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女公爵ヘイディ・ウェダ・ダガッドと最高に美味いビール⑤

 ヘイディがハイゼンといくつか言葉を交わしていると、2人の給仕が盆にジョッキとコップを満載して戻って来た。


「お待たせいたしました。こちらビールと……お水になります。お料理の方、注文決まりましたらお申し付けください。ごゆっくりどうぞ」


 言いながら、給仕の女性が黄金の液体で満たされたガラスのジョッキをヘイディたちドワーフの前に置いた。

 そのジョッキをまじまじと見つめるヘイディ。


 表の板ガラス同様、やはり濁りも気泡も歪みもない。均整の取れた、そして実用性を重視した質実剛健な形状。恐らくは型に流し込んで成形したのだろうが、それにしても実に見事。これぞ職人の仕事だ。ともすれば芸術品としても通用しそうなほど透明度の高いガラスを見事に実用品に落とし込んでいる。これを作った職人は、日常的に使うものの何たるかをよく分かっている。


 そして、その見事なジョッキに満たされた酒だ。きめ細やかなクリーム状の白い泡の下にはシュワシュワと気泡の立ち昇る、何の濁りもない黄金色の液体。一見するとエールだと思えるが、しかし全く濁りもなければ粒の欠片も沈んでいないエールなどあるだろうか。ドワーフのエールはストレンジャー直伝の手法を守っているだけあって、品質は最高峰だ。煮沸と濾過を繰り返して磨いた水を使うし、麦芽も最もエールに向いた品種を使っている。醸造は職人が付きっきりで作業し、樽や瓶に詰める時ですら片時も目を離さない。それでも、それでも僅かな濁りは取り除けないし、どうしても麦芽の欠片が混入する。出来上がったエールを更に濾過すれば粒も完全に取り除けるのかもしれないが、それをやるとエールの気が抜けるし、味わいが大きく損なわれてしまう。端的に言うと品質が劣化するのだ。だから、あえて濁りも粒も取り除かない。


 だが、このビールはどうか。ジョッキ同様、向こうが透けて見えるほどの透明度で麦芽の粒など欠片も見当たらない。だが、出来上がった酒を濾過した訳ではないことは、このひっきりなしに立ち昇る気泡と上面に溜まった滑らかな泡を見れば分かる。見た目は酷似しているが、これは確かにエールとは別物だ。


 ゴクリ、と意識せずにヘイディの喉が鳴った。このビールとやら、実に美味そうだ。いや、確実に美味い。

 辛抱たまらず、ジョッキを手に取る。


「うおッ、冷てぇ!」


 その冷たさに思わず驚きの声が洩れた。ジョッキがキンキンに冷されている。恐らくは中のビールも冷たいのだろう。ドワーフだけと言わず、この世界の常識として酒は常温で飲むもの。冷すという発想そのものがない。そもそも何かを冷すという行為は、氷の魔法使いかそれ専用の魔導具を使わなければ出来ないことで、とても金がかかる贅沢なことなのだ。

 冷された酒を飲むのはヘイディにとって初めてのこと。一体、どんな味わいなのだろうか。


 僅かな逡巡を経て、しかし女は度胸とビールを喉の奥へと流し込む。


 ゴッ……ゴッゴッゴッゴッゴ………………。


「んんん!!!」


 飲みながら、ヘイディは目を見開いて唸った。

 まず滑らかでクリーミー、そしてほのかにフルーティーな泡が口内に溢れ、それを押し流すように苦味を伴ったビールが舌の上を滑り、怒涛のように胃の腑に落ちてゆく。一切の雑味がなく、冷したことで鋭いキレが生まれた味、舌を包むような濃厚なコク、そして嚥下する時の実に爽快な喉越し。その全てがエールを凌駕している。


「うんめぇーーーーーッ!!!!!」


 そのあまりにも隔絶した美味さを前に、ヘイディは獣じみた雄叫びを上げた。

 美味い。美味すぎる。これは単なる酒ではない、国王が言っていたように天上の雫だ。神の飲み物だ。


「うるさいぞ、公爵!」


 隣で水を飲んでいたハイゼンが抗議してくるが、そんなものは興奮しているヘイディの耳には入らない。


「何だい、こりゃあ!? これが酒だってんなら、今まであたいらが飲んできた酒は何だったんだい!!? 本当に馬のションベンだったってのかい!!!?」


 ヘイディは一息に捲くし立てた。

 これは間違いなくヘイディにとって生涯最高の酒。それはつまりドワーフのエールがこのビールに敗北したということに他ならないのだが、しかし自分の味覚に、何よりドワーフの矜持にかけて嘘をつくことは出来ない。国王は嘘を言っていなかった。これは確かにドワーフのエールよりも美味い、この地上で最高の酒だ。正直、ドワーフたちにエールの製法を伝授してくれたストレンジャーに申し訳なくなるくらいに美味い。これが僅差であったのなら悔しがることも出来ただろうが、ここまでの大差をつけられてはそんな惨めったらしい考えなど吹き飛んでしまう。


「公爵、食堂で汚い言葉を吐くな」


 嫌そうな表情でそう言うハイゼンだが、その声を掻き消すように、ビールを飲んだ護衛のドワーフたちが次々に声を上げる。


「うわあ、美味い!」


「何だよこれ、最高じゃねえか!!」


「エ……エールよりずっとうめぇ!!!」


 彼らも一介の酒飲み、嘘偽りのないビールに対する賞賛の声を上げている。言い訳はせず、負けは素直に認め、反省を次に活かす。それがドワーフの心意気だ。

 

