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大公ハイゼン・マーキス・アルベイルと始まりのかけそば③

「すまんのだが、よろしいか?」


 店の入り口から一歩踏み込み、ハイゼンが青年の背に声をかける。

 すると、青年は驚いた様子で立ち上がり、ハイゼンたちの方に顔を向けた。

 黒髪黒目に少し日焼けした肌。ここいらでは見ない人種だが、エルフやビーストのようなヒューマンに似た種族ではなく、ハイゼンたちと同じ純血のヒューマンのようだ。混血の特徴も見られない。


「え? ん? あれ、いつの間に……?」


 青年はどうやらハイゼンたちが現れたことに戸惑っている様子である。店に客が来たというのに、どうして戸惑っているのだろうか。


「?」


 ハイゼンとアダマントが不思議そうに見つめていると、青年は瞠目して静かに口を開いた。


「も……」


「も?」


「もしかして、お客様ですか!?」


 青年が突如大きな声を出したもので、ハイゼンとアダマントは多少動揺しつつも頷いた。


「え? あ、ああ……。そう……だな、うむ、そうだ。客だ」


 本当はどうしてこんな場所に店を建てたのか、どうやって巡回の兵に知られず建てたのかなど、最初に事情を訊こうと思っていたのだが、青年の勢いに圧されてつい頷いてしまった。

 ハイゼンが頷いたのを見た途端、青年は先ほどの様子が嘘のように笑顔を浮かべ、姿勢を正して2人の前で頭を下げた。


「いらっしゃいませ、お客様。名代辻そばへようこそいらっしゃいました。うちはそば屋なんですが、今はかけそばかもりそばしかお出し出来ないんです。それでも構いませんか?」


 青年はツラツラと流れるような言葉運びでそう訊いてくるのだが、しかしハイゼンにもアダマントにも答え様がない。青年の言う、ソバなるものを知らないからだ。カケソバとモリソバというのはソバの種類なのだろうが、これらがどう違うというのかも二人には分からないのだ。


「ソバ屋とな? ソバとは何だろうか?」


「あれ? お客様はそばを御存知ない?」


「うむ、知らんな。アダマントはどうだ?」


「存じませんな」


 ハイゼンたちがそう答えると、青年は顎に手を当てて少し思案してから顔を上げた。


「そうですか……。なら、せっかくですから試しに召し上がってみますか? 食の好みは人それぞれですが、美味しいと思いますよ?」


「おお、是非に!」


 打てば響くといった具合にハイゼンが頷く。元々、その為に入店したのだ。これを断る選択肢はない。


「お外にお連れ様が大勢いらっしゃるようですが、お食事は2名様でよろしいですか?」


「構わん。頼む」


「畏まりました。御注文はどうされます?」


「えーと……アダマント、何であったか?」


 ハイゼンに訊かれて、物覚えの良いアダマントが答える。


「確かカケソバとモリソバですな」


「そうであった、そうであった。店主、では、カケソバを2つ頼めるか?」


「かけ2つ、承りました。空いているお席へどうぞ」


 そう言って青年は厨房の方へ向かう。ハイゼンとアダマントはU字のテーブルに2人並んで腰掛けた。


「楽しみだのう、アダマント」


 そう言うハイゼンは本当に楽しそうだ。王都への往復の旅は本当に心楽しまぬものであった。その反動からか、ただ見知らぬ料理を食べるということが随分と楽しいものに思えてならない。


「可能性は低いでしょうが、閣下、一応毒見はさせていただきますぞ?」


 敵国、政敵、家督争い、愛憎、醜聞。王国貴族が毒殺の危険に晒されているのは今も昔も変わらぬことだ。故に王侯貴族の食事は常に毒見役が毒見をしてから食べるのが常となっている。今回はハイゼンに随伴しているのがアダマントだけなので、毒見は彼がやるしかない。

 不承不承ではあるが、ハイゼンもそれについては否を唱えることはない。


「しょうがないのう……」


「お水をどうぞ」


 と、厨房に行った筈の青年がさして時を置かず戻って来て、二人の前に水の入ったコップを置いた。成形に寸分の歪みもない均一な、そして全く濁りのないグラスに、同じように濁りのない澄んだ水。しかもどうやって調達したのか、冬でもないのに氷まで浮いている。この1杯の水の何と贅沢なことか。


