名代辻そば従業員リン・シャオリンとまかないの焼きおにぎり
シャオリンがナダイツジソバで働くようになってから5日が経った。
働いてみて分かったことだが、この店はとても忙しい。
店を開けている時間は朝の9時から夜の9時までだが、それ以外の時間にもやることがある。朝早くから起きてその日の分の仕込みをし、同時に朝のまかないも作る。
店主であるフミヤが厨房で仕事をしている間、シャオリンとルテリアはホールと厨房の掃除、チャップはフミヤの手伝いだ。
そして朝のまかないを食べ終われば店を開き、そこから夜の9時まで働き詰めだ。
シャオリンはこうして働くこと自体が初めてなので、今もまだ作業の手付きがたどたどしい。水や酒を運べば10回に1回は零してしまうし、皿洗いをすれば日に1度は器を割ってしまう。
何も複雑なことはない単純作業なのだが、不器用なシャオリンにとってはとても難しく感じてしまう。
仕事をミスする度に自分の駄目さ加減が浮き彫りになるような気がして、シャオリンはすぐ落ち込んでしまう。店の裏で悔し涙を流したことも1度や2度のことではない。ほぼ毎日泣いているのではないだろうか。
働くことは難しい。決して楽しいことばかりではない。だが、それでも、ここで働けてシャオリンは幸せだと感じている。働くことは難しいことばかりだが、しかしここで働くのは少なくとも辛くはない。ここにいるのはとても温かくて優しい人たちばかりだ。フミヤもルテリアもチャップも、シャオリンがミスしても怒ったりはしない。無論、注意は受けるが、それも常識的な範囲に収まっている。決して理不尽なものではない。
たまに怖い人も来るには来るのだが、そういう人は何故か弾き出されるように店から追い出されて、以降2度と入店出来なくなる。これは店長であるフミヤのギフトによるものだそうだ。
働くことは楽しいことばかりではないというのは先にも述べたが、しかし全く楽しいことがないという訳でもない。むしろ楽しいことの方が多い。その筆頭が3食のまかないだ。
ツジソバで出るまかないはどれもこれもとにかく美味しい。王宮暮しで舌の肥えたシャオリンをして、これまで食べたこともないような美味なる料理の数々が途切れることなく提供される。
温かいソバ、冷たいソバ、そしてゴハンモノ。中でもシャオリンはコメを使ったゴハンモノが特に好きだ。
この店に来た時、初めて食べたのがオニギリだった。
フミヤに後から聞いたところによると、あれは悪魔のオニギリと呼ばれるものだそうだ。どうにも物騒な名前だが、別に悪魔の呪いがかかっているとかいう訳ではなく、悪魔的に美味しくて中毒のようにまた食べたくなってしまうという意味らしい。
あのオニギリを食べて以来、シャオリンはコメが、特にオニギリが大好きになった。オニギリとソバがあればそれだけで最高のご馳走になる。
今日の昼のまかないはシャオリンの要望もあってオニギリになった。それも普通のオニギリではなく、ヤキオニギリというものだ。
ヤキオニギリ。その名の通り、オニギリの表面を焼いたものだ。だが、ただ焼いたのではない、ショウユというとても珍しい調味料を丹念に塗りながら、金網の上に乗せて火で炙りながら焼くのだ。このヤキオニギリを焼く時の匂いが、何とも香ばしくてそれだけで食欲を掻き立てる。
フミヤがこのヤキオニギリを焼く間、シャオリンは皿洗いをしていたのだが、厨房中にショウユが焦げる香ばしい匂いが漂っていたので、次から次へ湧き出る生唾を飲み込むのが大変だった。
早く食べたい。まだかな、まだかな。そんなふうに気もそぞろに皿洗いをしていたのでまた器を割ってしまったのだが、それでも今日はそこまで落ち込んではいない。何故なら、この後にはヤキオニギリが控えているのだから。
そうして待つこと10数分、もう辛抱堪らなくなったシャオリンの耳に、待ちわびていたフミヤの声が届いた。
「シャオリンちゃん、焼きおにぎり出来たから先に休憩入りな」
「はい……!」
待ちに待ったヤキオニギリ。シャオリンは脱兎の如く洗い場を離れると、フミヤからヤキオニギリが3個乗った皿を受け取り、いつも従業員がまかないを食べている厨房の奥へ行った。
自分でコップに水を入れて、いよいよヤキオニギリと向き合う。
いつもながら均整の取れた三角形。いつもの、中に具が入った白いオニギリとは違い、全体にショウユが塗られて茶色くなっており、ところどころに少しずつ金網で焼いた跡、焦げがある。その焦げから漂ってくる焼けたショウユの匂いがまた香ばしいこと香ばしいこと。
チャップ曰く、ショウユは豆から作られる調味料らしい。シャオリンはボソボソした豆の食感があまり好きではないのだが、しかしこんなに美味しい調味料になってくれるのなら大歓迎だ。
焼き立てアツアツのヤキオニギリをひとつ手に取る。ヒューマンでは熱くて取り落としてしまうのだろうが、シャオリンは魔族最強とも言われる龍人族、皮膚の強さも尋常ではない。これくらいの熱さはへっちゃらだ。
「いただきます……!」
フミヤとルテリアの真似だが、食前の感謝の言葉を唱えてからヤキオニギリにかぶりつく。
瞬間、
バリッ!!
