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名代辻そば従業員リン・シャオリンとまかないの肉巻きおにぎり

 早朝。

 店のガラス戸を布巾で拭きながら、シャオリンは外の景色に見入っていた。

 雪。一面の雪景色である。

 旧王都の近辺では、毎年年末に近くなると、こうして一夜でドサッと大量の雪が降るのだという。

 こうして雪が降るようになると、旧王城の兵士たちが大勢動員され、朝早く、まだ日も昇らぬ暗いうちから忙しなく通りの除雪に取りかかる。

 シャオリンは1年を通して温暖で雪の降らないデンガード連合、三爪王国の出身だから、雪を見るのは初めてだった。

 ルテリアの言うところによると、雪というのは地上で蒸発した水が天に昇り、それが凍って地上に戻って来たものなのだという。

 それが本当かシャオリンに調べる術はないが、このようなものが天から降ってくるのは不思議なものである。

 いつもの見慣れた街並みが、まるで白に塗り潰されたようなこの神秘的な光景。いつまででも見ていられそうな美しい光景ではあるが、しかしいつまでも見ていられるほど時間はない。もうそろそろルテリアとチャップが出勤して来て、店長が朝のまかないを出してくれる頃合だ。それまでにガラス戸の拭き掃除を終えなければならない。


「よいしょ、よいしょ……」


 そう呟きながら、手際良くガラス戸を拭いていくシャオリン。

 働き始めた当初はガラス戸ひとつ拭くのにも随分と時間がかかったものだが、この数ヶ月の労働で随分と慣れたものだ。ガラス拭きだけではない、もう皿も割らなくなったし、水や酒を零すこともなくなった。客前で話す時もつっかえたりしなくなったが、酔客の相手だけはまだ少し苦手だ。以前、酔った客にゲロをぶっかけられたことがトラウマになってしまったのだ。

 箱入り娘として王宮で大切に育てられたシャオリン。三爪王国を出るまでは労働をしたこともなく、最初は自分がまともに働けるのだろうかと不安だったのだが、成せば成るものである。

 自分で言うのも何だが、足手纏いが半人前くらいの戦力にはなっただろう。


 初めて故郷を出て、初めて1人旅をして、初めて働き、そして今日、初めて雪を見た。ここ数ヶ月の出来事は、シャオリンにとって生まれて初めての経験ばかりである。

 初めてと言えば、やはりオニギリのことは避けては通れないだろう。

 シャオリンが生まれて初めて、その美味に感動して涙を流した料理、オニギリ。ナダイツジソバとそこで働く優しい人たちとの出会い、そしてこのオニギリとの出会いは、シャオリンにとっての生涯の宝、他では得難いものだ。

 彼らと出会っていなければ、そしてオニギリと出会っていなければ今頃はどうなっていたか。街の片隅で物乞いのような真似でもするか、野山で無人島に流れ着いた遭難者のような生活をしていたのではないだろうか。どちらにしろ末路はロクなものではなかった筈だ。シャオリンは毎夜寝る前、この奇跡的な出会いに感謝してから眠りについている。


 初めて尽くしの数ヶ月を過ごしてきたシャオリン。今朝は初めて雪を見たが、今日の初めての出会いはこれだけでは終わらない。

 何と、店長が今朝のまかないに、これまで出したことのない新たなオニギリを出してくれるのだという。

 今現在、店長は厨房でその新たなオニギリを作ってくれている最中だ。

 店内に濃厚に漂う、ショウユの焦げたような香ばしく甘い香り。食べるどころか、まだ見てすらいないというのに断言出来る。このオニギリは確実に美味しい。それも、恐ろしく美味しいものだろう。

