名代辻そば
夏川文哉は新卒で入った会社を僅か3年で辞めた。
文哉の入った会社は、所謂ブラック企業だった。入社前からある程度の悪評は耳に入っていたが、あまり熱心に就職活動をしなかった文哉が唯一内定を取れた会社である。親の金で大学を卒業させてもらったのに、無職のまま実家に帰ることは出来ない。文哉にこれを蹴るという選択肢はなかった。
それから3年。文哉は心と身体をすり減らしながら昼も夜もなく、土日祝日もなく会社に言われるがまま働き続け、遂に身体を壊して入院、見舞いに来た親に泣かれて会社を辞めたのだ。
社会人になってからの3年間は働き詰めでプライベートな時間もほぼなかったが、楽しみが何もなかった訳ではない。たった一つだけではあるが、楽しみがあった。辻そばだ。
名代辻そば。所謂、立ち喰いそばの大手チェーン店だ。
24時間営業の辻そばは、文哉のように昼も夜もなく働き、食事時間も不規則なブラック企業勤めにとって心強い味方である。何だかほっとする雰囲気が漂う店内に流れる、妙に耳馴染みの良い演歌。深夜だろうが早朝だろうが、いつ行っても手頃な値段で温かいそばが食える。素朴なそばの香りと柔らかいつゆの味は激務でヒビ割れた心に染みた。会社勤めをしていた最後の方など、激務の合間に辻そばに行きたいが為に出社していたようなものだ。
働く大人たちにとっての癒しの場所、名代辻そば。最初は勤務が終わった深夜に飲食店を探していてたまたま見つけて入った店だったが、文哉は一発で辻そばの虜になった。会社の周辺には他にもそば店はあったが、文哉は頑なに辻そばに通い続けた。単純に、そして熱狂的に辻そばを愛していたからだ。
だから、会社を辞め、療養を終えると、文哉はすぐに辻そばでアルバイトを始めた。自分を癒してくれた辻そばで、今度は自分が働く大人たちに一杯のそばと癒しを提供したいと、そう決意したのだ。
それから更に3年間。かつてのブラック企業ほど過酷ではないが、文哉は必死に働いた。ただ、かつてのように会社に言われるがままではなく、自発的に目的を持って真摯な態度で働き続けた。その甲斐あって、文哉は勤務姿勢を評価されて3年でアルバイトから正社員に昇進、何と新店舗の店長を任されることになったのだ。
そして迎えた新店舗開店初日、夏川文哉店長が迎えた最初の客は、フルフェイスのヘルメットで顔を隠し、右手に包丁を持った物騒なお客様だった。
「金出せオラ!」
そう言う物騒なお客様に対し、文哉は顔を引き攣らせる。
「………………開店初日の一発目に強盗来るかよ、普通?」
この時はまさか、これが生涯最後の言葉になるとは、文哉自身思ってもみなかった。
※西村西からのお願い※
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