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元ダンジョン探索者ギルド職員チャップと決め手の冷しきつねそば④

「お水どうぞ」


 そう言ってルテリアが持って来てくれたのは、氷が浮いた水がなみなみと注がれたガラスのコップだった。


「これは……」


 度肝を抜かれたチャップは、ルテリアに礼を言うことも忘れてその水を凝視していた。

 もう夏も間近だというのに、水に氷が浮いている。この時期にこんなものを用意出来るのは高位貴族か王族のみ。恐らくは魔導具か氷魔法の使い手の仕事だろう。水自体にも濁りや臭みがない、透き通った無色透明。濁りも歪みもないガラスのコップも超一流の職人の仕事。買おうと思えば金貨が数枚は必要になる代物だ。大衆食堂では絶対に見ない代物だ。一流レストランでもここまでのレベルのものを用意出来るか怪しいものだ。


 どうして大衆食堂を謳う店でこんな代物が出て来るのか。まさかチャップの為だけに特別に用意したとでも言うつもりか。


 相手方の真意が分からぬまま、チャップは震える手でコップを手に取った。


 冷たい。


 氷のおかげだろう、まるで真冬の川に手を突っ込んだかのように冷たい。真夏の太陽が燦々と輝く季節にこれが飲めればさぞ幸せなことだろう。

 グビリ、と一口水を飲む。


 やはり、冷たい。


 そして水に何の雑味もない。川の水にしろ井戸水にしろ、普通は一度煮沸してから飲むものだが、それでも雑味が抜けないのが常だ。

 だが、この水はどうだ。何と澄んだ味。見た目と同じで何処までも透明だ。


「美味しい……」


 水が美味い。ただただ、そのことが衝撃だった。水は全ての食の根源。何の誤魔化しも利かないものがこんなにも美味い。チャップの生涯において、きっと、これが一番美味い水だ。


 チャップがただの水1杯に圧倒され、言葉を失っていると、不意に、横から声がかかった。


「お待たせいたしました、冷しきつねそばです!」


 ハッと我に返り顔を上げると、いつの間にか横にルテリアが立っており、チャップの前にゴトリとどんぶりを置いた。そして、もうひとつ同じどんぶりを横の席に置き、彼女はそこに座った。


「え? ルテリアさん?」


 チャップが不思議そうに見ていると、彼女が「えへ」といたずらっぽい笑みを浮かべる。


「朝のまかないです。私も食べさせていただきますね」


「あ、ああ、そういうことですか……」


「そうですそうです。チャップさんも食べてくださいね。では、いただきまーす!」


 卓上の筒から木片を取り出し、それを中央のスリットに沿ってパキッと割ったルテリアは、その2本の棒を使って器用に、そして豪快に音を立ててソバを啜り始めた。


 可憐な女性とも思えないような、ずぞぞ、という粗野な音を立て、しかし幸せそうに笑顔を浮かべながらソバを食べるルテリア。

 チャップもかつては食堂で働いていた男だ。その表情を見ているだけで分かる。あれは本当に美味いものを食べている人間の顔だ。


 料理を嗜む1人の人間として、チャップは真摯に眼前の料理に向き合う。ヒヤシキツネソバ。ともすれば黒にも近い濃い茶色のスープに沈んだ灰色の麺と、その上に主張強く鎮座する2枚の茶色い三角形。

 将来は料理人を目指しているだけあって、チャップはかなり食材には詳しい。この店のメニューを見て、ホウレンソウソバに使われているのが北の寒村でしか作られていない野菜、サヴォイだということも見抜いた。食材や料理を見る目は確かだという自負がある。だが、このヒヤシキツネソバに使われている食材は徹頭徹尾何も分からない。こんな紫がかった灰色の穀物も知らないし、スープに使われている海産物が何かも分からないし、そのスープに濁りが一切なく透き通っている理由も分からない。何より、この2枚の三角形は肉なのか野菜なのかすらも分からない。全くの謎だ。


 眼前のこれはチャップに対する挑戦である。お前も料理人を目指す者なら、この謎を解いてみろ、と。

 無論、フミヤ・ナツカワにそんな意図がないことは分かっている。だが、他ならぬ料理の方がチャップにそう語りかけてくるのだ。この程度のことも分からないで、このナダイツジソバで働くつもりなのか、と。


 自分より腕の劣る料理人には師事したくない、などと生意気な思い上がりをしていたのは他ならぬチャップ自身だ。その思い上がりを逆手に取られてチャップは今、試されている。ナダイツジソバに、そして眼前のヒヤシキツネソバに。


 思わぬ緊張感にゴクリと息を呑みながら、チャップは木片が詰まった筒に手を伸ばした。ルテリアがそうしていたように、スリットに沿ってパキリと木片を割って2本の棒にする。

