が先ほどから早くその肉を食わせろとひっきりなしに騒いで仕方がないのだ。
ちまちまと上品に食べたりはしない。大口を開けて、アンナは大きな肉ひと切れを全て口の中に放り込み、存分に噛み締めた。
もっちりとした柔らかい肉を歯で噛み潰した、その瞬間である。
じゅわわわわッ!!!!!
と、一体何処に隠れていたのかというほどの美味なるエキスが口内に溢れ出した。
これは肉汁だけではない。ソバにも使われていたスープに、良質な植物油までもが混ざり合っている。
しかもこの味、肉に卵、ソバのスープだけではない、下に隠れていたらしいペコロスの甘さに、焼いたパンのような香ばしさまで。
全ての味が喧嘩することなく、見事にまとまっている。どれかが突出していては途端に調和が乱れてしまうだろう、この繊細な味。このギリギリを往くような絶妙なバランス感覚、その妙は、これを作った料理人の腕に他ならない。
と、カツドンの味に感動していたアンナだったが、肉を取ったその下に、何やら白い粒の集合体が隠れていたのを見つけてしまった。
この白い粒は一体何か。
ハシを使ってどうにか少しだけ白い粒を掴み上げ、アンナはまじまじと観察してみる。
どうにも穀物を思わせるような粒だが見事な純白で、小麦とは別物だということが分かるが、大麦や燕麦、ライ麦でもない。
ということは、ということは、だ。
「ソバでもない、また別の穀物……?」
額にタラリと冷や汗を垂らしながら、アンナは思わず呟いた。
先ほどソバを食べた時、麦やトウモロコシ、豆ですらない穀物が存在するというだけでも驚きだったのに、ここに来てまた新たな穀物に出会うとは。
このナダイツジソバという店、全く底が見えない。
ともかくこの新たな穀物、まずは食べてみなければ。
ハシの先端に残ったままの穀物を口に運び、咀嚼してみる。
一粒一粒が立ってしっかりとした食感に、癖のないほのかな甘み。これ自体は何とも淡泊なものなのだが、そこに肉汁やらソバのスープやら油やらが複雑に絡み、何とも味わい深い仕上がりになっている。
この穀物は単体で食べるものではなく、何かと合わせて食べるものなのだろう。
無論、色々な旨味が染みた今の状態でも十分美味いのだが、やはり肉と一緒に食べねばその真価は分かるまい。恐らくはその為に一緒の器に盛られているのだから。
アンナの不器用なハシでは肉と穀物を一緒に持ち上げることは出来ないので、少々はしたないがどんぶりごと持ち上げて口元に運び、ハシを使って肉も穀物も卵もペコロスも、とにかくこの料理の全ての要素を豪快に掻き込む。
「うんんんんんッ!!!」
身の内にビーストの血が流れているからか、思わず獣じみた声が洩れ出る。
美味い。やはり美味かった。
どっしりとした肉とまろやかな卵の味を白い粒が受け止め、口の中で混然一体となり、どんぶりの中の要素が全てひとつにまとまった。調和したのだ。
大盾亭の名物料理である鍋料理も、大きな鍋の中で多彩な食材を一緒くたに煮込むものだが、正直ここまでの調和を見せるものではない。大盾亭の料理人としてそれはとても悔しいことだが、少なくとも食材の、そして味の調和という一点においてナダイツジソバには敵わない。
どのように言語化すればよいのか分からないが、何と言おうか、料理としての流派が違うという感じがする。カテドラル王国ではない、異国の料理といったところか。カテドラル王国とは文化的に近いアードヘット帝国やウェンハイム皇国のものではないし、デンガード連合のものとも違う。それこそ別の大陸の料理といった方がしっくりくる感じだ。いや、もしかすると本当に別大陸の料理なのかもしれない。
そのまま勢いに任せてガツガツとカツドンを食べ進め、どんぶりが半分ほど空になったところで、アンナははたと、こんなことを思った。
このカツドンという料理、もしかしたらカケソバとも調和するのではないか、と。
カツドンもカケソバも、味の下地は同じ魚と海草のスープ。これらが口内で一緒になったとしても、反発し合うということはないだろう。
そう思って、カツドンを食べてから、それをカケソバのスープで流し込む。
「んんんッ!!!」
合う。抜群に合う。
下地が共通しているだけに、カケソバのスープがカツドンの後味を邪魔したり消し去ったりしないのだ。カツドンの確かな余韻を残したまま、スープが口内のものを攫って喉の奥へと流し込んでくれる。そして口の中も舌もさっぱりとして、また次のひと口が食べたくなるのだ。
この食べ合わせの妙たるや、実に見事。何から何まで綿密に計算されている。
そこからはもう、アンナのハシは止まらなかった。
本能のままに麺を啜り、肉を食らい、穀物を食ってスープを飲む。
どんな順番で食べても美味いし、どんなふうに食べても美味い。
気が付けば、アンナは食べ始めてから僅か10分足らずでカツドンセットを完食していた。
小柄で線も細いアンナが、食べたいという欲求を抑えられないほど美味かったのだ。途中からは勉強であるということすらも忘れて食べることに集中していた。
パワフルさと繊細さが高いレベルで両立する料理、カツドン。
全く、アンナがこれまで培ってきた料理人としての常識を根底から覆されたような気分だ。
これはあまりにも美味い。美味過ぎる。それは父や兄が口を揃えて食えと言ってくる筈だ。
食べ終わり、ある程度落ち着いて冷静になった頭で考えると、これはとんでもないことだと分かってきた。
大盾亭はこれから、こんな美味いものを出す店を競合として争わねばならないのだ。
今のままでは確実に客足を持っていかれてしまう。
大盾亭にも変化、いや、進化が必要だ。でなければ時代の波に流されてしまうことだろう。
そして、その進化の鍵があるとすれば、ここ、ナダイツジソバである。むしろここにしかない。
未来の大盾亭を救う為に、ナダイツジソバに学ぼう。
そう決断したアンナは、己の決意を固めるよう、コップの中に残っていた水を全て飲み干した。そして、ゴン、と、音を立てて空になったコップをテーブルに置く。
今はまだ昼間、この店の忙しさを考えれば、店主もおいそれとは時間を取れないだろう。
夜になったら、またこの店に来る。
そう心に決めて、アンナは勢い良く席を立った。
※西村西からのお願い※
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