と、柔らかいコメとも思えないような音と、パリパリとした硬い噛み応えが歯に伝わってきた。
「ッ!」
いつもとはまるで違う食感に声もなく驚くシャオリン。だが、そのままバリバリと噛み締めてゆくと、中からいつものコメの柔らかさと甘さに加え、ショウユの塩味、そしてショウユを焼いたことによって生じた得も言われぬ香ばしさが鼻に抜けた。
「…………美味しい」
いつものオニギリとは違う一面を見せるヤキオニギリ。文字通り一味違う。
だが、その根本にあるコメそのものの美味さや、何処かホッとするような牧歌的な雰囲気は変わっていない。
オニギリはオニギリ。ショウユを塗ってもオニギリ。焼いてもオニギリ。
こんなに大胆なアレンジをしてもその美味しさの根底は変わらないのだからオニギリは凄い。
火傷しそうな熱さも何のその、シャオリンは勢いのままヤキオニギリを貪り食う。両手にヤキオニギリを持って右を齧り左を齧り。あっという間に2個のヤキオニギリを平らげてしまった。
手がショウユでベトベトになってしまったが、そんなものは少しも気にしない。オニギリは手掴みで食べるのが一番美味いのだから。
掌に付着したショウユをペロペロと舐めてから、最後の1個に手を伸ばすシャオリンだったが、ここで唐突に待ったがかかった。
「あ、シャオリンちゃん! ちょっと待って!」
その声でピタリと手を止め、顔を上げると、はたして、いつの間にそこにいたものか、ルテリアがこちらを覗き込んでいた。
器やらコップやらを満載したお盆を抱えているので、ホールから洗いものを持って来る途中でシャオリンがヤキオニギリを食べているところに遭遇したのだろう。
「ルテリアさん……?」
ルテリアは食器の山を流し台に投入すると、温かいソバ用の新しい器を持って来た。
「その焼きおにぎり、最後は出汁茶漬けで締めるといいわよ」
「ダシチャヅケ?」
唐突にそう言われ、しかしシャオリンは首を捻る。ダシとは、ソバのスープを作る時の元になるものだというのはフミヤから聞いて知っているが、それにしてもチャヅケとは何だろうか。
シャオリンが眉間にしわを寄せて不思議そうにしていると、ルテリアは苦笑しながら器を差し出してきた。
「ほら、これにおにぎり入れてみて」
「ん……」
何をするのかは知らないが彼女はナダイツジソバでの先輩、助言には素直に従うべきだろう。
シャオリンが言われた通りヤキオニギリの最後の1個を器に入れると、ルテリアはその器を持ってダシを煮ている鍋の方に向かった。
「で、ここにね、こう、お出汁をかけるの……」
言いながら、ルテリアはヤキオニギリにたっぷりとダシをかけ、そこに薬味のネギをひと摘みほど振りかける。
「あ……」
黄金のダシで満たされた器に沈むヤキオニギリ。そこにネギの白さが映えており、実に美しい。そして鼻孔に吸い込まれる湯気の優しく温かい香りが何とも食欲をそそる。これはまた美味しそうだ。
「はい、お箸。ちょっとずつお出汁を啜りながら、おにぎりを崩して食べてみて。とっても美味しいから」
「ん、ありがと……」
シャオリンが差し出されたワリバシを手に取ると、ルテリアはそのままホールに戻ってしまった。
シャオリンの方が80歳近く年上だが、ルテリアはまるで姉のように面倒を見てくれるし、優しく気も使ってくれる。
フミヤにしてもチャップにしても、このお店の人たちはみんなそうだ。とても優しく温かい人たち。そんな人たちがいるこの店がシャオリンは大好きだ。
この店で働くことが出来て、本当に幸せだと思う。仕事もせずぬくぬくと過ごしていた王宮では感じなかった、真っ当に生きている実感のようなものが湧いてくる。
ルテリアの優しさに触れて、思わず心が温かくなった。次はこの美味そうなダシチャヅケを食べて身体を温かくする番だ。
