モンク僧『拳聖』ザガンと乾きを癒す肉辻そば⑤
誰もが腹を減らす昼時。
ナダイツジソバの長大な列に並ぶこと30数分、遂にザガンとデュークの番が回ってきた。
「2名様ですね? お席空きましたのでどうぞ」
つやつやとした金髪が目に眩しいヒューマンの女性給仕がそう言ってザガンとデュークを店内に招き入れる。
あの自動で開閉するガラス戸の出入り口を潜り、2人は店内に足を踏み入れた。
他所では見たこともないU字のテーブルは満席になっており、客たちは一心不乱に食事をしている。
店内には何とも良い匂いが漂い、天井から魔導具で不思議な曲調の、しかし耳馴染みのする歌が流れている。
匂いの方は、恐らく海の魚と海草を煮出したものだろう。それに何かの発酵食品らしき匂いと、多数の香辛料が混ざった複雑な、そして食欲をそそる匂いもする。
「これがナダイツジソバか……」
店の外観も異質ではあったが、店内も負けず劣らず異質である。
だが、店内に漂うこの香り。デンガード連合育ちのザガンには馴染みのある、その身に染み付いていると言っても過言ではない香辛料の匂いを嗅いだことで、一気に期待が高まった。デュークの言う通り、ザガンの乾きと空腹を満たしてくれる美味なる料理にありつけるのではないかという期待が。
「あちらのお席にどうぞ」
給仕の女性に促され、2人は店の端の方の席に座った。最も端がザガンで、その右隣がデューク。その更に右は先客らしき若いエルフの女性だ。
彼女はおもむろに顔を上げると、デュークを見上げて、何故か一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。
「あれ、剣士さん? お久しぶりですねえ」
「ん? おお、いつぞやの……」
そう声をかけられたデュークもエルフの女性の顔を見て、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべる。
どうやらこの2人には面識があるようだ。
と、ここで給仕の女性が水の入ったコップを盆に乗せてやって来た。
「お水どうぞ。こちらサービスとなっております。おかわりも無料なので、遠慮なくお申し付けください」
水など頼んでいないのにな、と不思議そうに顔を上げたザガンの前に、そう言ってコップを置く給仕の女性。
「あ、ああ、ありがとう……」
言いながら、ザガンはまじまじとコップの水を見つめている。
まるで貴族が使うような透き通ったガラスのコップに注がれた、これまた濁りなく透き通った水。しかもただの水ではなく氷まで浮いている。
そろそろ冬に入ろうかという季節ではあるが、まだ水が凍るような時期ではない。ということは、この氷は魔法か、製氷の魔導具を使って作られたものなのだろう。
普通なら水にも料金を払わねばならないのに、まさかサービスで水を提供し、しかもここまで力を入れているなどとは思いもよらぬことである。
「それでは、ご注文お決まりになりましたらまたお呼びください」
そう言って別の席に接客へ行く給仕の背中を呆然と見つめるザガン。
最初から不思議な店だと思ってはいたが、どうやらかなり規格外の店のようだ。
唖然とするザガンを他所に、デュークとエルフの女性は久々の再会に会話が弾んでいるようだった。
「あれからお見かけしませんでしたけど、また来られたんですね」
「故郷に帰る途中だったのだが、思いがけず戻って来ることになってな」
「そうですか。前回食べたのはモリソバでしたよね?」
「そんなこと、よく覚えていられるな?」
「私のはそういうギフトですから」
「ほう」
「モリソバはナダイツジソバの基本ですけど、あれから新メニューも追加されましたから、今度はそういう応用にもチャレンジしてみてはいかがです?」
「ふむ、新メニューなあ……」
