元ダンジョン探索者ギルド職員チャップと決め手の冷しきつねそば③
数百年前、とあるストレンジャーが1日の時間を正確に計る為の魔導具、時計というものを世界に広めた。
この旧王都アルベイルには世界最古の時計が現存している。教会が管理する時計塔だ。この時計は2時間ごとに大鐘楼を鳴らすように作られている。無論、夜中は安眠の妨げになるので鳴らさないのだが、それでも朝6時になると必ず鐘が鳴り始める。
今日も朝の6時に鐘がなり、その鐘と同時に多くのアルベイル市民が起床する。チャップも勿論起床する。
起きて、寝惚けまなこのまま厠へ行って用を足し、顔を洗って着替えを始める。そして朝食を摂りながらゆったりとした朝の時間を過ごすのが最近の日課だったのだが、今日は着替えが終わってすぐさま来客があった。
「チャップさん、おはようございます! ルテリアです!」
そう、ルテリアだ。朝も早くから元気そうにニコニコと笑っている。
彼女は確かに昨夜、チャップのことを迎えに来ると言っていたが、時刻はまだ6時半。恐らく彼女自身は6時の鐘より前に起きてここに来たのだろう。まさかこんなに早く来るとは思っていなかったので、玄関の扉を開けたチャップは半ば呆れてルテリアのことを見つめていた。
「…………早いですね」
たまたま起きていたから良いものの、自分がまだ寝ていたらどうするつもりだったのか。
と、そういう意地悪な言葉は飲み込み、チャップは静かに呟いた。
チャップの顔が若干引き攣っていることに気付いたのだろう、ルテリアは少しだけ申し訳なさそうな表情で頷いた。
「ごめんなさい。でも、朝の営業が始まってからだと店長もチャップさんとお話しする時間が取れないと思ったんです。だからご迷惑だとは思ったんですけど早朝に来させていただきました」
「その店長さんという人は、俺が来ることを知っているんですか?」
「ええ。店長、意気込んでましたよ。チャップさんの夢のことを伝えたら、その夢に恥じない美味いそばを出さなきゃなって」
チャップが料理関連のギフトを持っていないことはルテリアも伝えているだろうに、その店長はチャップの夢を馬鹿にすることなく受け入れてくれたようだ。
「そうですか……」
この時点でチャップはナダイツジソバに対して好印象を持ったが、肝心の料理を食べてみるまでは軽々に働かせてほしいとは言えない。働くのならやはり尊敬出来る、学ぶべきことの多い料理人のいる店で。贅沢なことを言っているのは自覚しているが、それだけは絶対に譲れない。
「さ、行きましょう、チャップさん。ご案内します」
ルテリアに促され、チャップも彼女に続き部屋を出た。
そうして歩くことおよそ30分。ルテリアに連れて来られた場所は、はたして、旧王城の城壁、その一角であった。
「着きましたよ、チャップさん。ここが名代辻そばです」
振り返ってそう言うルテリアに対し、しかしチャップは言葉が返せなかった。驚愕のあまり言葉を失ってしまったのだ。
中まではっきり見えるガラス張りの店。ランタンもないのに明るい店内。見たこともない異国の文字が大きく迫力ある筆致で書かれた看板。店の表に設置されたガラスケース内に安置された、料理を象った精巧な蝋細工の数々。
確かにレストランのように大きくはない。実にこじんまりとしている。だが、これほど豪奢な店は見たこともない。例えばあのガラスの壁一面だけでいくらするだろうか。恐らくは同じ規模の家を建てられるほど高いだろう。濁りも歪みもない、あんな大きなガラスを使っているのだから。店内を明るく照らしているのは恐らく魔導具だろうし、表の蝋細工も一流の職人の仕事だろう。
この煌びやかな店の何処が大衆食堂なのだろうか。明らかに一流レストランではないか。それも高位貴族が使うような。
「………………ルテリアさん」
店の前に2人並んで突っ立ったまま、チャップは静かに口を開いた。
「はい?」