 一体、どんなオニギリが出て来るのだろう。王族の出としていささかはしたないかもしれないが、この匂いを嗅ぎ、妄想を巡らせるだけで口内に止め処なく涎が溢れてくる。


 と、そんなことを考えながらガラス戸を拭いていると、通りの向こうから店の方に来る男女の姿が目に入った。出勤して来たルテリアとチャップだ。

 彼らも合鍵は持っているが、シャオリンは先んじてガラス戸の鍵を開け、彼らを出迎える。


「おはよう、シャオリンちゃん。今日は冷えるわね」


「おはよう。夜の間に随分降ったみたいだけど、凍えなかったかい、シャオリンちゃん?」


 外の身を切るような冷気を伴いながら、ルテリアとチャップが白い息を吐きつつ店内に入って来た。

 店長曰く、店内はダンボウという魔導具によって暖かさが保たれているのだが、流石にガラス戸が開くとシャオリンの肌にも冷気が当たる。

 デンガード連合にいた頃には味わったこともないような寒さに身体を震わせながら、シャオリンは急いでガラス戸の鍵を閉めた。


「2人とも、おはようございます。大丈夫、龍人族の身体はヒューマンよりも頑丈だから、少し冷えるくらいはへっちゃら」


 改めて2人に向き直り、シャオリンも挨拶を返す。

 確かに昨夜は冷えたが、店長が気を使ってくれて、デンキアンカという足を暖める魔導具を貸してくれたのでぬくぬくと眠ることが出来た。

 デンガード連合では大陸の北方ほど魔導具が普及していないので、デンキアンカというものも初めて見たし使ったのだが、あれは実に良いものである。寒さに慣れていない南方人の冬の友だ。


「いやぁ、しかし今日もいい匂いするなあ」


 コートを脱ぎながら、クンカクンカと鼻を鳴らして微笑を浮かべるチャップ。

 将来は料理人志望なだけあって、やはり美味しそうな匂いには敏感なようだ。


「今日の朝のまかない、何だって?」


 ルテリアもコートを脱ぎながらそう訊いてくる。

 チャップのように厨房に立つ訳ではないが、彼女もこの香ばしい匂いは気になるらしい。


「新しいオニギリだって言ってた」


 シャオリンがそう答えると、2人は揃って喜色満面、笑みを浮かべた。


「おお、そっか! 新作かあ!!」


「やったやった!」


 余ほど嬉しいのだろう、チャップはガッツポーズを取り、ルテリアは小さく手を叩いている。

 彼らの気持ちはシャオリンにも分かる。昨夜、明日の朝は新しいオニギリを出すよと、店長にそう言われた時から楽しみで楽しみが仕方がなかったくらいなのだから。


「「店長、おはようございます!!」」


 笑顔を浮かべたまま、2人は厨房に入って作業中の店長に元気良く挨拶をする。

 元気な挨拶は毎日のことだが、心なしか、オニギリ効果で今日はいつもより気合が入っているのではなかろうか。


「はい、おはよう! もうすぐまかない出来るから、2人とも早く着替えておいで」


 作業の手は止めず、店長は顔だけ振り返りそう答える。


「「はい!!」」


 言われた通り、2人は厨房を通って従業員控え室の方に入って行く。


 まかないの前に作業を終えようと、シャオリンも作業に戻る。


 オニギリ、オニギリ、オニギリ。


 心の中でそう唱えながらガラスを拭いていくシャオリン。仕事を頑張った分だけこの後のオニギリが美味しくなる。そう思うと自然と作業の手にも力が入る。

 テキパキと手際良くガラスを拭いていき、丁度作業を終えたところで、


「朝のまかない出来たよ! シャオリンちゃん、手ぇ洗っておいで!」


 と言いながら、店長が厨房から顔を出した。

 ルテリアとチャップはもう着替え終えたようで、ちゃっかりと席に着いている。


「はい!」


 ようやく待ち望んでいたオニギリが完成したのだから、こうしてはいられない。

 シャオリンはすぐさま厨房に駆け込むと、急いで手を洗って席に着いた。


「はい、今日のまかない。肉巻きおにぎりと肉吸いだよ」


 そう言いながら、店長が3人の前にオニギリの皿とスープの器を置いていく。


「わあ……ッ!」


 眼前に置かれた美味そうな料理を見た途端、シャオリンは感嘆の声を洩らした。


 皿には3個のオニギリが乗っているのだが、見るからに普通のオニギリではない。中のコメが見えないほど厳重に豚肉が巻いてあり、その上からショウユがベースになっていると思われる、ぽったりとしたタレが塗られている。