「ちなみに私のイチオシは最新メニューの肉ツジソバです!」
「肉ツジソバ?」
「近頃は肌寒くなってきましたからね。温かいソバにジューシーなお肉がたっぷり乗った肉ツジソバが染みるんです」
「ふむ、聞くだけで美味そうだな。どうだろうザガン殿、私はその肉ツジソバとやらを頼んでみようと思うのだが、貴公も同じものでよいか?」
会話の途中で、唐突にデュークが話を振ってきた。
「俺は何が何やら分からんのでお任せする」
2人が会話をする間、ザガンは手慰みにメニューを見ていたのだが、どの料理も全く見たことのないものだった。スープに沈む灰色の麺や、何故か麺だけが盛られたもの、何やら茶色いドロドロとしたものがかかった白い粒の集合体。いずれもザガンの知る料理からは逸脱しており、味の想像がつかない。
ヒューマンの国の肉というとパサパサしたものという印象があるが、スープの具であるならばその点もさして気にせず食べられるだろう。
ザガン1人であるならばこの中から山勘で頼むところだが、この店について一日の長があるデュークが選んでくれるのならそれに越したことはない。
「分かった。すまん、注文いいか?」
ザガンの意思を確認してから、デュークは給仕の女性を呼ぶ。
「はい、只今!」
駆け寄って来た給仕の女性にメニューを見せながら、デュークは肉ツジソバを指差した。
「この肉ツジソバというのを俺と彼に1杯ずつ頼む」
「かしこまりました。店長、肉辻2です!」
「あいよ!」
厨房の方から、青年らしき声で威勢の良い返事が来た。
「本日は店内混み合っておりまして、お料理の方、出来上がるまでもう少々お待ちください」
そう言って丁寧に頭を下げ、給仕の女性は厨房の方へ行ってしまった。
料理が来るまではまだしばらくかかるだろう。
デュークはエルフの女性と何やら話し込んでいるみたいだし、ザガンは改めてメニューを手に取り、じっくりと読み込んでみる。
何やら透明で硬い膜で覆われたメニュー。
ナダイツジソバという店名だけあって、メインメニューはやはりソバだ。このパスタとは色合いの違う、灰色の麺がソバそのものなのだろう。この色合いは一体何なのだろう。小麦の色とは思えないが、まさか本当に灰を混ぜて作っている訳でもないだろう。とすればザガンの知らない未知なる穀物を使っているということだろうか。
種類としては温かいソバと冷たいソバの2種に分かれるらしい。温かいソバはスープの具になっており、冷たいソバはスープに浸かっているものもあれば、何やら麺だけが盛られたものもあるようだ。
どちらも基本になっているのは麺とスープ、それに少々の付け合せのみで、その上に乗る具でバリエーションを増やしているらしい。ザガンが今回頼んだのは肉ツジソバという、肉と半熟の玉子、そして食べ物なのかも怪しい黒い紙が乗ったものだが、他にも不思議なメニューが沢山ある。
例えばコロッケソバ。この楕円形の茶色いものは何だろうか。パンに見えなくもないが、まさかスープの上にパンをそのまま乗せる訳もない。では一体何なのかというと、肉でも魚でも野菜でもないように見える。全くの謎だ。
それにこの冷しキツネソバ。この大きな茶色い三角形は何なのだろう。これについてはパンにすらも見えない。コロッケ以上に謎だ。
カレーライスについては麺ですらない。この白い粒に茶色くドロッとしたスープ。随分と見た目が悪いが、これはそもそも食べ物なのだろうか。
ワカメソバやホウレンソウソバはまだ分かるが、しかし他のメニューは理解の及ばない不思議なものだらけ。
この店は本当に大丈夫なのだろうか、とザガンの不安がまた再燃しかけたところで、先ほどの給仕の女性が早くも料理を持ってザガンたちの席にやって来た。
「お待たせいたしました。こちら、肉辻そばになります」
言いながら、彼女はザガンとデュークの前に料理が盛られた黒塗りの器を置く。