「いや、ありがたいのだが、しかし頼んでおらぬぞ?」


 ハイゼンもアダマントも喉が渇いているので水はありがたいのだが、しかし頼んだものではないので少し困惑している。

 だが、青年は涼やかな笑みを浮かべたままこう答えた。


「お水はサービスです」


 普通、店で水を頼むと金を取られる。それは下町の食堂でも貴族街の上等なレストランでも変わらない。冬でもない季節に氷が入っているとなれば、下手をすれば料理より水の方が高いということもあり得る。しかしながら青年はそんな貴重な水をサービスだと言ってのけた。これは驚愕に値することだ。


「何と、こんな濁りのない澄んだ水が、しかも氷まで入ったものがサービスとな……」


 グラスの水を凝視したまま、ハイゼンは呆れ半分に呟いていた。奇妙なことではあるが、自身が王弟であることも大公であることも忘れ、まるで王侯貴族の食卓のようだなと、そう思ったのだ。


「そばが出来上がるまで、少々お待ちください」


 そう言って青年は再び厨房へ行ってしまった。今度こそカケソバを作るのだろう。

 アダマントが呆然と青年の背を見送っていると、不意に、横から声が漏れた。


「うむ、美味い!」


 何と、アダマントが目を離した隙にハイゼンが毒見前の水を飲んでしまったのだ。


「閣下!」


 アダマントが慌てた様子で声を荒らげると、ハイゼンはしてやったりといったふうにニヤリと唇の端を持ち上げた。


「毒はないぞ、アダマント。安心して飲め。実に上質な水だ。キンキンに冷えておるわ。いや、甘露、甘露」


 そう言ってクツクツと笑うハイゼン。普段はこんな陽気な様子を見せない彼である。王都での鬱憤もあって、今は本当に楽しいのだろう。


「閣下が毒見をしてどうするのですか……」


 いささか羽目を外し過ぎだと呆れるアダマントの肩を、ハイゼンは楽しそうにポンポンと叩く。


「この分だとカケソバの毒見もいらんだろうよ。な、アダマント?」


「全く……」


 そんな他愛のないやり取りをしていると、厨房に行っていた青年がトレーに丼を2つ載せて戻って来た。丼から立ち昇る湯気が鼻孔を擽り、ふんわりと良い匂いに満たされる。どうやら今度こそ料理が完成したようだ。


「お待たせしました、かけそばです」


 ゴトリ、と重量を感じさせる音を立てて二人の前に置かれるカケソバ。ハイゼンとアダマントは同時に丼を覗き込んだ。

 茶色いのに濁りなく澄んだスープに沈む、少し紫がかった灰色の麺。そして薬味であろう何かの野菜を薄く輪切りにしたものを一摘みと、黒っぽいような緑色のようなペラペラとした何か。アダマントは何か分からなかったが、ハイゼンは恐らく、漁港のごく一部でしか食べられていないとされる海草の類だろうと見立てている。

 実にシンプルな、しかして妙に食欲を誘う料理だ。


「おお、これが……」


「麺料理なのだな」


 ハイゼンとアダマントが同時に感嘆の声を洩らす。

 アダマントは純粋に美味そうだなと思っているのだが、ハイゼンはこの麺がパスタではないことを見抜き、それに驚いていた。

 確かに小麦以外の穀物でも製粉出来るし、実際にとうもろこしやじゃがいもを粉にしたものはある。だが、それでも小麦粉以外の麺というのは、少なくともこの大陸には存在していないのだ。これは一見するとただの麺料理だが、深き洞察力を持ったハイゼンから見ると未知の料理であった。元は王族であったハイゼンですら知らぬ料理。これは実に興味深いものだ。