まずは、ずぞぞ、とダシを啜る。
カエシと合わせていないので口当たりが丸く塩味はそれほどでもないが、しかしダシ本来の華やかな風味を感じる。不思議と郷愁を感じるような、ホッとする味だ。
ダシと一緒に口に入ったネギの辛味もアクセントが利いており良い。
次はヤキオニギリだ。ルテリアはこれをちょっとずつ崩しながら食べるのが美味しいと言っていた。
「………………」
言われた通り、ヤキオニギリの先の方を一口分オハシで崩し、ダシと一緒に啜り込む。
ずぞぞぞぞ……。
瞬間、シャオリンは目を見開いた。
「んんん~ッ!」
口の中にものを含んでいるのでそう唸ったが、気持ちとしては「美味しい~ッ!」と言ったつもりだ。
ダシの水分によってほぐれたコメ、そしてダシに溶け出したショウユの旨味。これらが渾然一体となって激流のように流れ込んでくる。
ダシを吸ったことによってヤキオニギリのパリパリした感じは失われてしまったが、代わりにダシと調和がとれたものに変貌している。これがルテリアの言っていたダシチャヅケ。実に美味だ。
オニギリを少し崩しては啜り、少し崩しては啜り。そうやって夢中になって食べていると、その食べやすさも相まってものの3分もしないうちに全て平らげてしまった。
「ふぅ……」
ダシチャヅケを完食したばかりの口から、熱い吐息が洩れる。
今回のまかないも美味しかった。このナダイツジソバで食べるものは何でも最高に美味しい。それこそ王宮で出て来た料理よりも。
ナダイツジソバの料理は華美ではないし、大金を出さなければ手に入らないような食材を使っている訳でもないと、フミヤはそう言っていた。
シャオリンはここに来るまで、ソバやコメといったものは存在すら知らなかったが、フミヤ曰く、彼の故郷ではありふれたものなのだという。
そんなありふれた食材で王宮の料理長よりも美味しい料理を作るのだから、フミヤは凄い。そんな凄い人の店で働けて、そして毎日毎食こんなに美味しい料理を食べることが出来て、今のシャオリンは幸せだ。大して働きもせず王宮でぬくぬくしていた時よりもずっと幸せだ。
出来ることなら修行中の100年間、ずっとこの店にいたいものだが、そういう訳にもいかないだろう。
フミヤたち3人はヒューマン、魔族のシャオリンとは寿命が違う。
ヒューマンの寿命はどれだけ長生きしても100年弱。生まれたばかりの赤ん坊ならまだしも、出会った時点で彼らはもう成人しているから、この先100年も生きるということはないだろう。ということは、シャオリンは修行期間が終わるよりずっと前にここを出なければならないということだ。
働き始めたばかりで別離のことを考えるのは滑稽かもしれないが、その時のことを想像すると恐ろしくて涙が出そうになる。
この温かく優しい人たちとの別離、それが死別となればシャオリンはきっと立ち直れないほど悲しむことになるだろう。非業の死ではない、寿命による自然死だったとしても、その悲しみに耐えられるとは思えない。
この店の人たちにはいつまでも元気でいてもらいたい。その為にシャオリンに出来ることといったら、一生懸命働くことだけ。一生懸命働いて、少しでも彼らの力となる。それだけだ。
「ごちそうさまでした……」
フミヤやルテリアに倣って、シャオリンも食後の感謝の言葉を口にする。
これで夜までの活力を充填完了した。次のまかないの時間まで、先に触れた通り3人の為に一生懸命働くのみ。
ダシチャヅケによってポカポカと温まった腹を擦りながら、シャオリンは空になった器を持って流し台に向かった。
※西村西からのお願い※
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