 これもまた見たこともない不思議なカトラリーだ。ナイフでもフォークでもスプーンでもない棒2本で食事をするとは、一体何処の文化なのだろうか。少なくともこの国のものではあるまい。文化に共通点の多い周辺国のものでもないだろう。とすればフミヤ・ナツカワは遠い異国から流れて来た料理人ということだろうか。まさかとは思うが、別の大陸から来たという可能性もある。


 つまり、このソバというものはフミヤ・ナツカワの故郷で食べられている異国の料理なのだろう。国が違えば文化も違う。国同士の距離が遠ければその分だけ差異も大きくなる筈だ。きっと、このソバという料理はカテドラル王国では食されてすらいない食材を使用しているのだ。そうに違いない。


 全く未知の料理が目の前にある。料理人ならばこの状況に魂が滾らない筈がない。


 覚悟を決めて、棒をヒヤシキツネソバに突っ込む。まずはスープが絡んだ麺を不器用な手付きでどうにか掴み上げる。精密な細切りで形を揃えられたソバにスープがよく絡み、キラキラと輝いている。一流の料理人は味だけでなく料理の見た目にも気を使うというが、この麺はまるで宝石だ。ほんのりとした紫色は上品なアメジストを思わせる。

 その宝石のような麺を、これまた不器用な手付きでどうにかこうにか口に運ぶ。チュルチュルと唇で麺を手繰り、そのまま、ずぞぞ、と啜り込む。

 冷されて締まった麺の強いコシ、同じく冷されて際立ったスープの塩味、そして口内を満たして鼻に抜ける複雑な香気。麺は微かに甘く香りは何処か牧歌的で、スープは海産物特有の生臭さが一切出ておらず何処までも爽やかだ。


「美味い……ッ!」


 美味。何たる美味か。これまで食べたどの料理とも方向性が違う。ただ腹を満たす為だけに量ばかり多いのでもなく、ただ保存性を上げる為だけに固いのでも塩辛いのでもなく、ただ高価な食材を使ってポテンシャルのみで勝負をしているのでもない。食材の持ち味を適切な調理法で引き出し、調和させ、悪い部分を欠片も出すことなく極上の味に仕上げている。間違いなく一流の仕事だ。


 たった一口食べただけだが、チャップは理解してしまった。ナダイツジソバ、この店は間違いなく旧王都で一番の名店だ。カテドラル王国全体で考えても確実に上位に入る。

 そしてフミヤ・ナツカワ。彼は只者ではない。これまでチャップが出会った料理人の中で一番の腕を持っている人だ。この人の下で働くことが出来れば、チャップは確実に料理人としてもっと上の段階に進むことが出来るだろう。


 この時点でもう、チャップはナダイツジソバで働かせてもらおうと、そう決めていた。最初は向こうから働いてほしいと言ってきたかもしれないが、それは関係ない。チャップはこの一口でナダイツジソバに、フミヤ・ナツカワの腕に惚れ込んでしまった。であるならば誠心誠意頭を下げて、弟子にしてくださいと頼み込むのが筋だ。このヒヤシキツネソバを食べ終えた時、チャップは確実にそうするだろう。それはもう決心している。

 その為にも今はまず目の前のヒヤシキツネソバを味わい尽くさねばならない。出された料理は最後まで食べるのが人としての礼。尊敬に値するものには礼を以て接しなければならない。


 次はいよいよ謎だった三角形に取りかかる。

 2本の棒を使って三角形を持ち上げると、その棒の先に確かな重みを感じる。どうも長時間煮込まれたものらしく、棒で掴んだ部分からジュワジュワと止め処なくスープが溢れ、三角形全体がテラテラと輝いている。これは恐らく油の輝きだろう。だとするのなら、焼き目が見えないのは何故だろうか。まさか油に漬けたのだろうか。


 疑問はいくらでも湧いて出るが、見ているだけでは答えに辿り着かない。チャップは大きな口を開けて三角形にかぶり付いた。


 その瞬間である。


 ジュワワワワワッ!