「店主、スプーンもフォークもないようだが?」


 ハイゼンが考え込んでいる横で、丼から顔を上げ、アダマントがそう青年に質問した。青年がカトラリーの類を持って来るのを忘れたのだと、そう思ったのだ。


「本来は割り箸を使って食べるのですが、お箸は使えますか?」


 青年は微笑を浮かべたまま逆にアダマントに質問する。


「オハシとは何だろうか?」


 恐らくオハシとは食器の類なのだろうが、しかしアダマントはそんなものは知らない。ナイフでもフォークでもスプーンですらもないものなど存在するのかと困惑するばかりだ。


「ああ……。これのことです。こう……」


 と、青年はおもむろに卓上に置いてあった、何に使うのか分からなかった木の棒の束から一本を手に取った。そして、ハイゼンとアダマントの前で実演するよう、手にした木の棒を割れ目に沿ってパキッと2つに割って見せた。


「割って、この2本の箸で料理を掴んで食べるんです」


 言いながら、エプロンのポケットにオハシなる木の棒を差し込む青年。


「それは何ともまあ……」


「面妖だな……」


 明らかな異文化。カテドラル王国の文化ではないのは勿論だが、そもそもからしてこの大陸の文化ではない。ハイゼンの認識では、どんな国でも普通はナイフやフォークを使って食事をする。南方には未だ食器を使わず大きな葉に料理を盛り手掴みで食事をする文化があることも知っている。だが、どの国にも棒を使って食事をする文化はないし、歴史書にも棒で食事をする民族の記述はない。故に異文化。恐らくはカテドラル王国とは国交さえない別の大陸の文化だろう。ということは、この青年はその別大陸からはるばるここまで旅をしてきたということだろうか。そこらへんの事情は後々聞けばはっきりするだろう。

 いずれにしろ、興味の尽きない店である。


「お箸を使うにはある程度練習が必要だと思いますので、フォークをお出ししましょうか?」


 オハシを前に呆然とする2人に苦笑し、気遣いから青年がそう申し出てくれた。


「いや、私はこのオハシとやらを使ってみるぞ」


「私はフォークを頼む」


 オハシに興味が湧いたハイゼンはあえて提案を断り、馴れないことをするより慣れ親しんだスタイルで食べた方が良かろうと判断したアダマントはフォークを頼んだ。


「畏まりました」


 そう言って青年は厨房に引き返し、すぐに戻って来てアダマントにフォークを手渡した。


「ごゆっくりどうぞ」


 青年は丁寧にお辞儀をすると、また厨房に戻って行った。


「どれ……」


「食べてみますか……」


 ハイゼンは青年の実演を思い出しながらワリバシを手に取り、見よう見真似でパキリと割った。綺麗に割った青年とは違い、後ろの方が少し歪に割れてしまったがこれも愛嬌。


「まずはスープからであろうな」


 少々下品ではあるが、スプーンがないので仕方なく丼に直接口をつけてスープを啜る。


 ずず、ずずず……。


 瞬間、ハイゼンの舌の上で味覚の華が開いた。


「美味い……!」


 意識すらせず唸っていた。

 口内から鼻に抜ける芳醇な香り、まろみを帯びた柔らかな塩味、喉を通り胃の腑に落ちる温かさ。王宮で一流の美食を食べて育ったハイゼンをして、このスープはそれらを凌駕するものと言わざるを得なかった。何という美味さなのか。

 これは恐らく海産物由来の旨味。料理人に腕がなければ海産物は余計な臭みが出るものだが、このスープにはその余計な部分が全くない。一点の曇りなく澄み渡っている。

 スープを啜った時に輪切り野菜が一片ほど口に入ったが、これも歯ざわりがシャキシャキとし、程好い辛味が良いアクセントになっていた。


「これは何と……」


 見れば、アダマントもスープの美味さに声を失っていた。このスープの美味さを思えば当然のことだろう。

 不味くはない、きっと美味いだろうとはハイゼンも思っていた。だが、これは想像以上だ。王宮の料理人とてここまでの味を出すことは難しいだろう。こんな場所で思いがけずここまでの美味に出会えるとは。何たる僥倖だろうか。


「次は麺だな……」


 ゴクリと喉を鳴らし、丼を覗き込む。慣れぬオハシを歪に握りながら、どうにかこうにか先端に麺を引っかけ、それをツルツルと口に運ぶ。

 よくスープが絡んだ麺の味とコシのある噛み応え。平打ちが主なパスタとは違う細切りの麺の強い歯応えは実に面白く、噛めば甘みと共に独特な芳香が鼻に抜ける。それは何処か郷愁を想起させる、心を落ち着かせるような香りで、麺を飲み込んだ時、ハイゼンは思わず、