「ナダイツジソバは一流のレストランなんですか?」
そう質問すると、ルテリアは凄い勢いで首を横に振った。
「とんでもない! 大衆向けの食堂ですよ。料理だってどんなに高くても1000コルもしないんですから。一番安いかけそばなんて360コルなんですよ?」
「360コル……」
流石にそれは安すぎる。大衆食堂でも1品頼めば1000コル近くはするし、成人男性が満腹になるまで食べれば3000コルくらいは使うだろう。蝋細工で見たソバは量もそこそこあった。あれが360コルだなどとはどういう冗談だろう。
いぶかしむチャップに、ルテリアは苦笑を向けた。
「確かに値段は安いですし大衆食堂ですけど、でも料理の味自体は一流です。そこは期待してくれてかまいませんよ!」
「え、ええ……」
「それよりも早く入りましょう、チャップさん。中で店長が待っています」
そう言ってチャップの腕を引いて入店するルテリア。
チャップは自動で開閉する魔導具のガラス戸に驚き、次いで店内に歌を流す魔導具に驚いた。ここまでふんだんに魔導具を使うような店は一流レストランでもそうそうないだろう。これが大衆食堂だと言うのなら、チャップが一流レストランだと認識していたものは大衆食堂以下ということになる。自分のルーツを卑下したくはないが、実家の食堂などこの店と比べれば掘っ立て小屋みたいなものだ。このナダイツジソバはチャップが常識として認識している大衆食堂とはかけ離れ過ぎている。
だが、何より驚いたのは店内に漂う香りだ。これまで嗅いだことのない良い香り。ふんわりと柔らかく鼻孔を満たす、肉でも野菜でもない香り。恐らくは海産物だろう。旧王都に海はないから保存用に干したものを使っているのだろうが、味気のない保存食でよくぞここまで丸く優しい香りのものを作れるものだ。
ただ、店内に漂う香りを嗅いだだけ。だが、それだけでチャップはこの店の料理人が唯ならぬ腕の持ち主だと見抜いていた。
ルテリアの話だと、この店では店主であるフミヤ・ナツカワという人物が1人で調理を担当しているのだという。つまり、その店主こそがこの匂いの元を生み出している料理人の正体。これまで名前を聞いたことはないが、恐らくは王都あたりの一流レストランか宮廷の厨房で腕を磨いた料理人だろう。
ここが本当に大衆食堂であったとしても、その腕は大衆食堂の料理人のそれとは隔絶した差がある筈だ。
ここは確かに大衆食堂かもしれない。店はそこまで大きい訳ではないし、料理の値段も安い。だが、その実、出している料理は一流レストランと遜色がない。まだ食べていないがそれは分かる。自身の料理人としての本能がそう言っている。
これは舐めてかかっては駄目だ。チャップはここで働くかもしれないのだ。これから店内で起こることの全てに敏感に注意を向けなければ。
チャップは途端に緊張感に襲われ、ゴクリと息を呑んだ。
「店長! 昨日言っていたチャップさん、お連れしました!」
チャップの緊張に気付いていない様子でルテリアが弾んだ声を厨房に飛ばすと、1人の男性が中から出て来た。歳の頃は20の半ばといったところか、黒髪黒目に少し日焼けした肌。このあたりでは見ない人種だが、チャップと同じヒューマンらしい。
これがフミヤ・ナツカワ。恐らくは外国の出身なのだろう。とすれば、修行してきたのは外国のレストランだろうか。
チャップが考え込んでいると、男性は微笑を浮かべながら慇懃に頭を下げた。
「いらっしゃいませ、辻そばにようこそおいでくださいました。当店の店長、フミヤ・ナツカワと申します。ルテリアさんから貴方のことは聞かせていただきました。チャップさんですね?」
一流店の従業員のような乱れのないキッチリとした礼。やはり当初の見立て通り王宮の厨房か一流レストランで修行した人なのだろう。
チャップも慌てて頭を下げる。
「あ、そ、そうです。ど、どうも、はじめまして……チャップです…………」