 まるで焼き立ての霜降り肉のように、チャップの口の中に大量の汁が溢れた。

 甘辛くて濃い味の奔流が口内で暴れる。あのペラリとした三角形の一体何処に、ここまでの汁が隠れていたのだろう。まるで荒れ狂う味の大河だ。ソバのスープが味のベースになっていることは間違いないが、しかしそれより遥かに濃い味付けだ。スープを煮詰めて濃縮したのだろうか。それとも調味料を追加して味を濃く調節したのか。そこに油の旨味も加わることで味にコクが生まれ、この濃い味が奇跡的にまとまっている。

 ともすれば暴力的ですらある甘辛い汁が舌の上を流れて滝の如く喉の奥へと落ちてゆく。


「ッ!!!?」


 口にものを含んでいるので声も出せず、しかしチャップは大いに驚愕していた。

 ここまで乱暴に味覚を刺激する美味があるという事実を叩き付けられ、衝撃を受けたのだ。

 こんなものは今まで食べたことがない。完璧にチャップの既成概念を叩き壊された。

 チャップはこれまで、美味とは上品なものであると思っていた。繊細な食材を使い、繊細な技で繊細に仕上げる。それこそが美味の極地だと思っていた。

 だが、この三角形はどうか。繊細さや上品さとは対極にある豪快さと乱暴さで強引に、そしてストレートに味覚に訴えてくる。しかしながらこれもまた美味。間違いなく美味なのだ。


 ジュワジュワと甘辛い汁を吐き出す三角形を咀嚼して嚥下してから、チャップはワナワナと震えながら口を開いた。


「美味い……ッ! 何なんだ、これは!?」


 半分ほど欠けた三角形を見つめたまま声を洩らすチャップ。

 食べてみてますます謎が深まった。ソバとはまた違う弾力のある、この独特の食感。これは肉でも魚でもなければ野菜でもない。しからば何と言えばいいのかは未だ分からず。

 まるでこのヒヤシキツネソバに自分の無知を嘲笑われているようで悔しいが、しかしチャップは嫌というほど自分の不勉強、未熟さを思い知った。


 料理の世界は奥が深い。未知なるものはまだまだあり、世界に美味は尽きず。探求は生涯続く。独立などはまだまだ先の話だろう。今はただ、ひたすらにこのナダイツジソバから学ぶのみだ。


「それ、味が染みてて美味しいでしょ? お揚げさんですよ」


 唖然とした様子で三角形を見つめているチャップの姿が目に入って気になったのだろう、ルテリアが顔を上げてそう声をかけてきた。


「オアゲさん?」


 人どころか生き物ですらない食べ物に『さん』付けとは不思議なことだが、しかしこの三角形の圧倒的なまでの存在感、美味さを考えれば得心はいく。オアゲさん。そう称されて然るべきものだ。


 先ほどから驚きっぱなしのチャップが面白いのだろう、ルテリアは微笑みながら言葉を続けた。


「油揚げです、油揚げ。お豆の加工品です」


 その言葉を聞き、チャップはまたもや強烈な衝撃を受けた。


「豆!? これが……豆!!? 本当ですか!!!?」


 聞いたところで俄かに信じられるものではなかった。濃厚な味付けがされているので豆の風味がしないのは勿論のこと、豆らしき食感もないし、見た目に豆の面影を感じるところもない。それどころか豆の欠片すらも見当たらない。仮に豆をすり潰したのだとしてもここまで豆を感じなくなるものなのだろうか。というか、そもそも豆をどう加工すればこんなものが完成するのか。


 驚愕のあまり呆然とするチャップを見て、ルテリアも苦笑していた。


「驚きますよね? 私も初めて日本……いえ、店長の故郷で食べた時は驚きました」


 その言葉を聞いて、チャップは神妙に頷く。やはりフミヤ・ナツカワの故郷、つまり異国からもたらされた未知なる食材だった。あまりに異質で異端な料理。だが間違いなく一流の美味なる料理。1人の料理人として、これだけ好奇心が刺激されるものはない。


「信じられません……。一体、どうやって豆からこんなものを作るんですか?」


 チャップはルテリアにそう訊いてみたのだが、しかし彼女は途端に困ったような表情を浮かべる。


「あー? それは、私はちょっと知らないです……」


「そうですか……」


 彼女から身の上話を聞いたことはないが、しかし容姿を見ればここいらの出身だということは想像がつく。アブラアゲなるものの作り方を知らぬのも無理からぬことだ。


「ごめんなさい。でも、店長なら知ってる筈ですよ?」


 チャップは若干気落ちしていたものの、その言葉を聞いて気を取り直した。


「本当ですか!?」


「てんちょーう! ちょっといいですかー?」


 ルテリアがその場から立ち上がり、厨房にいるフミヤ・ナツカワに声をかける。


「んー? なーにー?」


 気負った自分とは裏腹に、ごくのんびりとした声が返ってきたもので、チャップは思わず苦笑してしまった。意地悪な言い方をすれば気を抜いているのだろうが、要は自然体なのだろう。


 この少し、いやかなり変わった店と料理、そして店主から多くを学び、いずれは立派な料理人になろうと、チャップは腹を決めた。


 これは余談だが、後の世でチャップが麺料理の大家と言われるようになるのは、あと20年ほど先の話である。


※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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