「ごゆっくりどうぞ」
丁寧に頭を下げ、女性は別の席に注文を聞きに行く。
その背中を見送ってから、ザガンは眼前の料理に向き直った。
つい先ほどまで鎌首をもたげていた不安も何処へやら、美味なる香りを存分に含んだ湯気がもうもうと立ち昇る器から目が離せなくなるザガン。
スープに沈む灰色の麺の上には、たっぷりの肉とトロリとした半熟の玉子、ひと掴みの海草とペコロスに似た、少し刺激的な匂いのする野菜、そしてあの謎だった黒い紙。香りからして、これもどうやら海草のようだ。海草を板状に乾燥させたもので、野菜の横に乗っている生の海草とはまた別物らしい。
それにこのスープ。今も店内に漂う魚と海草の香り、その正体はどうやらこのスープのようだ。ザガンの顔に当たる湯気がそう訴えているのだが、しかしスープの具としては魚の姿はないし、海草の香りも具として乗っているものとはまた別物である。恐らくはスープの味付けと香り付けの為だけに魚と海草を使い、その味と香りが十分スープに移った段階で魚と海草を取り除いたのだろう。普通であればそのままスープの具として食べるところを、何とも贅沢なことだ。
デンガード連合でよく食べられる、香辛料の刺激的な匂いではないが、それでも食欲をそそられるこの香り。ここまで食欲が湧くのは、ヒューマンの国に来て初のことではなかろうか。
これは辛抱堪らない。ザガンは器を持ち上げると、そのままグビリとスープを口に含んだ。
温かなスープが舌の上に流れ込み、ザガンの味覚を刺激する。美味い。塩味が尖っておらず、むしろ丸く、何ともまろやかで華やかなこの味わい。醗酵調味料らしき独特の芳香も加わったこの香りは何とも芳醇。その香りが鼻を抜けるだけでえもいわれぬ多幸感が湧き上がってくる。
「ぷはぁッ、美味い……」
器から口を離したザガンは、しみじみとそう呟いた。
ザガンの乾きを癒すよう、まるで染み込むように喉の奥へと消えていったこのスープ。初めて口にしたものなのに、何処か馴染みのあるような、或いは安心するような味である。ヒューマンの国に来て初めて『美味い』と、心からそう思えた。
これがナダイツジソバ。デュークが言う通り、確かに美味いし口に合う。この、身体に染み渡るような美味いスープがザガンの喉に潤いを与えてくれるような感じすらある。実に馴染む。
これならば毎日、いや毎食食べても飽きないだろう。何せ上に乗る具には複数のバリエーションがあり、しかも温かいものと冷たいものに分かれており選択肢が豊富なのだ、すぐ飽きるということはまずないだろう。
海産物という、ともすればすぐに臭みが出がちな食材を使っているのに嫌な生臭さも強い癖もない、万人受けするだろうこの味には脱帽である。まず間違いなく一流の料理人の仕事だ。
「はっはっは、そうか、美味いか。良かった、連れて来た甲斐があった」
ザガンの声が聞こえたのだろう、隣で麺の上の肉を突きながら、デュークが満足そうに笑っている。
「あ、ああ、美味い……。まさかこんなに美味いものがヒューマンの国にあるとは思っていなかった…………」
デュークの言葉を疑っていた訳ではないが、正直、ここまで美味だとは思っていなかったのだ。香辛料が貴重品として扱われ、デンガード連合のように市井に広く出回っていないヒューマンの国では味付けにも限界があるだろうと。
しかしながら、このスープはそんな懸念を見事に吹き飛ばしてくれた。文句なく美味い。
「私もデンガード連合に行ったことがあるから分かるが、あちらの料理はたっぷりの香辛料が刺激的で確かに美味い。だが、ヒューマンの料理とて美味いものはあるのだと、ビーストの貴公にそう伝えたかったのだよ」
そう言って朗らかに笑うと、デュークは美味そうに、ずるずると麺を啜り始める。