 豚肉にはところどころ焦げが見えるのだが、これがまた良い塩梅に香ばしい匂いをさせている。恐らくは肉を巻いたオニギリを、焼きオニギリと同じように網で焼きながらタレを塗ったのだろう。

 香ばしく焼けた肉に、これまた香ばしく焼けたタレ。暴力的に美味そうな匂いだ。

 また、ニクスイと言って出されたスープにもたっぷりと肉が入っている。このスープはソバのスープに肉とネギを大量に入れて煮たもののようだが、これもやはり美味そうだ。きっとオニギリに合うに違いない。


「うわあ、肉巻きおにぎり! 大学の友だちと宮崎に旅行に行った時に食べた以来!」


「うおぉ、オニギリに肉を巻いたんですか!?」


 ルテリアとチャップも目を輝かせながら眼前の料理に見入っている。


「それに肉吸いってあれですよね? 確か大阪のうどん屋さんのやつ!」


 笑顔を浮かべたままのルテリアが顔を向けると、店長も嬉しそうに頷く。


「そうそう。本場の肉吸いは卵かけごはんと一緒に食べるらしいんだけど、せっかく良い肉があるからさ、肉巻きおにぎり共々作ってみたんだ。朝から肉ばっかりで申しわけないけど、何か作りたくなっちゃって」


 店長は申し訳なさそうに苦笑しているが、ルテリアはすぐさま「とんでもない!」と首を横に振った。


「お肉はスタミナの素! 大歓迎です!!」


 ルテリアが言うと、チャップも同意を示すように頷く。


「朝からがっつり肉が食えるなんて、むしろ贅沢ですよ! ね、シャオリンちゃん?」


 そう振られて、シャオリンも勿論だと頷いた。


「美味しいお肉もオニギリも大好き」


 身体が頑丈な魔族は、胃袋も勿論頑丈に出来ている。朝からたらふく肉を食ったところで重たいとも感じないし、胃もたれすることもない。肉だろうが魚だろうがいつ何時でも美味しくたいらげるのみだ。


「そっかそっか。良かった良かった。そんじゃ、食べよっか」


 店長も嬉しそうに笑いながら席に着く。

 これでようやく朝食にありつける。

 最初の頃、店長は自分のことは気にせず先に食べていていいと言っていたのだが、心情的にそういう訳にもいかない。4人揃っての食事は、今や慣習になってしまった。自分だけ先に食べたのでは極めて収まりが悪い。4人揃って食べるからこそ美味いのだ。


「「「「いただきまーす!!」」」」


 4人揃っていつもの言葉を唱える。この言葉は、店長の故国における食事に対する感謝の言葉だそうだ。ちなみに短い間だがルテリアも店長の故国で暮してたことがあるらしい。

 この言葉が宗教的なものなのか、それとも民族的なものなのかシャオリンには分からないが、料理や食材に感謝するというのは何となく良いことだというのは分かるし、何よりこの言葉は嫌いじゃない。


 たっぷりとタレが塗られた肉のオニギリ。これは手掴みでいくと掌がベタベタになってしまう。ここはハシでいくべきだろう。

 そう思って他の席を見てみると、3人もやはりハシを使っている。

 シャオリンも卓上の筒からワリバシを取ると、それをパキリと割って早速肉巻きオニギリに取りかかった。

 普通のオニギリよりはひと回り小さいが、それでも肉とタレによってずっしりと重いオニギリ。シャオリンはその確かな重さをハシの先で感じながら、オニギリを口元に運び、ガブリと豪快にかぶりついた。