 このビールがエールと同じ麦酒だということは王から聞いて知っている。ならばきっとエールに活かせる部分もある筈なのだ。今日はこのビールを大いに飲み、大いに学ばせてもらう。今はまだこのビールには及ばないが、それでもエールとて捨てたものではない。もっと美味くする方法はある筈だ。とりあえずすぐに真似出来そうなところでは、どうにかしてエールを冷やすことか。確か孫に氷魔法の使い手がいた筈だ。あの坊主に任せてみようと、ヘイディは考えを巡らせながらも手を上げて給仕の女性を呼んだ。


「ちょいと姉ちゃん、注文いいかい!?」


「はい、只今!」


「ビールのおかわりくんな!」 


 ヘイディが言うと、それに倣うように護衛のドワーフたちも声を合わせた。


「「「俺も!!!」」」


「それと何かビールに合う料理ないかい?」


 空きっ腹に酒ばかり流し込むのも空虚なものだ。この店は料理の方も美味いと聞く。酒と肴は切っても切れないものである、2杯目からは美味い料理を食べながら美味い酒を楽しみたい。

 ヘイディの注文に給仕の女性が僅かに逡巡する。


「うーん、そうですね……。でしたらカレーライスなど如何ですか? 香辛料を沢山使ったスパイシーなカレーライスに爽快なビール、合うと思いますよ?」


 ドワーフは職人の種族だが、何故だか誰も料理に手をかけようとしない。肉でも野菜でも適当にぶつ切りにして塩を振って焼くだけで済ます超手抜き料理が基本だ。贅沢をする時は塩に少しだけ香辛料を混ぜる。つまりドワーフにとっての贅沢な料理とは、香辛料を使った料理のことなのだ。そのカレーライスなる料理に香辛料がふんだんに使われているのであれば、これほど酒と相性の良いものもないだろう。


「じゃあ、そのカレーライスってやつ人数分くんな」


 ヘイディがそう注文すると、ハイゼンが慌てて手を上げて注文を訂正した。


「あ、私は今はカレーライスという気分ではないので結構。テンプラソバをいただきたい」


 護衛の騎士たちは訂正しなかったので、彼らはカレーライスでいいのだろう。テンプラソバなるものも美味いのだろうが、給仕のおすすめはカレーライス。今日はそれを食う。


「かしこまりました! 店長、ビール4、天ぷら1、カレー7です!」


「あいよ!」


 厨房のフミヤ・ナツカワ含め、店員の3人がそれぞれきびきびと動き始める。何せ8人分の注文を一気に捌くのだ。ゆっくりしている暇はない。


 ヘイディは鼻に抜けるビールの余韻を楽しみながら、憮然とした様子で隣に座っているハイゼンに声をかけた。


「なあ、ハイゼン?」


「何だ?」


「あんたの兄貴に言っといておくれよ、こんな美味い酒飲んだら否が応にもやる気が出てきちまったってさ。2割の増産くらい何なくこなしてやるさね」


 エールを超える美味い酒。ドワーフにやる気を出させるには十分な報酬だ。当面の仕事が終われば、職人衆の親方たちを連れてこの店に飲みに来るのもいいかもしれない。


「どちらにしろ帰路で王都は通るだろう? 自分で言ってはどうなのだ?」


「王都でのんびりしてる暇なんかないんだよ。やらなきゃいけないこともあるし、ここに来てやりてぇことも出来ちまったんだから」


 ビールを参考にしたエールの改良、今日見た魔導具の再現。大まかなところではその2つが今後やりたいことだが、それはきっとヘイディの生涯をかけた大仕事になるだろう。何せアーレスよりも技術的に遥かに進んだ世界の魔導具と、天上の雫が如く美味なる酒を目指すのだ。目標自体はシンプルでも、その道程は先が見えぬほど果てしない。もしかすると孫子の代まで仕事を引き継いでしまうかもしれない。だが、それでも火が点ってしまったこの熱き職人魂を静めることなど出来やしない。


 ヘイディのそういう情熱が分かっているのかいないのか、ハイゼンはただ静かに「ふむ」と頷いて見せた。


「ビールに刺激でも受けたか?」


「ビールだけじゃねえさ。この店はとんでもねえビックリ箱だったよ。この目で見て、この手で触れて、この舌で味わったもん全部刺激になったさね。こちとらちょっと前まで引退考えてたのにねえ、おかげさんであれもやりたいこれもやりたいと次から次へアイディアが湧き出てきちまう」


 本当は魔導具がもっと転がっていそうな厨房の中も見てみたいのだが、流石にそれは憚られた。厨房は料理人の戦場、余人が軽率に踏み入っていい領域ではない。職人は素人が土足で職場に入って来るのを嫌うもの。ヘイディも一介の職人なのでそれは分かる。


「やる気は結構。良かったではないか」


 ハイゼンにそう言われ、しかしヘイディは「ふん!」と鼻を鳴らした。


「バーロー、良くなんかねえよ。せっかく老後はのんびり過ごそうと思ってたのに、この分じゃ死ぬまであくせく働くことになっちまうよ」


 その後、ヘイディたちは初めて口にしたカレーライスのとんでもない美味さに驚き、それをビールで流し込む美味さに更に驚き、1時間で1人頭5杯ものビールを飲み干した。

 ウェダ・ダガッド領に帰ったヘイディたちがナダイツジソバでの美味なる出会いを自慢気に家族に話し、皆が悔しがったのは言うまでもない。


 この50年後、ウェダ・ダガッド領はカテドラル王国でもっとも栄えた最先端の都市になってゆくのだが、それはまだ当分先の話。


※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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