戦いでも料理のことでも、ザガンはデュークに見事してやられたという訳だ。
こいつは敵わないな、と苦笑してからザガンも彼に倣って麺に手を付けることにした。
側にフォークが置いてあるが、デュークを含め、店内にいる者のほとんどがハシを使っている。
リ・ショブンがウーレン王国一帯に伝えた異世界のカトラリー、ハシ。まさか彼の影響がこのような形でカテドラル王国にまで及んでいるとは思ってもみなかったが、しかし勝手知ったるハシがあるのは心強い。
ザガンは机上の筒からハシを取り出すと、それをパキリと割って早速麺に取りかかった。
熱々のスープの中から麺を掴んで持ち上げる。
すると、ほかほかとした湯気と共に、このソバなる麺の何とも独特な、しかし決して嫌ではない匂いが鼻に吸い込まれた。
ごくり……。
と、本能的に喉が鳴ってしまう。
ザガンは恐る恐る麺を口に運び、それを一気に、ずるるるる、と啜り上げ、咀嚼する。
細麺ながら何とも噛み応えのあるコシに、この鼻に抜ける牧歌的な香気。ほんのりと小麦の香りも感じるが、割合としては2割から3割といったところか。このソバというものはやはりザガンの知らない未知の穀物で作られているようだ。
「うん……うん……!」
この麺もまた美味。
スープをひと口だけ啜って口内のものを嚥下すると、一切喉に引っかかることなく、良き喉越しを感じながら麺が胃の腑へと落ちてゆく。
「ふぅ……」
強い酒を煽った時のように、思わず熱い吐息が口から洩れる。
恐らくはナダイツジソバで供される料理の基本がこのスープと麺なのだろうが、それらがきっちりと美味い。
基本に手を抜かないのは武術も料理も同様だが、ともすればそれはベテランになるほど忘れがちなことである。これはヒューマンだろうがビーストだろうが人種関係なく人間共通の悪い癖で、何事も馴れてくるとついつい手癖でやってしまうのだ。
だが、この店は、これを作った料理人はその基本に一切妥協していない。全てに手をかけ心を配るその人間性は、ザガンのような武人とは異なる生き様ながら尊敬に値する。
これは肉にも期待していいかもしれない。
「さて……」
次は肉を掴み上げる。この肉ツジソバの肉は豚肉のようだ。
豚も牛も鶏も魔物の肉も、ザガンはヒューマンの国に来てから幾度となく次こそはと期待を込めて肉を食ってきたが、そのいずれにも期待を裏切られた苦い記憶しかない。
どんな肉を食っても水分や油分が不足しているように感じ、パサパサで淡白な味わい。故郷ウーレン王国ではたっぷりの香辛料で味付けされたジューシーな肉を口にしていただけに、このパサパサ攻勢には辟易してしまった。
だが、この肉ツジソバの肉はどうだろうか。程好く脂が乗ったバラ肉を薄切りにしてひと口大に揃えている。何よりハシで掴んだ感触が柔らかい。
ザガンが肉食の鮫のビーストだからだろう、内に眠る獣性が刺激されたらしく、じゅるり、と、見ているだけで口内に涎が溢れ出す。そして本能が早く肉を食わせろと訴えてくる。
本能の求めに応え、肉を口の中に放り込み、咀嚼する。
すると、肉を噛んだその瞬間、舌の上を満たすように甘い脂が溢れ出した。
「何と!?」
ザガンは驚愕に目を見開く。
甘い豚の脂と、それに合わせた甘辛い味付け。食感も柔らかく、肉が薄いのに実にジューシー。
見事と、そう言う他はない。肉が本来持つポテンシャルを存分に引き出している。
デンガード連合のものとは異なる味付けながらも、これは確かに美味い。香辛料をふんだんに使った時のような華美なものではないが、しかしどっしりとした質実剛健な味付けだ。余計なものが一切ない。
この器の中の全部、何から何まで余すことなく全てが美味い。
肉と麺を一緒に食べてもやはり美味い。肉をスープで流し込んでも勿論美味い。玉子を崩せばまろやかな味が広がり美味い。付け合せでしかないと思っていた海草と野菜も味にアクセントを与えてくれて美味い。あの黒い紙ですら美味い。