 その瞬間である。

 ぽったりとした甘じょっぱい濃厚なタレの強烈な美味さが口一杯に広がり、咀嚼すると脂の乗ったバラ肉のジューシーな旨味とコメの優しい甘味が追いかけてくる。

 タレのベースはやはりショウユだが、それだけではない。この甘さは、どうやら砂糖が加えられているようだ。しょっぱいショウユに甘い砂糖の組み合わせ。本来なら味の方向性は正反対の筈なのに、この甘じょっぱさは何とも絶妙、調和してひとつの美味と化している。豚肉やコメとの親和性も抜群だ。


「あ~、美味しい!」


「んん! 濃いタレが絶妙だ!!」


 ルテリアとチャップもそれぞれ肉巻きオニギリの美味しさに感動の声をあげている。


「実は初めて作ったんだけど、美味しいなら良かったよ」


 シャオリンたちが美味そうに食べる姿に微笑みながら、店長はニクスイを啜っている。

 この完成度、この美味しさで作るのが初めてとは、流石店長だと言えよう。他の料理人ではこうはいくまい。


 シャオリンは夢中でオニギリをひとつ食べ切ると、次はニクスイに手を伸ばした。

 器に直接口を付け、ずずず、とスープを啜りながらハシで肉も口に入れる。

 煮込んだことで肉の旨味が濃厚に溶け出したスープはいつもの優しい味わいとはひと味違い、そこに野趣溢れる力強さが加わっている。

 いつものソバのスープも美味いが、このニクスイのスープもまた美味い。これは立派におかずを兼ねるスープだ。


「あ、そうだ……」


 ここでシャオリンはハッと思い付く。このニクスイ、シチミをかけても美味いのではないかと。

 デンガード連合では豊富な香辛料が使われた料理をよく食べていた。シャオリンはまだ子供ではあるが、デンガード連合出身なだけあって辛さには強い。

 卓上に置いてあるシチミの小瓶を手に取り、パパッと3振りほどニクスイにかけてから軽く混ぜ、もう一度スープを啜る。


「!」


 思った通りだ。やはり合う。いつもとはひと味違うと思っていたスープが、更にもうひと味の変化を見せた。


 オニギリを食べ、スープを啜り、またオニギリを食べる。

 今日はどちらを食べても肉、肉、肉だ。朝から何と美味で豪勢な、そして幸せな食事なのだろうか。

 肉巻きオニギリにニクスイ。どちらも初めて食べるものだというのに、まるで昔から食べていたかのように口に合う。


 シャオリンはこの店で最も年上だが、しかし最も人生経験が浅い。

 このナダイツジソバで働かせてもらえるようになってから初めて経験することばかりだが、未だ初めては尽きない。日々、初めての何かに遭遇する。

 初めてに遭遇するのは良いことばかりではない。初めて人にゲロをぶっかけられた時など泣くほど辛かった。

 だが、それでも、この初めてばかりの生活はシャオリンにとって楽しいものだ。日々働いて、腹を減らして飯を食う。そこに明確な生の実感がある。


 もうすぐ年末が訪れる。そして年末が過ぎれば新年が訪れる。

 王宮以外の場所で、家族以外の人たちと年末年始を迎えるのもまた初めてのこと。このナダイツジソバに、店長たちに出会えなければ、今頃は森か山でたった1人、冬の寒さに震えて泣きながら無為に時を過ごしていたことだろう。

 シャオリンは得難い出会いをした。得難い幸運を得た。この縁は何より大切にしなければならない人生の宝だということは、人生経験の浅いシャオリンにも分かる。

 こんな出会いがあるのなら、初めて尽くしの生活も悪くはない。たまにゲロをぶっかけられても、風呂に入って服を洗濯すれば翌日には綺麗さっぱりだ。


 来年はどんな初めてのことに巡り合えるのだろうか。

 そのことを考えると今から年明けが楽しみで仕方がない。


「……美味しい!」


 3個目のオニギリを口にしながら、シャオリンは満面の笑みを浮かべた。


※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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