「何でも、当店で一緒に働いていただけるとか。近頃は忙しくて新たな従業員を探していたんです。助かりました」
フミヤ・ナツカワが言い終わるや、矢継ぎ早にルテリアが口を開いた。
「あ、でもですね、店長、チャップさんはいずれ独立される時の為の修行として働きたいそうですから、うちのおそばが美味しいというのは絶対条件らしいですよ?」
「え!? ちょ、ルテリアさん!!?」
チャップは慌てふためいて首を横に振った。
確かにそんなようなニュアンスのことは言ったかもしれないが、しかしそこまで偉そうに上から目線の言葉を口にした覚えはない。それではまるで、流しの一流料理人だ。
チャップは人よりちょっとだけ料理が上手いだけの一般人でしかない。
ルテリアの言葉を否定しようとして、しかしそれより先にフミヤ・ナツカワが言葉を続けた。
「ええ、勿論です。今日はまず、うちのそばを食べていってください。その上で、一緒に働けるかどうか判断していただければ」
「あ、あの…………」
何だか思わぬ方向に話が進んでいる。いや、流されている。このままではチャップは偉ぶった勘違い野郎という印象になってしまう。だが、どう言えば誤解だと伝わるのか分からずあたふたしている間に話が進んでしまうのだ。押しの弱いチャップの性格が災いしていると言えよう。
フミヤ・ナツカワはもう一度ニコリと微笑むと、右手を広げて空いている席を指した。
「ここで立ち話も何ですから、お席へどうぞ。ルテリアさん、お水お願い」
「はい、只今!」
フミヤ・ナツカワとルテリア。2人が途端にキビキビと動き始める。
結局、何の言葉も返せず誤解も解けず、チャップは促されるまま席に着いた。
「こちら、メニューになります。お好きなものを注文なさってください」
「これはご丁寧に、どうも……」
妙に光沢があって厚みと硬さのある、やけにリアルな料理の絵が描写されたメニューを手渡され、チャップはまじまじとそれを見てみる。
温かいソバのカケソバから始まり、ワカメソバ、ホウレンソウソバ、テンプラソバ。
冷たいソバはモリソバから始まり、トクモリソバ、ヒヤシタヌキソバ、ヒヤシキツネソバ。
ゴハンモノという謎のカテゴリーにはカレーライス。
全てチャップの知らない料理だ。ホウレンソウソバの上に乗っているのが北の寒村で作られているサヴォイかな、というのが辛うじて分かるくらいで、それ以外は本当に何も分からない。麺ですらパスタではないということしか分からない。まったくの謎だ。
どの料理も味の予想がつかない。一体どれを食べればよいのか。
チャップが眉間にしわを寄せて悩んでいると、フミヤ・ナツカワが苦笑しながら助け舟を出してくれた。
「お悩みなら、新メニューの冷しきつねそばなんかはどうですか?」
「ヒヤシキツネソバ……」
言われるがまま、メニュー上のヒヤシキツネソバの絵に目を向ける。
ソバの麺の上にドンと主張強く鎮座する、2枚の謎の三角形。深緑のペラペラした何かと、刻まれた野菜らしきものもそれぞれひとつまみ乗っているが、それも三角形の迫力に負けている。この茶色い大きな三角形は何者だろうか。
「もうそろそろ夏ですからね。これからの時期は冷たいそばが美味いんです。どうですか、召し上がってみませんか?」
「あ、では、それでお願いします…………」
この店のことはチャップには何も分からない。店主がヒヤシキツネソバをおすすめするということは、それが今最もベターな選択だということなのだろう。
チャップは黙ってフミヤ・ナツカワの言葉に従った。
ヒヤシキツネソバ。はたしていかなる代物なのか。そのことを考えるとドキドキするが、同時にワクワクもする。
未知の料理を口にするのは少し不安だが、しかし今は料理人を目指す者としての好奇心の方が勝っていた。
※西村西からのお願い※
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