どんな食べ方をしても、どんな順番で食べても美味い。
気が付けば、ザガンの器はいつの間にか空になっていた。
そして驚くことに、あれだけ苦しめられた筈の乾きを微塵も感じず、むしろ癒されているような気さえするのだ。きっと、満腹による多幸感がザガンのヒビ割れた部分に潤いを与えてくれたのだろう。
「美味かった……」
デュークに対する忖度など欠片もなく、本心からザガンはそう呟く。ここまで夢中になって食事をしたのは何時以来だろうか。少なくとも、大人になってからは初めてのことである。
まさか、いい大人が我を忘れるほどの美味がヒューマンの国に存在するとは。ザガンは世界の広さを、そして己が如何にちっぽけな存在であるかを思い知らされた気がした。
龍であろうが鮫であろうが、この広い世界の中では大差などない、どちらも等しく世界を泳ぐ者なのだと、この肉ツジソバにそう教えられたような気さえする。不思議なものだ。
敬意のこもった眼差しで空の器を見つめるザガンに、少し遅れて食い終わったデュークが声をかけてくる。
「どうかな? ヒューマンの国の料理も捨てたものではないだろう?」
「ああ、俺の負けだよ。このようなものはウーレン王国、いや、デンガード連合にもない。ヒューマンの国ならではの美味だ」
今ならごちゃごちゃ言い訳めいたことを考えることもなく、素直に己の負けを認められる。ヒューマンの国にも美味いものは確かにあった。
しかし、ザガンの言葉を受けたデュークは首を横に振り、ふ、と笑って見せる。
「なあに、料理の美味さは勝ち負けではないさ。世界各国に美味いものがあり、世の中に未知の美味は尽きない。それで良いではないか」
ヒューマンの料理は美味くないというザガンの思い込みを責めず、貫禄と余裕のある態度でそう言ってくれるデューク。これは彼の懐の深さである。
彼につられるよう、ザガンも、ふ、と苦笑した。
「まあな。別に作ったのもデューク殿ではないしな」
「それはそうだ! はっはっはっはっは!!」
ザガンが皮肉めいたジョークを飛ばすと、デュークは一本取られたというように大笑いし始めた。
その様子があまりにも可笑しかったので、ザガンも一緒になって笑う。
2人揃ってひとしきり笑っていると、いつの間にそこにいたものか、背後に給仕の青年が立っていた。
「あのう、お客様方……」
恐らくは見習いの料理人だろう、まだ20歳そこそこだろう茶髪の青年が、恐る恐るといった感じで2人に声をかけてくる。
「うん?」
「どうした?」
2人が揃って顔を向けると、青年は不安そうな表情のまま空になった器を手で差した。
「お召し上がりになられたソバの方はいかがでしたか?」
彼はどうやら、料理の感想を聞きに来たらしい。きっと、店長に聞いて来いと言われたのだろう。レストランだとこういうこともあるが、大衆食堂で店員がわざわざ料理の感想を聞きに来ることは珍しい。随分と熱心なことだ。
そういう、この店の熱心さが伝わったのだろう、デュークは破顔して頷いた。
「おお、これか! うむ、大層美味であったぞ! ソバも肉も申し分ない!」
「ああ。俺の知る限り、ヒューマンの国では一番美味い、極上の料理だった」
ザガンも笑顔でそう答える。無論、忖度などない本心の言葉だ。
「ああ、良かった……」
2人の言葉を聞いた青年は、緊張から解き放たれたように胸を撫で下ろし、ほっ、と息を吐いた。
一体、何がそんなに不安だったのだろう。ザガンとデュークが不思議そうに青年のことを見ていると、彼は苦笑いして後頭部をポリポリと掻きながら口を開いた。
「いやあ、お2人にお出ししたそのソバ、実は肉以外の調理は店長ではなくおれ……あいや、私がやったんですよ」
それを聞いて、2人は揃って驚愕する。