「ほ……っ」


と息を洩らしていた。

 一息ついた、とでも言えばいいのか、ともかく心に平穏をもたらす味である。これは久しくハイゼンに訪れることのなかった感覚である。心労に押し潰されそうになっていたハイゼンが最も求めていた心の平穏。それがまさか食べたこともなかった異国の料理によってもたらされることになるとは。不思議な巡り合わせである。

 スープと麺、少々の具。実にシンプル。しかして実に奥が深い。ソバとは、人生と同じ妙味が詰まった料理だ。何度でも言いたい、何たる美味であろうか。


 ずず、ずずず、ずずずず。


 ツルツルツルツル。


 ずずず………………。


 気が付けば、ハイゼンはあっと間にカケソバをたいらげてしまった。スープの一滴すら残さずにだ。


「………………美味かった。実に、美味かった」


 ふう、と息を吐き、満足そうに呟くハイゼン。

 ハイゼンの隣では、同じく食べ終わったアダマントが美味そうに水を飲んでいる。


「どうでしたか、うちのそばは? ご満足いただけましたか?」


 ハイゼンたちが食べ終わるタイミングを見計らっていたのだろう、水のおかわりを持って青年が厨房から出て来た。

 普段の険しい顔が嘘のように穏やかな笑みを浮かべ、ハイゼンは青年から水を受け取る。


「いや、満足、満足。店主よ、馳走になった。実に美味であった」


 言いながら、グビリと水を飲むハイゼン。カケソバの熱と未知の美味に巡り合った興奮で火照った身体に、冷たい水が染み渡るようだ。

 青年も嬉しそうに頭を下げる。


「ありがとうございます。しかしお客様方……」


 何だか含みのある様子で言葉を切った青年に、ハイゼンも何だろうかと顔を上げる。


「ん?」


「七味唐辛子を使われませんでしたね?」


 言われて、ハイゼンは何のことだろうかと首を傾げた。


「んん? シチミトウガラシ、とな?」


 ハイゼンの知らない言葉だ。アダマントの方に顔を向けると、彼も首を横に振った。


「はい。これです」


 青年は卓上に腕を伸ばし、ワリバシが収めてある筒の隣に置かれていた、何に使うのか分からなかった、赤い粉が詰まった謎の瓶を手に取った。 


「それが、何か?」


「これもまあ薬味なんですがね、そばの上に一振り、二振りするとまた一味違った味わいになるんですよ」


 にこやかに笑いながら、シチミトウガラシの瓶を卓上に戻す青年。

 ソバとは奥が深い料理だと思っていたが、どうやらハイゼンはまだまだその深奥を目にしてはいないようだ。


「何と! それはまことか!?」


 先ほどの興奮が蘇ったかのようにハイゼンは大きな声を出した。


「ええ、勿論です」


 そう言って頷く青年を見て、ハイゼンは決心を固めた。ソバというものは奥が深いだけでなく懐も深いものだ。ただ1杯のみではまだまだ底は見えないだろう。ハイゼンももう歳だが、胃にはまだ若干の余裕がある。ここで更にソバの深奥に一歩踏み込まず引くことは出来ない。老いても男。爪も牙も未だ折れてはおらず。男ならば突き進むのみ。


「おい、アダマント! もう1杯だ! もう1杯カケソバを頼むぞ! 良いな!?」


 ハイゼンの意気が伝わったのだろう、アダマントも苦笑しながら頷いた。


「仕方がありませんな。不肖アダマント、老骨に鞭打ってお付き合いいたしましょう」


 アダマントもやはり男。ハイゼンは満足そうに頷き、青年に向き直った。


「その意気や良し! 店主、カケソバのおかわりを頼む! 私にも、このアダマントにもだ!」


「畏まりました」


 青年はペコリと頭を下げると、早速厨房に向かって行った。

 その背を見送りながら、ハイゼンは次のカケソバはまだか、まだかと少年のように心を逸らせていた。


※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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