何と、この美味なるソバを見習いの青年が作ったというのだ。
「いつもならお客様にお出しするものは全て店長が調理するんですが、先日遂にカケソバの調理に合格点をいただきまして、こうして今日、初めてお客様に自分の作ったソバをお出しさせていただいたんです」
そう言って照れ笑いのような表情を浮かべる青年に言葉を返したのは、デュークでもなくザガンでもなく、それまで聞き耳を立てていたエルフの女性だった。
「え!? 今日のソバって全部チャップさんが作ったんですか!!?」
驚くエルフの女性に対し、チャップと呼ばれた青年は慌てて首を横に振る。
「いや、違いますって! あくまでお2人にお出ししたソバだけです。テッサリアさんが食べているソバも含めて、他は全部店長が調理したものですよ」
つまり、ザガンとデュークは奇しくもチャップ青年が作ったソバを食べた初めての客ということになった訳だ。
きっと、この青年も気が気ではなかったのだろう。どれだけ下積みの期間があったのかは分からないが、彼はこの日、この瞬間をずっと待ちわび、その為にずっと気を張っていた筈だ。ミスしてしまったらどうしよう、不味いと言われたらどうしよう、怒らせてしまったらどうしよう。そんなことを考えながら1日過ごしていたに違いない。
この青年は、独り立ちする為の第一歩を今日、この時に踏み出したのだ。
ザガンの境遇に置き換えれば、龍への道を歩み出した。
きっと、彼が歩む道は辛く険しいものとなるのだろう。何せ、これだけの美味を生み出す方法を余すことなく習得せねばならないのだ、並大抵の努力で出来ることではない。
言わば、若き小龍の誕生。今日はその記念すべき門出の日だ。彼は恐らく、今日のことを一生忘れることはないだろう。
「なーんだ、そうだったんですね。でも、チャップさんが作ってくれたソバを食べるの、私も楽しみです!」
そう言ってから、エルフの女性は途中になっていた食事に戻った。
「しかし見事なものだな。肉はともかく、ソバは前回食べた時と遜色がない」
空になった器に目をやりながらそう言うデュークに、チャップ青年は嬉しそうに頭を下げる。
「ありがとうございます。そう言っていただけると幸いです。自分のせいで店の味が落ちたなんて言われたら、店長に合わせる顔がないですから……」
と、ここで突然、
「チャップくん、早く厨房に戻って! 俺は天ぷらを揚げるから、その間にそばの方見てくれ!」
黒髪黒目の青年が厨房から顔を出し、大きな声でチャップを呼んだ。
きっと、彼が店長なのだろう。チャップ青年に声を飛ばしながら金属製のボウルを手に持って何かを掻き混ぜており、手を休める暇がないように見受けられる。
「はい、店長!」
チャップ青年もまた大きな声を返すと、改めてザガンとデュークに向き直り、慇懃に頭を下げた。
「それでは、私はこれで失礼致します! ありがとうございました!!」
空になった器を回収すると、2人に背を向け、小走りで厨房に向かうチャップ青年。
その眩しい背中を見つめながら、ザガンは己の若い頃のことを思い出していた。
ただ強くなりたいと己の拳足を磨く修行の日々。いずれ龍に到る者、小龍と呼ばれていたザガンは歴代の『拳聖』たちを師として、武術だけではなく様々なこと、それこそ己がどう生きるべきかということをも学んだ。
その中でザガンは確かに教えてもらった筈なのだ。ハッキョク拳最強の『拳聖』は龍を継ぐ者。そして次代の龍を育て、教え導く者なのだと。もう、ただ貪欲に強さを追い求めているだけでは駄目なのだと。
だが、ビーストが1番になれることを証明したいという妄執に囚われたザガンは、その継承という役目を怠った。ただただ強敵を求め、己が龍であることの証明を求めた。
デュークとの勝負を経て、彼との旅を通じ、そしてナダイツジソバのソバで満たされた今なら、それが誤った道だということが分かる。
壁際に立てかけてある、己の槍を見る。初代『拳聖』リ・ショブンの時代から代々受け継がれてきた槍。その柄には長大な龍が巻きつく装飾が施されている。先代の『拳聖』曰く、これはこの槍を持つ者が龍へと到った証なのだという。
この槍を受け継ぐ時、先代がこう言っていたことを思い出す。
「お前もこの槍を受け継ぐ龍を育て上げるのだぞ」
と。
ザガンは己が龍であることを疑っていたが、しかし、心の何処かではとっくに分かっていた。己はもうすでに龍なのだと。これ以上の力を求めれば龍ですらない、ただ他者を喰らって貪欲に力を求めるだけの怪物になり果てると。
ただ強さを求め、己を磨くだけの日々はもう終わりにしなければならない。ビーストであるザガンの寿命はあと10年かそこら。その10年の間に、槍を受け継ぐ次代の龍を育てねばならない。ザガンが師と仰いだ者たちが、リ・ショブンをはじめとする数々の先達がそうしてきたように、この連綿と受け継がれてきたものを己の代で止めてはならないのだ。
師から技を受け継ぎ、己の道を歩み始めたチャップ青年を見て、ザガンはそう確信していた。
「さて、美味いものも食ったし、そろそろ宿へ行くか、ザガン殿。夜にまた食べに来ようぞ」
満たされた腹を擦りながら、デュークはそう言って席を立とうとする。
このアルベイルの街で美味いものを食いながらザガンの乾きを癒し、調子が戻ったら改めて試合を行う。彼とはそういう約束をしていたが、しかしその約束は守れそうもない。
「いや、申し訳ない。俺はもう帰ろうと思う」
ザガンがそう言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「ん? 帰る、とは?」
「ウーレン王国にな。しばらく寺を空け過ぎたわ。今頃は弟子たちが待ち惚けているだろう」
ビーストは短命な人種で、しかもザガンはもう40という高齢なのに半年も拳林寺を留守にしてしまった。デュークの好意はありがたいが、これ以上時間を浪費している場合ではない。
「では、再戦はどうするのだ?」
「それも、申し訳ないが……」
そう言ってザガンが頭を下げると、デュークは眉間を揉みながら、ふうむ、と何やら考え込み始めた。
そして、ややあってから彼は名案を思い付いたとでもいうように顔を上げた。
「そうか……。ならば、こうしようではないか」
「ん?」
「私も一緒に行こうではないか、ウーレン王国」
「え!?」
この男はいきなり何を言い出すのか。
ザガンが驚きに目を見開くと、デュークは1人納得したふうにうんうんと頷いて見せる。
「私も故郷へ帰る旅の途中だが、なあに、別に急ぐ旅ではない。遠回りしたところでバチも当たらんだろう」
「いや、デューク殿?」
「故郷ならば貴公も本調子を発揮出来るだろうて。いや、その時が楽しみだな。ははは」
一体、何の為にわざわざウーレン王国に同行するなどと言うのか。
そう思っていたのだが、どうやら彼は彼で全力を出したザガンとの勝負を楽しみにしていたらしい。
「………………」
彼と一緒に旅をした3ヶ月で分かったことだが、このデューク・ササキという人物は結構強情な男だ。こうと決めたら譲らないところがある。
これは説得は無理だろうと、ザガンは半ば呆れながら無言でデュークのことを見つめていた。
まあ、達人との勝負を見れば、拳林寺の門人たちの勉強にもなるだろう。
そう己に言い聞かせて、ザガンは自らを納得させることにした。
それから更に半年後、ザガンとデュークはウーレン王国の地で後世に残る名勝負を繰り広げることになるのだが、それはまた別の話。
※西村西からのお願い※
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